上 下
7 / 17
7.

初めてのケンカ、初めての仲直り、初めての……

しおりを挟む
私は私の家が好きではない。
両親の仲が悪いからだ。

私の父は銀行員で、二年ぐらいの間隔で転勤を繰り返している。
両親は、単身赴任というものを好まない。
〝家族は一緒にいるべきだ〟みたいな、こだわりがあるのかもしれない。
父親が転勤するたびに家族みんなで引っ越すのだった。
そして、引越すたびに生活が真新しくなる。 
それに慣れた頃にはまた転勤だ。

両親はそんな日々に疲れているみたいだ。
毎日余裕がなさそうで、ちょっとしたことでケンカばかりしている。

二人そろってそんなふうなので、自分たちのことでいっぱいいっぱいだ。
私のことまで気にかける余裕がない。
だから、私はいじめを受けても両親には黙っていた。
  
たぶん、私のことは両親より〝晴空〟の方がよっぽど知っている。

晴空。
夏川くんの名前だ。

晴れて、澄み渡った空。
夏川くんの笑顔を連想させる名だと思った。

晴空。

今、私はゲームをプレイしていた。
コントローラーを操作しながら、隣にいる晴空の息遣いや指の動き、晴空の発する空気を感じていた。

晴空と私は、今日ケンカをした。
でも、そのあとすぐに仲直りをした。
仲直りしたあとは、二人の間にある何か(空気みたいなもの? よく分からないけれど)がグッと縮まった気がした。

晴空。
彼をそう呼んでみたかった。何気ないような、自然な雰囲気で。
私は心の中でその名前をつぶやく。
だけど、心の中でつぶやいたつもりが、声に出してしまっていたらしい。
晴空が私に振り返った。

そして、照れ臭そうに頬を赤くして、
「なんだよ」
と、言った。

なんだか胸がむずむずした。

私も照れ臭くて、
「なんにも言ってないよ」
と言った。

「言っただろ」
と晴空が私を見つめて笑う。

「もうほら、画面見てないと負けちゃうよ」

「目をつぶってても、海音相手なら勝てるよ」

そう言って二人でクスクス笑った。

そんなやりとりの全部が、こそばゆかった。

    •      •      •

晴空のお父さんが家に帰ってきて、車で私を家まで送ってくれた。

晴空のお父さんは、病院で介護士をしている。お母さんはお父さんと同じ病院で看護師長をしていた。
職場結婚らしい。
結婚前は同じ部署だったが、今は別々の部署に配属になっているそうだ。

父方のおじいちゃん、おばあちゃんは別居。

母方のおじいちゃんは四年前に心不全で亡くなっている。亡くなった時、八十二歳だった。

おばあちゃんは現在八十歳で晴空と同居している。アルツハイマー型認知症で、デイサービスとショートステイを利用しているそうだ。

デイサービスっていうのは、認知症なんかの理由でお世話がいる高齢者を、昼間の間、お世話してくれる場所らしい。

それから、ショートステイっていうのは、施設で何日かお泊まりをさせてくれるサービスのことだそうだ。

おばあちゃんは、ここニ週間はショートステイを利用していて家にいないらしい。

おばあちゃんが家にいる時は、お母さんとお父さんで分担して介護を行なっている。
家事も夫婦で協力しあって切り回している。
時には、晴空もおばあちゃんの世話や家事を手伝うことがあるそうだ。

あと、晴空にはもう一人家族がいる。
二歳年上の姉だ。同居はしていない。
発達障害を持っていて、中学生の頃にはそれが理由でいじめられていた。今はアメリカに住んでいて、アメリカの学校に通っている。そこでは発達障害への理解が日本より進んでいて、毎日楽しくすごしているらしい。

いろんな事情を抱えていたんだなと思った。
いつもニコニコしてるから、全然そんなふうに感じなかった。
こういう時になんて言えばいいか分からなくて、
「いろいろと苦労してきたんだね」
と私は言った。

私は後部座席に座っていて、隣には晴空がいた。晴空は頭の後ろで手を組んでこう言った。

「苦労?
そうなのかな?
そんなふうに思ったことはなかったな。
確かにばあちゃんの世話で忙しいなと思ったことはあるけど、苦労してるとは思ってないよ。
たぶん、父さんもそう言うと思うよ」

晴空のお父さんが車のハンドルを操作しながら、バックミラー越しに後部座席へ笑いかけてくる。
優しそうなお父さんだと思った。

「我が家にとったら、我が家の日常が普通だしね。
姉ちゃんの発達障害も、姉ちゃんの個性くらいにしか思ってないよ。
おばあちゃんも同じ家にいて、当たり前に一緒に暮らしてきたから、おばあちゃんの世話も生活の一部だって思ってる」

晴空はフロントガラスの向こうを眺めながら、そんなふうに話していた。

「それに、母さんも父さんも、生活の中で無理はしてないと思うよ。
ばあちゃんのお世話は、デイサービスやショートステイのおかげでだいぶ楽になったし。
それにさ、世話する方が大変そうな顔してたら、世話される方も楽しく生きられないよ」

晴空のお父さんがそれを聞いて、
「分かったようなことを言ってるな」
と言って笑っていた。

「まあ、でも、父さんは別の意味で苦労してるかな。
母さんの尻にしかれてるからね」

お父さんがコラッと冗談っぽく怒る。

「晴空のお母さんって、どんな人?」

そう尋ねると、
「優しいよ」
と晴空が答えた。

「それに強い。肝っ玉母ちゃんって感じ。それから、怒るとものすごく……」

この先はお父さんと声を合わせて言った。

「怖い!」

そして二人でおかしそうに笑っていた。

晴空は、今日の私とのケンカのことなんて、もうすっかり忘れたみたいに、いつもの朗らかな顔をしていた。

車は私の家ーーまたいつ転勤になるか分からないので借家だーーにどんどん近づいていく。
もう、あと一つ信号を超えたら、すぐに私の家の屋根が見えるだろう。

家が近づくほど、辺りの景色が寂しく見えた。空は昼間の明るさを失って、徐々に夕方が近づいてくる。
子供たちが数人塊になって歩いているのが見えた。
「またな」
と言い合って、手を振り合っている。

子どもたちの「またな」という声と、まぶしいような笑顔が、残像になって心に残った。

「あのさ……」

私がつぶやくと晴空がこちらに振り返った。

車の中は空気の密度が濃い。
教室よりずっと狭いからかもしれない。
隣り合っていると照れ臭い。私は視線をそらして窓の外を眺めた。

「今日は、晴空に怒っちゃったけど、その……」

そこから先の声は、聞こえるか聞こえないかくらいの、ギリギリの声量になった。

「ごめんね。それから、苦手なことにもちゃんと向き合わせてくれてありがと……」

何にも返事がないので、晴空の方におそるおそる振り返った。

すると、晴空はポカンとした顔をしていた。それから、急に吹き出した。

「なんで笑うの?」
 
頬を赤くして怒ると、晴空はおかしそうな顔をして、
「ひねくれてるんだか、素直なんだか、よく分からねーやつだなと思って」
と言った。

なんと答えたらいいのか分からなくて無言でいると、晴空がニヤニヤしながら私の顔をのぞきこんできた。

「ついでに言うけど、おまえ、口ではひねくれたこと言ってても、
本心が顔にめちゃくちゃ出るタイプだから、
全然隠せてないからな」
 
私はびっくりして、目を大きくした。

「嘘だ」

「本当。いつも、顔にはっきり『強がってる』って書いてある」

カーッと顔がほてるのが自分で分かった。きっと耳まで真っ赤だったと思う。私は手で顔をおおった。

「表情はめちゃくちゃ素直なくせに。
俺、多分、おまえが考えてること、八割くらいわかるよ」

穴があったら入りたいという言葉は、こういう時に使うのだろうと私は思った。
いっそ生き埋めにされたかった。

「明日からはお面をつけて学校に行くから」

私が顔を手で覆ったまま言うと、晴空は、
「バカだな」
と言って、楽しそうに声をたてて笑った。

私は指の隙間からそんな晴空を眺めた。

その瞬間、胸をくすぐられるような不思議な感情を覚えた。

晴空がそばで楽しそうに笑っている。

それを眺めている今この瞬間が、宝箱をあけた時みたいに、特別なものに感じられた。

晴空の向こうに夕方の空と街並みが見えていた。

空はまだ、明るいオレンジ色をしていたが、街はだんだんと薄闇に沈んでいく。
明るさと暗さが入り混じっていて、幻想的な景色に見えた。

「私、変わってるから……」
空を眺めて、私はひとりごとみたいにつぶやいた。
「晴空が初めて。こんなふうに仲良くなれたのは」

「じゃあさ……」
と晴空が言った。

「今までできなかったこと、全部しよう。
二人で一緒に」

うん、とつぶやいた顔に西日が差して、まぶしかった。
私は目を細めた。
それは、多分、夕日のせいだったと思う。

続く~
 
しおりを挟む

処理中です...