33 / 70
第三話 桐生蓮音(きりゅう れおん) ~噓と真実~
蓮音の想い
しおりを挟む
テーブルの空き缶を袋に入れて、ごみ箱の横に置いておく。
枕元のサイドテーブルにホテルのメモ用紙を見つけて、書置きを残しておいた。
目が覚めたら、お腹が空いていなくても温かいものを摂って。それとアルコールはもう飲んじゃだめですよ。
帰る間際、香さんの顔を見る。
穏やかであどけない顔で眠る香さん。
この時、僕の中で激しい衝動が突き上げた。それまで感じたことのない、何にも例えようのない、抗い難い甘い誘惑。
はっと気がついたときには、僕の目の前に香さんの寝顔があった。
唇に感じるとてつもない柔らかい感触に気づき、我に返る。
眠っている抵抗のできない女性になんてことを。
僕はコートと鞄をひっつかみ、逃げるように部屋を飛び出した。
香さんに気づかれただろうか。怒っていないだろうか。
気になって気になって、いろいろと手につかなかった。
しばらく経ってクラスの一番仲の良いやつにぽろっと打ち明けてしまい、(もちろん相手が大澤香であることは隠して)
「お前それ最低なやつな」と笑われたけど、
「初チューはどうだったんだよ」と興味を持たれ、少しうざかった。
一週間ほどして、僕宛に香さんから荷物が届いた。
「心配かけてごめんね。もう大丈夫だよ。これお世話になったお礼ね」
と書かれたメモと、ブラームスのピアノ曲集の楽譜が入っていた。
これ以降、ブラームスが僕のお気に入りの作曲家になった。
僕は香さんが好きだ。
親戚みたいなお姉さんでも、アドバイスをくれる優しいお姉さんでもない。
異性として、香さんに恋焦がれている。
それが望みのない、失恋がわかっている恋でも、生涯この気持ちがなくなることはないだろう。
例え他に惹かれる人ができたとしても、香さんが一番であることはきっと変わらない。
異性としても友人としても、僕の中で香さんの存在はトップから転落はしないと自信をもって言える。
それからしばらくして、香さんは良縁に恵まれた。
仕事を通じて知り合ったドイツ人指揮者と二年半ゆっくりと愛を育んだ。
ピアニストとしても認められてきていて、響子さんの名前がなくてもCDは売れ、コンサートも精力的に行い、オケと共演もしている。
僕がコンクールで最優秀賞を受賞した五日後、日本にいた香さんとホテルのカフェで話をした。
あの日以来、僕は香さんが宿泊する部屋には立ち入らず、必ず外で会うようにした。
自戒と贖罪の気持ちからだが、香さんは僕の所業に気づいていなかったみたいで、急に変わった僕に戸惑った顔をしつつも、了承してくれた。
「大人になっちゃって寂しい」とも言われた。
あの時の写真が週刊誌に撮られちゃったわけだけど。
香さんの中で僕はいつまでも子供なんだなと、はっきり自覚した。
男として見てもらえはしない。あの日僕は性に目覚めたのに。
最優秀賞受賞を祝ってくれた日は、嬉しい日でもあり最悪の日でもあった。
香さんから満面の笑顔で告げられた。
「彼からプロポーズされたの。来年の春パーティをする予定だから、蓮音くんも来てね。詳しくはまだ決まってないけど、ヨーロッパのどこかになると思うの。今のうちに海外の空気に触れておくと受験にきっと役に立つと思うから、いろいろ案内してあげるね。お金の心配はしないで、滞在費はあたしが持つから。絶対に来てね。彼も蓮音くんに会えるのをとても楽しみにしているのよ」
この時、僕の視界から一瞬、色も音も消えた。
香さんが結婚。人妻になる。もう僕の手の届かない人になる。
いずれそうなるかもとはわかっていたけど、現実を突きつけられると、ショックが大きかった。
僕はブラームスと同じ恋愛歴を辿ることになるかもしれない。
ブラームスを演奏するにあたって、僕はその人生を調べた。
恩師シューマンの妻である十四歳年上のクララを慕い続け、生涯に渡って交流をもち、たくさんの女性と恋愛をしながらも結婚はしなかった。クララともプラトニックだった。クララの死から十一ヶ月後に、ブラームスも人生の幕を閉じる。
そんな人生も悪くない。
そばにいられなくても、困ったことがあったら力になって、香さんが頼りにしてくれるような存在になりたい。香さんをずっと見守っていきたい。
パーティで旦那になる男に会ったら、僕はこれだけは言ってやろうと決めている。
「香さんを悲しませたら、僕が奪いに行きます」
と、ドイツ語で告げてやるんだ。
ああ、でも警戒されて香さんに会えなくなったら困るから、
「香さんを幸せにしてください」って悔しいけどつけ足そう。
香さんの幸せを望んでいるのは真実だから。
枕元のサイドテーブルにホテルのメモ用紙を見つけて、書置きを残しておいた。
目が覚めたら、お腹が空いていなくても温かいものを摂って。それとアルコールはもう飲んじゃだめですよ。
帰る間際、香さんの顔を見る。
穏やかであどけない顔で眠る香さん。
この時、僕の中で激しい衝動が突き上げた。それまで感じたことのない、何にも例えようのない、抗い難い甘い誘惑。
はっと気がついたときには、僕の目の前に香さんの寝顔があった。
唇に感じるとてつもない柔らかい感触に気づき、我に返る。
眠っている抵抗のできない女性になんてことを。
僕はコートと鞄をひっつかみ、逃げるように部屋を飛び出した。
香さんに気づかれただろうか。怒っていないだろうか。
気になって気になって、いろいろと手につかなかった。
しばらく経ってクラスの一番仲の良いやつにぽろっと打ち明けてしまい、(もちろん相手が大澤香であることは隠して)
「お前それ最低なやつな」と笑われたけど、
「初チューはどうだったんだよ」と興味を持たれ、少しうざかった。
一週間ほどして、僕宛に香さんから荷物が届いた。
「心配かけてごめんね。もう大丈夫だよ。これお世話になったお礼ね」
と書かれたメモと、ブラームスのピアノ曲集の楽譜が入っていた。
これ以降、ブラームスが僕のお気に入りの作曲家になった。
僕は香さんが好きだ。
親戚みたいなお姉さんでも、アドバイスをくれる優しいお姉さんでもない。
異性として、香さんに恋焦がれている。
それが望みのない、失恋がわかっている恋でも、生涯この気持ちがなくなることはないだろう。
例え他に惹かれる人ができたとしても、香さんが一番であることはきっと変わらない。
異性としても友人としても、僕の中で香さんの存在はトップから転落はしないと自信をもって言える。
それからしばらくして、香さんは良縁に恵まれた。
仕事を通じて知り合ったドイツ人指揮者と二年半ゆっくりと愛を育んだ。
ピアニストとしても認められてきていて、響子さんの名前がなくてもCDは売れ、コンサートも精力的に行い、オケと共演もしている。
僕がコンクールで最優秀賞を受賞した五日後、日本にいた香さんとホテルのカフェで話をした。
あの日以来、僕は香さんが宿泊する部屋には立ち入らず、必ず外で会うようにした。
自戒と贖罪の気持ちからだが、香さんは僕の所業に気づいていなかったみたいで、急に変わった僕に戸惑った顔をしつつも、了承してくれた。
「大人になっちゃって寂しい」とも言われた。
あの時の写真が週刊誌に撮られちゃったわけだけど。
香さんの中で僕はいつまでも子供なんだなと、はっきり自覚した。
男として見てもらえはしない。あの日僕は性に目覚めたのに。
最優秀賞受賞を祝ってくれた日は、嬉しい日でもあり最悪の日でもあった。
香さんから満面の笑顔で告げられた。
「彼からプロポーズされたの。来年の春パーティをする予定だから、蓮音くんも来てね。詳しくはまだ決まってないけど、ヨーロッパのどこかになると思うの。今のうちに海外の空気に触れておくと受験にきっと役に立つと思うから、いろいろ案内してあげるね。お金の心配はしないで、滞在費はあたしが持つから。絶対に来てね。彼も蓮音くんに会えるのをとても楽しみにしているのよ」
この時、僕の視界から一瞬、色も音も消えた。
香さんが結婚。人妻になる。もう僕の手の届かない人になる。
いずれそうなるかもとはわかっていたけど、現実を突きつけられると、ショックが大きかった。
僕はブラームスと同じ恋愛歴を辿ることになるかもしれない。
ブラームスを演奏するにあたって、僕はその人生を調べた。
恩師シューマンの妻である十四歳年上のクララを慕い続け、生涯に渡って交流をもち、たくさんの女性と恋愛をしながらも結婚はしなかった。クララともプラトニックだった。クララの死から十一ヶ月後に、ブラームスも人生の幕を閉じる。
そんな人生も悪くない。
そばにいられなくても、困ったことがあったら力になって、香さんが頼りにしてくれるような存在になりたい。香さんをずっと見守っていきたい。
パーティで旦那になる男に会ったら、僕はこれだけは言ってやろうと決めている。
「香さんを悲しませたら、僕が奪いに行きます」
と、ドイツ語で告げてやるんだ。
ああ、でも警戒されて香さんに会えなくなったら困るから、
「香さんを幸せにしてください」って悔しいけどつけ足そう。
香さんの幸せを望んでいるのは真実だから。
10
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる