1 / 1
「今、映ってるよ」
しおりを挟む
私が精神科病棟の新人看護師だったころの話です。
深夜二時、先輩看護師と二人で電子カルテに看護記録をうちこんでいたところ、
先輩が詰所の角に設置された保護室の監視モニターを眺めて、
「今日は、良くない日かもね」
とつぶやきました。
その先輩は、〝みえる〟ということで有名でした。二十代後半で、痩せていて、タバコと焼酎と競馬と星占いとポエムと猫が好きという、独特な雰囲気の先輩でした。
先輩の視線の先には、
空き部屋になっている保護室の様子が映っていました。
精神科病棟には、保護室という部屋があって、部屋には監視カメラがついています。
使用していない保護室のモニターは電源を切るようになってるのに、いったい誰が電源を入れたんでしょうか。
モニターには、真っ暗で誰もいない部屋が映っていました。
自傷や他害を防ぐため、保護室には病室らしい設備ーーベッドとか、ナースコールとか、オーバーテーブルとかーーを置いていません。
映っているのは、床と壁だけ。
暗くて空っぽ。
床は奥の一角だけ一段高くなっていて、布団が敷かれていました。
「良くないって何がですか?」
パソコンのキーボードをたたく手を止め、モニターを眺めて尋ねました。
「たまにこの病棟、〝でる〟んだけど、今日は〝でる〟日だね。
空き部屋のモニターに、今、映ってるよ」
私は、背筋にひんやりとしたものが触れた気がしました。
「映ってるってどこに?」
「今、あなたが見つめている先」
私は心臓がドクンと大きく拍動するのを感じました。
私の目は吸い込まれるように、モニターに映る暗い部屋を見つめていました。
その部屋は空っぽでした。空っぽなのに、どういうわけか、私の視線を強くひきつけました。
まるで、本当に何かがいるみたいに……。
「あ」
と先輩がつぶやきました。
「今ね、目があってるよ」
私は胸がザワッとしました。
「見えない?
モニターの向こうから、あなたを見つめてるよ」
私は一つ深呼吸をしました。
嘘だ、嘘にちがいない。
きっと新人をからかっているんでしょう。
「やめてくださいよ。冗談なんでしょ?」
先輩がニヤっと笑いました。
「ピリッとした気持ちで巡視にいけるでしょ?」
なんだ、やっぱりそういうことか。
私はほっとして、安堵のため息をつきました。
「じゅうぶん緊張してますから。これ以上緊張させないでくださいよ」
先輩がクスクスと笑います。
「さあ、巡視の時間だね。緊張感をもって行ってらっしゃい」
先輩はそう言って机の上の懐中電灯を持って立ち上がりました。
「さっきの話のせいで、行きにくくなっちゃったじゃないですか」
私も、苦笑しながら立ち上がりました。
そして、それぞれ詰所のドアへと向かいました。
私は病棟の西半分の部屋、先輩は東半分の部屋を担当していました。
なので、私は詰所の西側のドアへ、先輩は東側のドアに向かいました。
私はガチャリとドアを開け、廊下にでようとしました。
その時、まだ詰所にいた先輩が、私に振り向いてこう言いました。
「保護室の空き部屋、中をのぞかない方がいいよ」
「え……?」
「その部屋の前だけは、素通りしなさい。
悪いことは言わないから」
「なんでですか?」
先輩は答えません。表情の読み取れない顔をして、黙って私を見ていました。
「さっきの話、冗談だったんですよね?」
先輩は質問には答えず、私に背を向けました。
そして、ドアノブに手をかけました。
ガチャリとドアが開きます。
暗い廊下が先輩の向こうに見えました。
病院には、たくさんの患者がいるはずなのに、夜勤帯の病院はとてもひっそりとしていました。
先輩は無言のまま廊下に出ていくんだろうかと思われましたが、
ふと私に振り返りました。
そして、こう言ったのです。
「冗談じゃないって言っても、あなた、ここで働ける?」
私は答えられませんでした。
先輩はしばらく返答を待っていましたが、いくら待っても答えが返ってこないとわかって、私から視線をそらし、ドアの向こうに出て行きました。
詰所の東側のドアがガチャンと閉まり、先輩が暗い廊下の向こうに消えていきました。
詰所の角に取り付けられた監視モニターが、ザザッとノイズ音をたてました。
私の胸はザワザワと騒ぎました。
〝今ね、目が合ってるよ〟
先輩の言葉を思い出し、恐怖がゆっくりと足元から這い上がってくるのを感じました。
だけど、私は今から巡視に行かねばなりません。
懐中電灯で廊下の奥を照らします。
廊下の奥には、施錠されたガラス張りのドアがあり、その向こうにも廊下が続いていました。
廊下の脇には保護室が四つ並んでいます。
私は今からそこへ向かうのです。
しかし、廊下の暗がりは異様な空気を放っているように見え、一歩も進めませんでした。
ねえ、先輩、教えてください。
〝今ね、目が合ってるよ〟
私はあの時、いったい何と目が合っていたんでしょう。
完
深夜二時、先輩看護師と二人で電子カルテに看護記録をうちこんでいたところ、
先輩が詰所の角に設置された保護室の監視モニターを眺めて、
「今日は、良くない日かもね」
とつぶやきました。
その先輩は、〝みえる〟ということで有名でした。二十代後半で、痩せていて、タバコと焼酎と競馬と星占いとポエムと猫が好きという、独特な雰囲気の先輩でした。
先輩の視線の先には、
空き部屋になっている保護室の様子が映っていました。
精神科病棟には、保護室という部屋があって、部屋には監視カメラがついています。
使用していない保護室のモニターは電源を切るようになってるのに、いったい誰が電源を入れたんでしょうか。
モニターには、真っ暗で誰もいない部屋が映っていました。
自傷や他害を防ぐため、保護室には病室らしい設備ーーベッドとか、ナースコールとか、オーバーテーブルとかーーを置いていません。
映っているのは、床と壁だけ。
暗くて空っぽ。
床は奥の一角だけ一段高くなっていて、布団が敷かれていました。
「良くないって何がですか?」
パソコンのキーボードをたたく手を止め、モニターを眺めて尋ねました。
「たまにこの病棟、〝でる〟んだけど、今日は〝でる〟日だね。
空き部屋のモニターに、今、映ってるよ」
私は、背筋にひんやりとしたものが触れた気がしました。
「映ってるってどこに?」
「今、あなたが見つめている先」
私は心臓がドクンと大きく拍動するのを感じました。
私の目は吸い込まれるように、モニターに映る暗い部屋を見つめていました。
その部屋は空っぽでした。空っぽなのに、どういうわけか、私の視線を強くひきつけました。
まるで、本当に何かがいるみたいに……。
「あ」
と先輩がつぶやきました。
「今ね、目があってるよ」
私は胸がザワッとしました。
「見えない?
モニターの向こうから、あなたを見つめてるよ」
私は一つ深呼吸をしました。
嘘だ、嘘にちがいない。
きっと新人をからかっているんでしょう。
「やめてくださいよ。冗談なんでしょ?」
先輩がニヤっと笑いました。
「ピリッとした気持ちで巡視にいけるでしょ?」
なんだ、やっぱりそういうことか。
私はほっとして、安堵のため息をつきました。
「じゅうぶん緊張してますから。これ以上緊張させないでくださいよ」
先輩がクスクスと笑います。
「さあ、巡視の時間だね。緊張感をもって行ってらっしゃい」
先輩はそう言って机の上の懐中電灯を持って立ち上がりました。
「さっきの話のせいで、行きにくくなっちゃったじゃないですか」
私も、苦笑しながら立ち上がりました。
そして、それぞれ詰所のドアへと向かいました。
私は病棟の西半分の部屋、先輩は東半分の部屋を担当していました。
なので、私は詰所の西側のドアへ、先輩は東側のドアに向かいました。
私はガチャリとドアを開け、廊下にでようとしました。
その時、まだ詰所にいた先輩が、私に振り向いてこう言いました。
「保護室の空き部屋、中をのぞかない方がいいよ」
「え……?」
「その部屋の前だけは、素通りしなさい。
悪いことは言わないから」
「なんでですか?」
先輩は答えません。表情の読み取れない顔をして、黙って私を見ていました。
「さっきの話、冗談だったんですよね?」
先輩は質問には答えず、私に背を向けました。
そして、ドアノブに手をかけました。
ガチャリとドアが開きます。
暗い廊下が先輩の向こうに見えました。
病院には、たくさんの患者がいるはずなのに、夜勤帯の病院はとてもひっそりとしていました。
先輩は無言のまま廊下に出ていくんだろうかと思われましたが、
ふと私に振り返りました。
そして、こう言ったのです。
「冗談じゃないって言っても、あなた、ここで働ける?」
私は答えられませんでした。
先輩はしばらく返答を待っていましたが、いくら待っても答えが返ってこないとわかって、私から視線をそらし、ドアの向こうに出て行きました。
詰所の東側のドアがガチャンと閉まり、先輩が暗い廊下の向こうに消えていきました。
詰所の角に取り付けられた監視モニターが、ザザッとノイズ音をたてました。
私の胸はザワザワと騒ぎました。
〝今ね、目が合ってるよ〟
先輩の言葉を思い出し、恐怖がゆっくりと足元から這い上がってくるのを感じました。
だけど、私は今から巡視に行かねばなりません。
懐中電灯で廊下の奥を照らします。
廊下の奥には、施錠されたガラス張りのドアがあり、その向こうにも廊下が続いていました。
廊下の脇には保護室が四つ並んでいます。
私は今からそこへ向かうのです。
しかし、廊下の暗がりは異様な空気を放っているように見え、一歩も進めませんでした。
ねえ、先輩、教えてください。
〝今ね、目が合ってるよ〟
私はあの時、いったい何と目が合っていたんでしょう。
完
10
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
月弥総合病院
御月様(旧名 僕君☽☽︎)
キャラ文芸
月弥総合病院。極度の病院嫌いや完治が難しい疾患、診察、検査などの医療行為を拒否したり中々治療が進められない子を治療していく。
また、ここは凄腕の医師達が集まる病院。特にその中の計5人が圧倒的に遥か上回る実力を持ち、「白鳥」と呼ばれている。
(小児科のストーリー)医療に全然詳しく無いのでそれっぽく書いてます...!!
医者兄と病院脱出の妹(フリー台本)
在
ライト文芸
生まれて初めて大病を患い入院中の妹
退院が決まり、試しの外出と称して病院を抜け出し友達と脱走
行きたかったカフェへ
それが、主治医の兄に見つかり、その後体調急変
大嫌いな歯科医は変態ドS眼鏡!
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
……歯が痛い。
でも、歯医者は嫌いで痛み止めを飲んで我慢してた。
けれど虫歯は歯医者に行かなきゃ治らない。
同僚の勧めで痛みの少ない治療をすると評判の歯科医に行ったけれど……。
そこにいたのは変態ドS眼鏡の歯科医だった!?
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる