【完結】想いはピアノの調べに乗せて

衿乃 光希

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第三話 桐生蓮音(きりゅう れおん) ~噓と真実~

初恋

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 親戚のお姉さんみたいな感覚で香さんとの友人関係を続けていた僕が、この人が好きだと気がついたのは、中学二年生の十二月だった。

 香さんからメールが届き、クリスマスはイタリアでママと過ごす予定だったけど、日本に行くことにしたと書かれていた。彼と過ごすから会えるかどうかわからないけど、また連絡するね、とも書き加えられていた。

 香さんはよくモテる。
 僕が知っているかぎり、彼氏がいない時期がない。だけど、よく振られる。

 音楽家という仕事柄なのか、連絡をしても一週間二週間返信がないなんてざら。
 それに加え、香さん自身がずぼらというか抜けているというか、マメなところがないせいでもある。
 メールをしたこっちが忘れた頃にひょっこり返信があって驚くこともしばしば。

 僕も最初は戸惑ったけれど、癖をつかむと平気になった。
 緊急の場合は困るだろうけど、今のところ緊急だったことはないから、いつまででも待てた。

 彼氏となると、待つのは難しいのかもしれない。
 香さんに惚れていればいるほど心配になるのだろうし、そのうち我慢ができなくなるのかもしれない。
 愛情を感じられない、自分に興味がないんだと勝手に結論づけて、つらくなって別れを切り出す。
 香さんと付き合うには、まず自分はピアノより下なのだと理解しておく必要があると僕は思ってきた。

 香さんから、クリスマスの当日に連絡があった。
 あぁ、何かあったな。
 すぐにピンときた僕は、予定がなかったこともあって、香さんが泊まっているホテルにすぐに向かった。

 一流のホテルは未成年の僕が現れても訝し気な雰囲気すら出さず、扉を開けて迎え入れてくれる。
 ここには香さんへの訪問のために何度か来ている。
 もしかして覚えてくれているんだろうか。

 ロビーから直接エレベーターに向かう。香さんの部屋は二十階の五号室。
 チャイムを押したけど、反応がなかった。
 寝てしまっているのかな。しばらく待ってもう一回チャイムを押すと、ようやく扉が開いた。

 部屋側に開いた扉の向こうに、青ざめた顔の香さんがつらそうに立っていた。
「こんにちは。大丈夫、ですか」
 香さんは力なく首を横に振る。そりゃそうだろうな。振られたのかな。
 クリスマスに別れるなんて、なんて男だ。
 と見てもいない人に対して憤慨しながら、香さんの身体を支えてベッドに連れて行った。

 窓際のテーブルの上に、空き缶が五個転がっていた。
 カルピスサワーやらレモンチューハイやら書いてある。
 香さんはアルコールが得意な体質じゃない。普段お酒を呑まない人が五缶も空けて身体は大丈夫だろうか。

 ベッドに横たわった香さんは、枕を抱いて突っ伏している。
 吐くような素振りや体調が悪そうな感じはなかった。
 部屋を歩き回ってチェックをしたけれど、部屋の中で吐いた形跡もなかった。

 フロントに電話をして、二日酔いに効く薬を頼んだ。
 頭痛や吐き気の有無を聞かれ、香さんに訊ねると頭痛が少しするとのこと。合わない薬はないと伝える。

「薬すぐに持ってきてくれるって。あと水分をたくさん摂ってトイレ行けって」
 香さんからは小さく「うん……」と返事が聞こえた。

 すぐに持ってきてくれた薬を飲むため、香さんは枕を背もたれにして、上半身を起こした。
 こくんと飲み干すと、膝を曲げ掛布団を胸元まで手繰り寄せた。

「たくさん吞んだんですね」
「……うん」
「気持ち悪くないですか?」
「落ち着いた」
「良かった。無理をしないでください」
「……ごめん。ありがとう」
 今にも消え入りそうな声だった。

 これ以上お小言は聞きたくないだろう。僕が黙ると、香さんも黙っていた。

 しばらくの間無言だった。
 香さんには大学時代の友達が日本にいるのに、どうして今日僕を呼んだのだろう。
 失恋したときは女同士のほうが傷を癒せるんじゃないのかな。
 恋愛経験のない中坊なんて、何の役にも立たないのに。

「今ね、頭の中でブラームスのピアノソナタ三番が響いてる」
「激しくない?」
「うん。激しめ。全楽章脳内再生してもいい?」
「やめてください。三十分以上かかるじゃないですか」
 ブラームスのピアノソナタ第三番ヘ短調は第五楽章まである。
 ピアノを聴かせてくれるなら嬉しいけど、脳内再生なら勘弁して欲しい。
 やるなら一人のときにお願いします。
「……だね」
 うっすらと笑ったあと、寂しそうに俯いた。

「何があったんですか」
 話したくないのならこのまま黙っているだろうし、話したいのなら話しやすくしたほうがいいかな、と思って訊いてみた。

 香さんは小さく溜め息をついたあと、「浮気された」とぽつりと呟いた。
「どんな人?」
「日本人のサックス奏者。アメリカツアーの伴奏頼まれて、二か月毎日一緒にいた」

 三月から四月、小さなライブハウスやバーを回るライブツアーの伴奏を頼まれた香さんは、見聞を広げるために引き受けた。
 二か月で五十ステージ。クラシックに限らず、流行しているポップス、ジャズや即興など、ジャンルに捕らわれない演奏は、香さんにいい刺激を与えた。

 サックス奏者の男は、演奏に関しては自分にも他人にも厳しく、二世だからといって香さんをおもねるようなことはなく、容赦のない演奏を求めた。

 一旦ステージから離れると、優しくてスマートな対応で、香さんをエスコートする。
 そのギャップに香さんは惹かれ、二人は付き合い始めた。
 新婚夫婦に間違われ、香さんはこのまま男との結婚もありかと幸せを感じていた。

 ツアーが終わり、次の演奏会の準備のために香さんはアメリカを離れたが、月一は会うようにしていた。
 悪癖が顔を出しても、演奏に厳しい姿勢を貫いている彼ならわかってくれると思っていた。
 連絡が減っても愛情は変わらない。通話でもメールでも、最後には必ずアイラブユーを言うようにしていた。
 同じ過ちは繰り返さないように、香さんなりに努力をしていた。

 クリスマスが近づき、男は日本に帰国していた。
 香さんはイタリアの自宅にいてママと過ごすつもりをしていたが、ふといたずら心を起こし、日本に行くことにした。

 クリスマスイブの昨夕、日本に着いた香さんは、その足で男が一人暮らしをしているマンションに向かった。
 驚かそうと連絡はしていなくて、マンションの玄関で電話をかけた。
 男は出ない。メールをしても返事はない。メッセージを送っても既読にならない。

 留守かもしれないが、扉の前で待ってみようと、マンションを上がった。
 チャイムに反応はなかったが、物音がしている気配があり、ノブに触れると扉が開いた。
 玄関には男の靴が数足と、女物のヒールの高いロングブーツが置かれていた。

 香さんは靴を履いたまま上がり、廊下を進んだ。
 二部屋の扉があるうちのぼそぼそと話し声のような音がする部屋の扉を開けると、愛しい男と見知らぬ女がベッドで横になっていた。
 情事中ではなかったが、部屋には脱ぎ捨てた衣服が散らかっていた。

 飛び起きどうしてと尋ねてくる裸の男に、香さんは
「クリスマスを一緒に過ごそうと思ったんだけど、あたしは必要ないみたいね」
 と言いおいて、踵を返した。

「悔しかったから、そこら辺にあった服と女のブーツを持ってでたの」
「それどうしたの?」
「今朝、雨降ってたんでしょ。水溜まりに捨ててきた」
「すっきりしました?」
「してないけど、した」
「どっちなんですか?」

「女の服、ブランド物だったからね。ざまあみろって思いながら捨てた。あれ見つけたら発狂したんじゃないかな」
「でもさ、女のほうが何も知らなかったって可能性もあるよね」
「あ、ほんとだね。悪いことしちゃったかな」
「男が弁償するなりクリーニング代払うなりするでしょうから、少しは痛みを味わってるんじゃないですか」
「……そうだね」
 頷くまでに妙な間があった。男のことを考えたのかな。

「好き、だったんですね」
「もう好きじゃない」
 今度は早口で即答。
 まるで答えを用意していたみたいだ。
 これって僕の言葉を肯定してるってことだと思うんだけど、気付いていないふりをしてあげた。
 香さんには早く立ち直って欲しいし。

「そんな最低な男、早く忘れたほうがいいですよ。香さんならもっとすてきな人が現れます」
「そうだったらいいな」

 香さんは十一歳年上で、天真爛漫だけど頼りになる人だ。
 なのに失恋して傷ついている今は、すごく幼く見える。

「久しぶりに会ったのに、ごめんね。こんなところ見せちゃって。お腹すいてない? ルームサービスで好きなもの頼んでくれていいよ」
「僕は大丈夫ですよ。もともと食細いし」
「しっかり食べないとだめだぞ。ピアニストにだって体力筋力は必要なんだよ」
 急にお姉さんぶってきたけど、病人みたいな見てくれで力のない声で言われたって説得力ないよ。
「香さんこそ、しっかり食べないとだめですよ」
「……うん。わかってる」

 話し疲れたのか薬のせいなのか、香さんの瞼が閉じようとしていた。
「横になりましょう。僕も帰りますから」
「ほんとにごめんね。情けないね」
「気にしない。そういうときもありますよ」

 横になった香さんは、すぐに寝息を立て始めた。
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