蟻地獄  蟻社会と人間社会は、謎の神によって交差する。

K.I

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第一話 牢社会

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*牢社会
私は、神など信じてすらいなかった。

「1173番帰るわよ」
 女の上官は言った。仲間たちが続々と歩き出す。私は今日も仕事を終え帰るらしい。私はどうもあいつが嫌いだった。この社会に楽な仕事などないとは分かっているが、いくら陛下のためとはいえどあいつみたいに従順でいるのは苦痛でしかなかった。ただあいつも出世欲の塊なのだろう。上級兵には跪く醜い奴である。だから私は、あいつみたいな取り繕いの愛国心をもつ奴をみるとむしょうに腹が立った。偽りなど決して疑がわず、全てを正しいと思い込む彼らは、もうどうしようもない奴隷どもである。こんな社会など私を潰していくだけなのに。私はこんな奴らとは違う。この社会から抜け出したい。外の空気を吸いたい。私の脳は、それだけしか考えられなくなっていた。
 父親が死んだのは昨年の八月頃だったろうか。父親といっても私にとってはそこまで悲しいことでもなかった。私には母親がいない。でも、だからといって父親が私を育てたわけでもないのだ。それ以前に私には父親と遊んだ記憶すらない。私の心に父も母も存在しないのである。ただ名ばかりの親である。私は、今まで親に対して特別な感情を感じたことがないのだ。そもそも、私たちは親に育てられることなどまずない。この社会ではペット同様の存在なのである。幼少期は見知らぬおばさんに育てられた。おばさんに一応、感謝はしている。だが、彼女らはそれが仕事だろう。所詮、生徒が教師に抱く感情ぐらいである。なぜこんな社会を生きなければならないのか。将来のために作られた捨て駒なのかと最近はよく思う。だがそれでも、私は従順に国の思う通りに育てられていた。無欠席、成績優秀、私はそんな模範生であった。学校で学ぶ王政の勉強は嫌いではなかったし、先生の手伝いも積極的にやった。生徒会にすら入った。あと少しでこの国のために死ねただろう。この国でいう最高の人生を全うできたのではないか。だが、私はそれができなかった。私は、前世の記憶を知ってしまった。
 あの日は雲ひとつない快晴だったと働きに出た仲間は言った。仲間の多くが働きに出ていたその日、私は父さんの葬式を行うために休暇になっていた。墓場に臭気の漂う遺体を運ばされるなんて知っていたなら、休むことなどしなかっただろう。私にとって他人同様の父親の葬儀に参加するなんてこんなに無意味なことはない。私の鼻にはツンと腐乱臭が突き刺さる。私は、頭がくらついてきた。その時はただとれかかった父の足を無心で眺めていた。
 仲間たちとの葬儀は思ったよりあっさりと終わり、私は久しぶりに外に出たくなった。警戒兵が出入り口の警備にあたっていたが、そんなことは無視して密かに外に出た。
 外は人の幼虫で溢れかえっていた。木の根元の入り組んだ道をいくと相手を見つけられないアブラゼミたちが、まるで死を恐れるように狂っている。世界はとても広くて遠いが面白い。カマキリに食われる蝶は残された少しの気力で私を睨みつけた。そしてすぐ彼女はくたばって、カマキリの餌となる。私は、世の中を観察することを楽しみながら公園の隅まで来たとき、大きな草木の中に一つの紙切れを見つけた。紙切れと言ってもとても大きい。そこには太く大きな字で
 
 『有田 修』(アリタオサム)
と書かれていた。

そして私は、それに妙な既視感を感じた。私はそれをすぐに知ることになる。
 それが、私の、確実に『人間の俺の』運転免許証たったということを。そんなこと流石にすぐには信じなかかった。でも、嘘ではないということもすぐにわかった。脳内の何かが切れた気がする。私はただ、立ち尽くした。そんな私の脳に鳥のフンが落ちるかのように急に異物が侵入してきたことがわかる。そしてそれは私の脳に訴えかけてきた。
 私は、いや『一匹の蟻』は、人間の「雄」だったということを。そう思った途端、私の極微小な頭脳は恐ろしいほど高速回転し、一つの出来事を思いおこさせた。私はこの公園で、蟻の行列を見ながら首を吊っていた少年であった。
 前世は幸せな生活を望んでいたが、それも叶わず前世も現世も私は囚われの身であった。天国という選択肢すらも与えなかった神に怒りを覚えながらも、私はただただ無力感に襲われた。天国の存在、神の存在すらも疑った。
 しばらくやはり唖然と立ち尽くし、やがて冷静さを取り戻した私は、だんだんと巣穴に戻るのが馬鹿馬鹿しく思えてきた。これでは前世となんら変わらないと思えた。しかし、脱走しようにも私の足ではすぐに警戒兵に見つかり殺されるだろうとも思った。他の奴らからの冷たい視線を浴びながら墓場に送られるのがせきの山である。私は、父の葬式で訪れた墓場の腐乱臭とともにたくさんの死体が無惨にも転がっていたことを思い出した。あのなかには反絶対王制を訴えて殺された罪人もいると聞く。私は、俺は、自分がそいつと同じ結末をたどることを恐れながらも、いつかこの牢社会を脱獄しようと決意した。
 その晩私は、巣穴に戻った。父の葬儀のために免除されていた警備役は、私の晩の仕事になった。巣内の巡回が今日の、というかいつもの任務だった。働きたくない働き蟻である私も、子供の世話や食糧の調達などを行うことになっている。しかし、父親が幹部から慕われるような要職だったらしく、巣外の仕事はすべて免除されていた。この点だけは、父親がいて良かったと思える近頃である。だから、週数回の巣穴の巡回が主な仕事だった。働き蟻からすれば私のような蟻は楽な奴らだと思われるのだろうが、私にとってはそんなことどうでもよかった。まずそもそも私たち働き蟻に働くなんて義務はないのだ。私たちの仕事はこの社会の働かない蟻どもと、それを正当化する常識と国家の押し付けに過ぎなかった。つまり私たちは奴隷だと気づいていない都合のいい奴隷なのだ。あいつらにそんな苦しみがあるのかと思いながらも、前世でも現世でも働きたくなかった俺は蟻地獄の中での今の生活には妥協する他なかった。
 警備部隊は民間の一般の蟻から徴役され、警戒兵隊の下に配属される。
 ダラダラと警備を進めていると、一匹のまだ幼い蟻が下級兵に虐められていた。どの蟻もそんなものは見て見ぬ振りをする。兵士とその他のアリでは階級差があり逆らうことなどもってのほかであるのだ。だからこそ私も普段はなかったことにしていた。掟破りには厳しい罰が下る。これは蟻社会を人間社会以上に厳しいものにしている元凶だと言っても過言ではない。まさに、人間社会で恐れられているナチズム的思想そのものなのである。
 だが今日だけは、なぜか見過ごすことができなかった。今日の私はおかしかった。俺は、幼い蟻が自分と似ていると強く感じてしまったのだ。幼い蟻の全てを察したような瞳は、俺の過去をも鋭く睨んだ。俺は、人間世で一度も発揮できなかった勇気を初めて使いたいと思った。下級兵士に対する怒りは過去の自分をも強く蝕んでいく。ここで引き下がればあの頃のように後悔するだろう。そう思った。
 気づいたとき、下級兵は死んでいた。
 幼い蟻が私を睨みつけている。私はやってしまったのだ。この社会の掟を破った罪人はただ立ちすくんでいた。彼女は礼などするはずもなく足速に立ち去っていく。細い巣穴の一本の道には私と兵士の死体だけが転がった。
 死にたくない。私はただそれだけの感情に襲われた。私は、ただひたすら無造作に兵士を土に埋めた。空室となった巣穴の一室は遺体を埋めるにはもってこいだった。
 空室をあとにした私は、この前世の記憶に異常なほどの恐怖を覚えていた。殺されるのならいっそ自殺したいと思った。私はおそらくなにかに寄生されているのだ。今までいくらこの社会を抜け出したいと思っも、あと少しのところで恐怖を覚えていたはずなのに。前世の私は、あの人間は、そんな恐怖すら忘れ去っていたようだ。私は私だったはずなのに。この先への不安に押し潰されひどく疲れた私はただ道に横たわった。
 俺はアリがどういう暮らしをしているかなど全く知らないし興味もない。虫は嫌だ。この世界からの脱出の目的が[虫が嫌いなこと]だなんて単純で、馬鹿馬鹿しいことに思えるのかもしれない。でも俺にとっては大問題なのである。昔、図鑑でみていただけの存在のムカデが寝ている間にお腹の上に乗っていた時は、この世の終わりを感じたものだ。この虫世界にやってきてしまった以上、なんとしてでも脱出したかった。するほか無かった。もう俺は他になにも考えられなくなっていた。恐らく俺の彷徨った魂が一方的に一匹の蟻に寄生したのだろう。なぜアリに寄生したかは分からない。ただ、俺は寄生したアリのことなど考えもせず、脱出してやると土壁の天井を見上げながら固く決意したのであった。










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