ちょっとした寄り道

つっちーfrom千葉

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ちょっとした寄り道

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 チェスター氏は二十余年もの間、世の多くの若人の模範となるべく、また、彼らに良識を授けるべく、高等学校の教職員として実直に働いてきた。その生真面目な生活を長年にわたり続けた成果として、きわめて温厚な性質と何事にも揺らされない感情を手に入れていた。身の周りにおいて、常日頃起こりうる、些細なトラブルや事件においても、その心を揺らされることは少しもなかった。あらゆる諸問題の対処に冷静に取り組めるということは、一般の人間が思うほど簡単なことではない。彼と、その年老いた両親とが同居する、家庭生活においても、当然のことながら、その日常に漂う空気は、平和、平穏、安閑体質であった。ラジオから流れ出る、あらゆる憂鬱で、陰惨な、憤怒を湧き起こすニュースを耳にしたとしても、彼とその家族一同が、その心理的影響を受けたり、無用な苦痛を味わうことはなかった。

 チェスター氏はこの日、人生の節目にあたるであろう一大イベントを迎えることになった。表面上においては、自分の運命の長いスライドにおける、美しい一コマを、至極当然のことのように、受け入れることにしたわけだ。もちろん、これまでにも、苦悩に襲われながらも、意を決してこのイベントに挑んできた、数多くの父親たちと同じように、彼としても心に沸き起こるわずかな憂愁に浸ることは、人として当然なのであった。

 チェスター氏は予定していた通りに、朝九時には家を出て、目的地へと続く、長く傾斜のきつい坂道を登ろうとしていた。すでに肉体には明確な衰えが見える高齢者が、用事を持ってこの付近を通行するにあたり、もっとも注意を要する場所として、隣近所での対話で頻繁に語られる要所である。ただ、日頃、必要がある際は、当たり前のように利用している主要道でもある。しかし、今日という日は、左手にイベントで使用する目的の大きな紙袋を握りしめながら、分厚い濃紺の特別製のタキシードにより、その身を着飾っていた。これを着用するのは、勤続十五周年を祝う、県庁における、盛大な表彰式典以来のことである。否応なく、特別な緊張を伴う目新しい感情が沸き起こってきた。

 すでに雪解けを越えて、桜の花びらが舞う、心躍るような華やかな季節を迎えていた。この不用意な格好で、急な坂道を休みなしで登り切るのは、彼の老体にはさすがに堪えるものがあった。チェスター氏は坂の途上で、右腕に光る時計を何度か確認した。イベントの開始時刻までには、まだしばしの余裕があるようだ。そこで、坂の途中の停留所に設置されていた、三人掛けのベンチに、疲れきったその腰を下ろして、しばしの夢想にふけることになった。

 娘が産まれた瞬間の表現もできぬ喜びと感嘆の気持ち、余りにも冷酷で、余りにも早かった、妻との死に別れ、苦労しながらも懸命に愛娘を育んできた、充実感と感慨が甦る。他愛もないことで笑い合った、それらの日々に対して、大いなる感謝の気持ちと、多少の郷愁を感じていた。彼の複雑な心を露しらず、多くの大衆が何らかの目的があるのか、それとも、まったく無いのかに関わらず、目の前をせわしなく行き過ぎて行った。

「これは、チェスターさん、おはようございます。今日のお出かけはお早いのですね」

 声の主に視線を当てると、この地点からほど近い、園芸用具店の店長であった。チェスター氏は、まだ勤めにも出ないうちから、盆栽や造園を趣味にしていた。この人の好い店長とは、互いの住まいが割合い近所であることを抜きにしても、その頃からすっかり懇意にしていた。園芸店の店長は、彼の訳あり気な服装にいたく興味を持ち、今日の外出の目的を当たり障りなく尋ねた。チェスター氏は少しの思慮の後、詳細を語る必要はなかろうとの賢明なる判断をして、まったく、中身を伴わない簡素な返事をした。店主は多少の疑念を抱きつつも、それで、納得したわけであるが、いくらかの雑談を重ねていくうちに、ふと、ある気づきに至った。

「そうだ、チェスターさん、先月末にご注文頂いた、園芸具の新作が昨日ようやく届いたのです。いかがいたしましょう?」

 その絶妙なる報告は、園芸を最大の趣味とする、チェスター氏を大いに喜ばせた。

「それはよかった。実は、我が家には、性能の良い用具がまったく揃っていないおかげで、庭の草木たちが、すっかり図々しくなり、これ見よがしに、あちこちへと腕や足を伸ばし、こちらにとってはきわめて嫌な方面へと次々と生えそろってしまい、身内からも、隣近所からも、何かと迷惑だから、そろそろ手を入れてくれと、せがまれていたところなのです」

「では、先月の時点で、新製品をご予約されていた、ご判断は正解だったといえます。すでに、その素晴らしい製品が店まで届いていますよ。すぐにでも、受け取りに来られますか?」

 その丁寧で殊勝なる申し出に対して、チェスター氏は、一も二もなく、これに応じることにしたのである。園芸店は坂の中腹からは、徒歩で二分とかからない距離であり、店頭において、すぐに約束の品を受け取ることができた。なるほど、陽の光にかざすと銀色に輝く、その荘厳な鋼の刃に、チェスター氏は思わず感嘆の声をあげたものだった。店主に深く礼を言うと、彼は再び目的地へと進路をとることにした。

 しかしながら、この何の変哲もない出会いによって、客観的に見れば、余計とも思える荷物を得たことにより、考えようによっては、坂を登り切ることの困難さは、さらに増したようにも感じられたのである。心臓は異常な動きを示し、息はどんどんと苦しくなり、足は鉛のごとくであった。通常の用事であれば、無理などせずに、ここで引き返すが得策であろう。

 しかしながら、どのような解釈をしても、本日の大きなイベントは、彼の存在なしの開催は考えられない。その残酷な事実が、坂を半分も登らぬうちに、すでに顔を苦悶に歪める、チェスター氏の重苦しい歩みを着実に進めさせたのである。登り始めてから一時間も経過した頃、その長い坂をようやく登り切り、彼はその視線の先に、ようやく目的地を見据えた。滴り落ちる汗を拭きとりながらも、右手に見えてきた、市営の公園でボール遊びをする子供たちに、顔を歪めながらも、軽く会釈をした。イベントの目的地とは、この地に中世からたたずむ、見目麗しい白壁の教会であった。

 チェスター氏は一度両手に持った荷物を地面に下ろすと、先ほどから続けられてきた、避けようのない大運動によって、ネクタイやズボンの裾が折れ曲がってしまったのではないかという不安を抱き、あわてて手鏡を取り出して身なりの確認をした。

 そのとき、教会の鐘が高らかに鳴り響き、式典の開始時刻を告げたのだった。それにより、彼の繊細な心中は、これまでになく焦らされた。教会の入り口に向けて、脇目もふらずにひた走ることになった。入り口の豪壮な扉がその目に入ってきたとき、彼と同じ方向に向けて、色とりどりの花々が咲き誇る中庭の方面から、ひとつの人影が歩んでくるのが確認できた。その男性は何も慌てることなく、ゆっくりとした歩調でこちらに進んできた。青い簡素な修道服を着込み、銀の十字架の首飾りをかけ、左手には祈祷に用いる、聖なるロザリオを握りしめていた。その表情は人生の何たるかを悟りきったように穏やかであり、上品に切りそろえられた、白い髭をたくわえていた。それは今日の式典をつかさどる神父の姿であった。神父は息せき切って走ってくるチェスター氏の姿をその瞳に認めると、穏やかに笑い、仰々しくお辞儀をした。チェスター氏は多少のアクシデントが起こり、式典の開始に遅れてしまったことを正直に告げた。神父はにこやかにそれに応じた。

「実は近くの県道において大掛かりな交通事故があったようでして、そのおかげで、乗用車で来られる予定であった、多くの参加者様のご到着が遅れています。それをもって、結婚式は一時間ほど遅らせることにしたのです」

 神父はさらにチェスター氏の遅延は式典の進行に何の影響も与えないことを付け加えて、とにかく安心するように伝えた。二人は肩を並べて教会の大扉をくぐり、まずは控室の方に足を向けた。

「あなたの娘さんは、今、ドレスに腕を通しまして、寸法の最終調整をしているところです。新郎の方も同じ場所にいまして、その様子を見守っています」

 チェスター氏の心中に、少しばかりの複雑な思いが沸いたことを、ここに記しておくべきだろう。これは事実上、愛娘との別れとなる式典。自分は人生の大切な節目を、いったい、どのようにして乗り越えるべきなのだろうか。花嫁にキスを送る新郎の姿を、この目にしたとき、果たして、己の心を平静に保てるものだろうか。端的に言えば、今日で娘の所有者が変わることにもなる。そのような例えようのない複雑な思いが、密やかによぎってきた。

「私の長年の経験で語らせて頂ければ、あのお二方は、神によって引き合わせられた、素晴らしい組み合わせと思います。互いに気を使い、微かな仕草や目配せにより、その愛情を確かめ合い、今後の永遠の関係を築くために、幾多の難題に真摯に向き合っておられます。これは幸せな家庭を築くために、もっとも重要な要件なのです」

 しかし、神の使いからのありがたい言葉を耳にしても、チェスター氏は浮かぬ顔を崩さぬままで、特に好意的な反応を示すことはなかった。この神父としては、これまでの長い体験において、愛娘を式典へと送り出す、多くの父親の姿をその目で見てきたわけであるし、チェスター氏がきわめて我慢強い、度量の広い人柄であることも、当然のごとく理解していた。そして今日、この式典において、もっとも良い意味において娘を失うことになる、一人の父親に対して、何らかの励ましを与えたいとも思っていた。

「とても、美しい娘さんですね」

「ありがとうございます」

 神父としては、チェスター氏に自然にその台詞を言わせるように仕向けたわけである。

「とても美しく、品の良い、一分の隙もないお嬢さんです。仕事と家庭の両立は常に苦難を伴います。苦労を重ねながらも、お一人の手で、この長い年月をよくお育てになりました。今日の日を迎えることは、さぞかしお辛いことでしょう。お察しいたします」

「これも人間の縁のことですから……。友人や親戚一同とも、よく相談の上で、全員の意見の一致を見たことです。今になってみますと、色々な思いが頭をよぎりますが、この先に起こり得るすべてを、神と運命に委ねようと思います」

 チェスター氏は長い悩みの時間から抜け出し、すっかり吹っ切れた様子を見せていた。二人のゆったりとした歩みは、次第に新郎新婦の待ち受ける控室の扉に近づいていた。そのとき、神父はチェスター氏が右手に握りしめていた、見慣れぬ道具に目を停めた。

「その道具は、どういった種のものでしょう」

「ああ、これは通りがかりに購入してきた片手斧です。この身にひたひたと迫るような必要性を感じましたので……。すでに、ひと月前ほど前に注文しておいたのです。店主が言うには、もっとも新しく開発されたもので、最高の切れ味を誇るそうです」

 神父様はその説明にすっかり納得して、穏やかに微笑み、深く頷いてから、次のようなお言葉を述べられた。

「なるほど、それを使って、新郎を切り刻むわけですね」
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