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何もわからないままバイトは始まる
第15話
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尿意は自覚すると、途端に耐えがたくなった。
今すぐ公衆トイレを探さなくては。透は車内から周囲を確認したが、ここから見えるのは数件の家と草原だ。公園や公共施設らしき建物は、来た道にも見当たらない。
透の頭に絶望の2文字が浮かんだ。
この場で漏らすか。いや、19でそれはない。絶対に避けたい。たとえ低くても、見つかる可能性に賭けて探そう。
透はそう決意し、車から飛び出した。
「あんた、うちに用かい」
「ひぃっ」
真横から声がして、透は飛び退いた。一瞬、尿意が引っ込む。
顎紐のついた、つばの広い麦藁帽を被った老婆だ。浅黒く皺だらけの肌に似つかわしくないほど、目が欄々として生気が漲っている。
「ここらのもんじゃないだろう。東京から来たのかい」
「ええ、まあ。はい」
「はっきりせん子だね。どこから来たんだい」
「と、東京です」
たじたじになって答えると、老婆から畳みかけるように質問が飛んできた。
「何しにきたんだい」
「まあ、観光みたいなもので」
「ここは何もないがね。牛でも見に来たのかい」
「はいそうです!」
透は面倒くさくなり、観光旅行に来た元気な少年の体で乗り切ることにした。自分が出せる中で最も無邪気な声を出す。
「小学生の校外学習ぶりに見たので、ものすごくワクワクしました」
「そらよかったねえ」
老婆は銀歯を輝かせて笑った。
「わしは生まれてから、ずーっとここで暮らしていたもんだから、すっかり見慣れちまった」
「ずっと……!?」
すごい。町から出たいと思ったことはないんだろうか。
老婆はなんでもないような顔でさらに言った。
「かれこれ100年だ」
「100年!?」
透は素っ頓狂な声を上げた。
「生きてみると、100年は長くないさ。あんたもあっという間に爺さんだ」
老婆は催眠術を掛けるような口調で言って、透の目の奥を覗き込んだ。透は迫りくる生気に気圧されながらも、100年が短かったらどんなにいいだろうと思った。
「わしが生まれたのはね」
長い話の始まりを思わせる語り出しは、意外にもそこで途切れた。何か気に障る反応をしただろうかと動揺する透に、老婆が呆れた様子で言った。
「あんた、さっきから落ち着かないね。便所使うかい?」
なぜ気づかれたのだと目を見開く透に、老婆は言った。
「100年も生きているとね、だいたいのことはわかるのさ」
老婆の家で手洗いを借り、透は冷静さを取り戻した。途端に、ランとの約束を破ったことへの罪悪感が顔を出した。早く車に戻らなければ。
「お邪魔しました。ありがとうございました」
「あんた、ちょいと食べていきなよ」
「え」
声の方へ向かうと、老婆が居間のテーブルに半円型に切ったスイカを並べていた。
「しっかり食べんと、暑さに負けちまうよ」
「ありがとうございます。でも俺、戻らないといけなくて」
「種はこの袋に出してな」
「あ、はい」
透はあれよあれよという間にテーブルの前に座らされた。透の皿にだけ、種をとりやすいようにとフォークまで用意してある。透は食べてすぐ戻ればいいかと思い直し、勧められたスイカに齧りついた。
「うまいだろう」
「はい」
咀嚼すると、瑞々しい果汁が口の中に広がった。飲み下すたび、喉を通る冷たさが心地良い。
「スイカなんて久しぶりに食べました」
「都会のもんは食べないのかね」
「いや、そんなことはないと思います。たまたま俺が食べる機会がなかっただけで……」
透の言葉を遮るように、居間と奥の部屋を仕切る襖が開いた。
寝間着姿の男が顔を出す。中年で痩身の、神経質そうな男だ。
「あれ、お客さん?」
「牛を見に来た、東京からのお客だ」
「……へえ。東京から」
男はぎこちなく会釈をした。透も軽く頭を下げる。
「こんな格好ですみません。ゆっくりしていってください」
「たけしの教え子かい?」
「ちがうってばあちゃん。俺は東京では教えてないから」
男は老婆にスイカを勧められると「あとで食べるよ」と言い、再び奥に消えた。
「好物なのにねえ」
老婆は男のぶんの皿をキッチンに運び、戻ってくると言った。
「孫だよ。癌を患って、お医者さまに長くないと言われてね。わしより先に逝ってしまうかもしれん」
透は咀嚼を止め、意味もなく皿に溜まったスイカの汁を見つめた。
「先生の仕事もやめてな。ここは緑が多いから、身体にいいんでないかと、娘夫婦に頼まれたのさ」
「そうなんですか」
気の利いた言葉が何も出てこない自分が不甲斐ない。
老婆は自分の皿を脇へ押しやり、大切なものを託すような視線で透を見た。
「あんた、身体を大事にしなさいな。粗末にしたら、あんたが思うよりもたーくさんの人が悲しむんだよ」
透は老婆の言葉の意味を考えながら、黙ってスイカを食べた。赤い部分をくまなく食べると、ようやく老婆の合格が出た。
ごちそうさまと手を合わせ、玄関で靴を履いていると、老婆がガサガサと音を立てて何かを持ってくる。
「うちで採れたトマトときゅうりだ。持っていきな」
「いいんですか?」
「いいさ。夏野菜は身体にいいんだから」
ビニール袋を覗くと、不揃いなトマトときゅうりの他に、個包装の煎餅が数枚入っていた。
「このお煎餅もいただいていいんですか?」
「そりゃたけしが入れたんだ。もらっておきな」
老婆は目尻の皺を深くし、ひとり言のように呟いた。
「これもご縁だねえ……」
門扉を出ると、ちょうど道の先にランが見えた。透は咄嗟に姿勢を低くし、俊敏な動きで車内に滑り込んだ。ほどなくして助手席に影が落ち、見上げるとランが窓の傍に立っていた。
「丸見えだ」
「そうですよね……」
今すぐ公衆トイレを探さなくては。透は車内から周囲を確認したが、ここから見えるのは数件の家と草原だ。公園や公共施設らしき建物は、来た道にも見当たらない。
透の頭に絶望の2文字が浮かんだ。
この場で漏らすか。いや、19でそれはない。絶対に避けたい。たとえ低くても、見つかる可能性に賭けて探そう。
透はそう決意し、車から飛び出した。
「あんた、うちに用かい」
「ひぃっ」
真横から声がして、透は飛び退いた。一瞬、尿意が引っ込む。
顎紐のついた、つばの広い麦藁帽を被った老婆だ。浅黒く皺だらけの肌に似つかわしくないほど、目が欄々として生気が漲っている。
「ここらのもんじゃないだろう。東京から来たのかい」
「ええ、まあ。はい」
「はっきりせん子だね。どこから来たんだい」
「と、東京です」
たじたじになって答えると、老婆から畳みかけるように質問が飛んできた。
「何しにきたんだい」
「まあ、観光みたいなもので」
「ここは何もないがね。牛でも見に来たのかい」
「はいそうです!」
透は面倒くさくなり、観光旅行に来た元気な少年の体で乗り切ることにした。自分が出せる中で最も無邪気な声を出す。
「小学生の校外学習ぶりに見たので、ものすごくワクワクしました」
「そらよかったねえ」
老婆は銀歯を輝かせて笑った。
「わしは生まれてから、ずーっとここで暮らしていたもんだから、すっかり見慣れちまった」
「ずっと……!?」
すごい。町から出たいと思ったことはないんだろうか。
老婆はなんでもないような顔でさらに言った。
「かれこれ100年だ」
「100年!?」
透は素っ頓狂な声を上げた。
「生きてみると、100年は長くないさ。あんたもあっという間に爺さんだ」
老婆は催眠術を掛けるような口調で言って、透の目の奥を覗き込んだ。透は迫りくる生気に気圧されながらも、100年が短かったらどんなにいいだろうと思った。
「わしが生まれたのはね」
長い話の始まりを思わせる語り出しは、意外にもそこで途切れた。何か気に障る反応をしただろうかと動揺する透に、老婆が呆れた様子で言った。
「あんた、さっきから落ち着かないね。便所使うかい?」
なぜ気づかれたのだと目を見開く透に、老婆は言った。
「100年も生きているとね、だいたいのことはわかるのさ」
老婆の家で手洗いを借り、透は冷静さを取り戻した。途端に、ランとの約束を破ったことへの罪悪感が顔を出した。早く車に戻らなければ。
「お邪魔しました。ありがとうございました」
「あんた、ちょいと食べていきなよ」
「え」
声の方へ向かうと、老婆が居間のテーブルに半円型に切ったスイカを並べていた。
「しっかり食べんと、暑さに負けちまうよ」
「ありがとうございます。でも俺、戻らないといけなくて」
「種はこの袋に出してな」
「あ、はい」
透はあれよあれよという間にテーブルの前に座らされた。透の皿にだけ、種をとりやすいようにとフォークまで用意してある。透は食べてすぐ戻ればいいかと思い直し、勧められたスイカに齧りついた。
「うまいだろう」
「はい」
咀嚼すると、瑞々しい果汁が口の中に広がった。飲み下すたび、喉を通る冷たさが心地良い。
「スイカなんて久しぶりに食べました」
「都会のもんは食べないのかね」
「いや、そんなことはないと思います。たまたま俺が食べる機会がなかっただけで……」
透の言葉を遮るように、居間と奥の部屋を仕切る襖が開いた。
寝間着姿の男が顔を出す。中年で痩身の、神経質そうな男だ。
「あれ、お客さん?」
「牛を見に来た、東京からのお客だ」
「……へえ。東京から」
男はぎこちなく会釈をした。透も軽く頭を下げる。
「こんな格好ですみません。ゆっくりしていってください」
「たけしの教え子かい?」
「ちがうってばあちゃん。俺は東京では教えてないから」
男は老婆にスイカを勧められると「あとで食べるよ」と言い、再び奥に消えた。
「好物なのにねえ」
老婆は男のぶんの皿をキッチンに運び、戻ってくると言った。
「孫だよ。癌を患って、お医者さまに長くないと言われてね。わしより先に逝ってしまうかもしれん」
透は咀嚼を止め、意味もなく皿に溜まったスイカの汁を見つめた。
「先生の仕事もやめてな。ここは緑が多いから、身体にいいんでないかと、娘夫婦に頼まれたのさ」
「そうなんですか」
気の利いた言葉が何も出てこない自分が不甲斐ない。
老婆は自分の皿を脇へ押しやり、大切なものを託すような視線で透を見た。
「あんた、身体を大事にしなさいな。粗末にしたら、あんたが思うよりもたーくさんの人が悲しむんだよ」
透は老婆の言葉の意味を考えながら、黙ってスイカを食べた。赤い部分をくまなく食べると、ようやく老婆の合格が出た。
ごちそうさまと手を合わせ、玄関で靴を履いていると、老婆がガサガサと音を立てて何かを持ってくる。
「うちで採れたトマトときゅうりだ。持っていきな」
「いいんですか?」
「いいさ。夏野菜は身体にいいんだから」
ビニール袋を覗くと、不揃いなトマトときゅうりの他に、個包装の煎餅が数枚入っていた。
「このお煎餅もいただいていいんですか?」
「そりゃたけしが入れたんだ。もらっておきな」
老婆は目尻の皺を深くし、ひとり言のように呟いた。
「これもご縁だねえ……」
門扉を出ると、ちょうど道の先にランが見えた。透は咄嗟に姿勢を低くし、俊敏な動きで車内に滑り込んだ。ほどなくして助手席に影が落ち、見上げるとランが窓の傍に立っていた。
「丸見えだ」
「そうですよね……」
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