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何もわからないままバイトは始まる
第16話
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気まずい空気になる2人の間に、見送りに来た老婆が口を挟んだ。
「あんた、どこかで見た顔だね」
「え?」
「気のせいではないですか」
ランが聞いたことないほど凍てついた声で言う。透が車の外に出たことで、機嫌を悪くしているのかもしれない。
透は責任を感じ、車を出て、2人の間に割って入った。
「ありがとうございました! 俺たちはもう行かなきゃいけなので、失礼します」
ランが運転席の方へ回り込むのを確認し、透は内心安堵しつつ、助手席に乗り込んだ。
ふと外を見れば、老婆はまだ門扉の前で、ランを見ていた。
透は口を動かさずに「行きましょう」と早口で言った。10回ほど繰り返し、ようやく車は発車した。
牧場や畑の横を通過し、商業施設が立ち並ぶ大通りに出る。
ランは機嫌が直ったのか、先ほどよりいくらか人間味のある声で言った。
「その袋、もらったのか」
「はい。野菜とお煎餅です。あと、スイカもご馳走になりました」
「そうか」
透はそこで、まだ約束を破った弁解をしていないことを思い出し、慌てて口を開いた。
「トイレに行きたくなって、偶然声を掛けてくれたんです」
「だろうな」
思いのほか適当な返しに、透は面食らった。
「約束を破ったのに……」
思わずこぼすと、
「約束をしたことを覚えているならいい。それに、生理現象は仕方ない。考慮できていなかった私の落ち度だ」
静かな横顔は淡々と話す。この人は何をされたら声を荒げるのだろうと、透は思った。
*
夢を見なかった。いや、夢の内容を忘れてしまったといったほうが正しいか。
意識が浮き上がり、透は薄暗闇の中でゆっくり瞬きをした。
信じられないほど疲労感のない目覚めだ。
そう思ってから、違和感に気づいた。もう1人分の呼吸がない。
気怠い身体を起こし、見ると運転席は空っぽだった。用を足しに行ったのかもしれない。
じきに戻ってくるだろうと思い、再び横になろうとして、運転席と助手席の間のダッシュボードの上に置かれた紙が目に入った。
書き殴った文字で『出かける。トイレは向かいのコンビニだ』と書いてある。
昨日とは異なり、舗装された道の端の、誘蛾灯の数メートル先に車を停めて眠っていたはずだった。
しかし窓から見えるのは駐車場だ。遠くに営業中を示す看板の光がいくつも見える。透が眠っている間に移動したらしかった。
1人であることを認識すると、あれだけ身体にまとわりついていた眠気がするりとどこかへ逃げてしまった。
気まぐれなヤツだ、などと睡魔相手に文句を言いつつ、透は寝そべった。
逃げてしまったものは仕方ない。あちらから戻ってくるまで待つほかない。
サイズの合わないTシャツの襟元を引っ張り、顔を埋める。深く息を吐き、猫のように身体を丸めて目を瞑った。
✻
「ハリ」
「…………」
「身体を痛めるぞ」
「…………」
「寝てるのか」
「…………」
「……仕方ないな」
車が揺れ、気配が近づいてくる。真上まで来たかと思うと、縮こまっていた手足を解かれた。まるでガラス細工を扱うような手つきで。
透は薄目を空けた。すぐ傍に呼吸がある。
「起きたか」
「……おかえりなさい」
寝起きだからか大きな声が出ない。内緒話のような囁き声だったが、相手には届いたようだった。
応えるように頭に重みが乗る。撫でるわけでも軽く叩くわけでもなく、静かに乗っている。
「…………ただいま」
その声がやわらかく慈愛に満ちているように聞こえたのは、透の都合のいい勘違いかもしれない。
透は満足のため息を漏らし、手探りで腕らしきものを掴んだ。引き寄せて頬をつけるとTシャツと同じ匂いがした。あたたかくて安心する。
透はそのまま、あっけなく眠りに落ちた。
✻
家を出て4日が経つ。透は自分が何のために助手席に乗っているのか、未だにわかっていなかった。
今のところ、バイトらしいことは何もしていない。
窓の外を眺め、飽きると他愛もない話を聞いてもらい、話し疲れると今度はランに話をしてもらう。
今は、ランが文学を好きになったきっかけの話を聞いていた。
「小学生のときに梶井の『檸檬』を読んで、衝撃を受けた。文字から瑞々しいレモンの匂いがしたんだ」
「兄の教科書に載ってて、読んだことがあります。自分も同じことがしたくなって、母にレモンを買ってくれって頼んだら驚かれました」
「可愛いな」
「かっ……?!」
透はランの目から逃げるように、窓へ顔を逸らした。が、勢いがつきすぎて額をぶつけてしまった。
「大丈夫か」
「はい……」
涙目になりながら反射した涼し気な横顔を睨む。
ランはいつからか、こんなふうに透を言葉や態度で甘やかすようになった。悪い気はしないが、照れくさくて動揺してしまう。ちょっと悔しい。
「……も、文字から匂いが伝わってくるっていえば、『注文の多い料理店』の牛乳のクリームが美味しそうだなって記憶に残ってます。あれは味ですけど」
「ああ、懐かしいな。あれ、どんな味なのか気になるよな」
「生クリームみたいな感じなんですかね」
ランは博識で透が尋ねるとさまざまな作品の名を挙げてくれる。だが、誰かが亡くなる物語はいつもさりげなく避けてくれているようだった。
今も何かを言いかけてやめた気配があった。
宮沢賢治から『よだかの星』を連想したのかなと、透はなんとなく思った。
あの話は透も好きだ。昔、兄に読み聞かせをしてもらったことがある。
宮沢賢治はどんな思いであれを書いたのだろう。わからないが、透は読むといつも必ず泣きたくなる。
本物の文学とは何なのか、透には語るほどの力はないけれど、間違いなくあれは本物だと思う。
そんなことをぐるぐる考えてから、ふいにランに対して申し訳なさを感じた。
自分は何かを返せているだろうかという気持ちが湧き上がって、透は口を開いた。
「俺、役に立ってますか?」
「ああ」
「ほんとに?」
「ハリはお守りだ」
ランは大真面目に言った。
「安全祈願?」
軽口のつもりでそう言ってから、透は後悔した。
「正夢にならないためにですか?」
ランは何も言わずに、目を細めて遠くを見た。その様子を横で見ながら、透はもどかしくなった。
「誰がそんなことをするんですか?」
「正義だ」
――なら、ランさんは悪の側の人間ですか。
透はそっと運転席を盗み見た。目つきが鋭く、彫が深い顔。
おとぎ話の世界ならば、彼は間違いなく悪役だ。
「あんた、どこかで見た顔だね」
「え?」
「気のせいではないですか」
ランが聞いたことないほど凍てついた声で言う。透が車の外に出たことで、機嫌を悪くしているのかもしれない。
透は責任を感じ、車を出て、2人の間に割って入った。
「ありがとうございました! 俺たちはもう行かなきゃいけなので、失礼します」
ランが運転席の方へ回り込むのを確認し、透は内心安堵しつつ、助手席に乗り込んだ。
ふと外を見れば、老婆はまだ門扉の前で、ランを見ていた。
透は口を動かさずに「行きましょう」と早口で言った。10回ほど繰り返し、ようやく車は発車した。
牧場や畑の横を通過し、商業施設が立ち並ぶ大通りに出る。
ランは機嫌が直ったのか、先ほどよりいくらか人間味のある声で言った。
「その袋、もらったのか」
「はい。野菜とお煎餅です。あと、スイカもご馳走になりました」
「そうか」
透はそこで、まだ約束を破った弁解をしていないことを思い出し、慌てて口を開いた。
「トイレに行きたくなって、偶然声を掛けてくれたんです」
「だろうな」
思いのほか適当な返しに、透は面食らった。
「約束を破ったのに……」
思わずこぼすと、
「約束をしたことを覚えているならいい。それに、生理現象は仕方ない。考慮できていなかった私の落ち度だ」
静かな横顔は淡々と話す。この人は何をされたら声を荒げるのだろうと、透は思った。
*
夢を見なかった。いや、夢の内容を忘れてしまったといったほうが正しいか。
意識が浮き上がり、透は薄暗闇の中でゆっくり瞬きをした。
信じられないほど疲労感のない目覚めだ。
そう思ってから、違和感に気づいた。もう1人分の呼吸がない。
気怠い身体を起こし、見ると運転席は空っぽだった。用を足しに行ったのかもしれない。
じきに戻ってくるだろうと思い、再び横になろうとして、運転席と助手席の間のダッシュボードの上に置かれた紙が目に入った。
書き殴った文字で『出かける。トイレは向かいのコンビニだ』と書いてある。
昨日とは異なり、舗装された道の端の、誘蛾灯の数メートル先に車を停めて眠っていたはずだった。
しかし窓から見えるのは駐車場だ。遠くに営業中を示す看板の光がいくつも見える。透が眠っている間に移動したらしかった。
1人であることを認識すると、あれだけ身体にまとわりついていた眠気がするりとどこかへ逃げてしまった。
気まぐれなヤツだ、などと睡魔相手に文句を言いつつ、透は寝そべった。
逃げてしまったものは仕方ない。あちらから戻ってくるまで待つほかない。
サイズの合わないTシャツの襟元を引っ張り、顔を埋める。深く息を吐き、猫のように身体を丸めて目を瞑った。
✻
「ハリ」
「…………」
「身体を痛めるぞ」
「…………」
「寝てるのか」
「…………」
「……仕方ないな」
車が揺れ、気配が近づいてくる。真上まで来たかと思うと、縮こまっていた手足を解かれた。まるでガラス細工を扱うような手つきで。
透は薄目を空けた。すぐ傍に呼吸がある。
「起きたか」
「……おかえりなさい」
寝起きだからか大きな声が出ない。内緒話のような囁き声だったが、相手には届いたようだった。
応えるように頭に重みが乗る。撫でるわけでも軽く叩くわけでもなく、静かに乗っている。
「…………ただいま」
その声がやわらかく慈愛に満ちているように聞こえたのは、透の都合のいい勘違いかもしれない。
透は満足のため息を漏らし、手探りで腕らしきものを掴んだ。引き寄せて頬をつけるとTシャツと同じ匂いがした。あたたかくて安心する。
透はそのまま、あっけなく眠りに落ちた。
✻
家を出て4日が経つ。透は自分が何のために助手席に乗っているのか、未だにわかっていなかった。
今のところ、バイトらしいことは何もしていない。
窓の外を眺め、飽きると他愛もない話を聞いてもらい、話し疲れると今度はランに話をしてもらう。
今は、ランが文学を好きになったきっかけの話を聞いていた。
「小学生のときに梶井の『檸檬』を読んで、衝撃を受けた。文字から瑞々しいレモンの匂いがしたんだ」
「兄の教科書に載ってて、読んだことがあります。自分も同じことがしたくなって、母にレモンを買ってくれって頼んだら驚かれました」
「可愛いな」
「かっ……?!」
透はランの目から逃げるように、窓へ顔を逸らした。が、勢いがつきすぎて額をぶつけてしまった。
「大丈夫か」
「はい……」
涙目になりながら反射した涼し気な横顔を睨む。
ランはいつからか、こんなふうに透を言葉や態度で甘やかすようになった。悪い気はしないが、照れくさくて動揺してしまう。ちょっと悔しい。
「……も、文字から匂いが伝わってくるっていえば、『注文の多い料理店』の牛乳のクリームが美味しそうだなって記憶に残ってます。あれは味ですけど」
「ああ、懐かしいな。あれ、どんな味なのか気になるよな」
「生クリームみたいな感じなんですかね」
ランは博識で透が尋ねるとさまざまな作品の名を挙げてくれる。だが、誰かが亡くなる物語はいつもさりげなく避けてくれているようだった。
今も何かを言いかけてやめた気配があった。
宮沢賢治から『よだかの星』を連想したのかなと、透はなんとなく思った。
あの話は透も好きだ。昔、兄に読み聞かせをしてもらったことがある。
宮沢賢治はどんな思いであれを書いたのだろう。わからないが、透は読むといつも必ず泣きたくなる。
本物の文学とは何なのか、透には語るほどの力はないけれど、間違いなくあれは本物だと思う。
そんなことをぐるぐる考えてから、ふいにランに対して申し訳なさを感じた。
自分は何かを返せているだろうかという気持ちが湧き上がって、透は口を開いた。
「俺、役に立ってますか?」
「ああ」
「ほんとに?」
「ハリはお守りだ」
ランは大真面目に言った。
「安全祈願?」
軽口のつもりでそう言ってから、透は後悔した。
「正夢にならないためにですか?」
ランは何も言わずに、目を細めて遠くを見た。その様子を横で見ながら、透はもどかしくなった。
「誰がそんなことをするんですか?」
「正義だ」
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