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何もわからないままバイトは始まる
第18話
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起き抜けの耳が、ランの話し声が拾った。
「これで何回目だ?」
透は胸がざわつくような勘が働いて、開きかけていた目を閉じた。
ランはひどく苛立っているようだった。声を荒げることはしないが、言葉の1つひとつに棘がある。
透と話しているときとはまるで別人だった。
「なぜ言わない? これは何の電話だ?」
電話口から悲鳴のようなものが聞こえた。
「いい加減腹をくくれ」
ランはそう言うと、荒々しく電話を切った。舌打ちが車内に響く。車が揺れる。
透はきつく目を閉じた。
生々しい夢を見ても構わないから、今すぐ眠りにつきたかった。
いつの間にか、もう1度眠っていたようだった。
車の時計を見ると、時刻は昼をまわっていた。
透が土で汚した服を洗うために、コインランドリーへ立ち寄った。ついでにタオルや自分の服も洗濯した。
乾燥するのを待つ間に、透は近くのネットカフェでシャワーを浴びた。
今度は迷わずに戻ってくると、ランは再び誰かと電話をしていた。
入っていいものか躊躇っていると、ランが気づき、スマホを耳にあてたまま手を振ってくる。手招きだ。透はホッとしてドアを開けた。
「わかりました。またご連絡します」
ランは電話を切り、助手席に座る透を見た。
「汗は流せたか」
「すっきりしました」
ランは満足そうに頷くと、コインランドリーに戻り、透に洗濯物を回収させた。
「今日も行くところがある」
「俺は?」
「車で留守番だ。できるな?」
数時間後、車は公園沿いの道路脇に止まった。
親子がシャボン玉を飛ばし、老婦人が大型犬を散歩していた。少し離れた場所では、子どもたちが追いかけっこをして遊んでいる。
「エンジンはかけたままにしておく。トイレはあそこだ。風に当たりたくなったら外に出てもいいが、遠くへは行くなよ」
「はい」
「できるだけ早く帰ってくる。必ずここで待っていろ」
ランは透に何度も念を押すと、黒い鞄を手にどこかへ行ってしまった。
透はすぐに退屈になって、後部座席を漁った。何か暇を潰せるものはないかと思ったのだ。
タオルケットをめくると、紙袋を見つけた。覗くと、本が数冊入っている。
「萩原……」
目についたのは、とある作家の詩集だった。
口にしたことはないが、透は未だに、自分を萩原透だと思っている節があった。テストで書き間違えたことも1度や2度ではない。
伊東という苗字は、何年経っても借り物のような感覚だ。
透は何気なく頁を繰った。そして、ある頁で手を止めた。
ハリって、玻璃か。でも玻璃って何だろう。その詩では、玻璃は服の素材になっているようだった。
スマホがあれば調べられるのに。
透はその後も、紙袋に入っていた本を次から次へと読んだ。
すべて読み終わり顔を上げると、すっかり日が傾いていた。透は肩の凝りを感じ、車を降りた。
夕方を知らせるチャイムが鳴った。子どもたちが一斉に公園の外へ駆けていく。無邪気な笑い声が余韻のように残った。
公園は静けさが広がった。時折、犬の鳴き声や飼い主同士の話し声がする。
透はベンチに座り、藍色に染まっていく空を見ていた。
ランは今頃、どこで何をしているのだろうか。いつ帰ってくるのだろうか。
もしこのまま帰ってこなかったとしたら、どうすればよいのだろう。透はいやな胸騒ぎがした。
そのときだった。
「あれ。萩ちゃんじゃない?」
「え?」
ふちの細い眼鏡をかけた若い男が、親しげに声をかけてきた。そうしてそのまま、当たり前のように透の横に座った。
「おひさしぶり。中学で同じだった誠司。わかるかな」
透は彼の顔を見つめ、必死に記憶にある顔と照合した。つり目にタレ眉、狐のお面に似た顔は、たしかにどこかで見覚えがあった。
「……えっ、誠司!?」
彼は中学1年生の透と、最も仲の良い友人だった。中学生のわりに大人びていて、奇想天外で思いつきをするのが得意だった。
透は彼とともに大胆な悪戯を仕掛けては、大人たちを困らせた。
印象に残っているのは、煮物の匂いが漂ってくる居間で、薄い座布団に正座をしていた記憶だ。
2人は毎日のように外で遊びまわっていた。透の家の門限は、誠司の家に比べて早く、遊び足りない2人はあることを思いついた。
門限の時間を過ぎると、腕時計の針を巻き戻し、時計がずれていたと嘘をつくのだ。
そうして、2人は決まって誠司の家の門限を大幅に過ぎた時刻に帰宅した。
しかし何回も繰り返すうちに、偽装工作は見破られ、誠司の祖母にしかられた。
しかられた後に振る舞われるあたたかい和食の味が、透は大好きだった。
「ここらへんに住んでるの?」
「今は祖母の家を出て、大学の近くに1人暮らしをしている。ちょうど夏休みに入ったから、こっちに帰省したのだよ」
「おばあさんは、今はここに住んでいるんだね」
透がそう言うと、誠司は怪訝そうな顔をした。
「今も昔もずっとここだよ」
透は数秒、その言葉の意味を考えてから、素っ頓狂な声をあげた。
「ここって△△市なの? というか、〇〇県なの?」
「そう。僕らの思い出の地。僕が通っていた南小はこのすぐ近くだよ。当時は、この公園でもよく遊んだな」
誠司はしみじみとそう言った。
「年々緑が減って、代わりに何軒も老人ホームが建っている。子供はほとんどいない。中学校のあたり、見に行った?」
「行ってない」
「悲しくなるよ。面影がほとんどない」
誠司はそれから、当時のクラスメイトの近況などを話して聞かせた。
地元に出た者、残っている者。大学へ行った者、浪人中の者、専門学校へ行った者、就職した者、結婚し出産した者。担任は定年退職をしたらしい。
彼はいくつもの名前をあげたが、透は思い出せない顔が多かった。
「僕はどう? あれから変わっている?」
誠司は長い足を組み、ジャケット写真のような気取ったポーズをしてみせた。
「見た目はちょっと変わったけど、中身は変わってないな。おばあさんは元気なの?」
「今年で80歳になるけれど、ものすごく元気だよ。今度会ってくれるかい」
「俺のこと、覚えてるかな」
「覚えているよ。記憶力は僕よりもいいくらいだ。……ねえ萩ちゃん、1人称が俺になったのだね。今になって気づいたよ」
「うん。あと苗字、萩原じゃなくなった。伊東になった」
「伊東なら、いとちゃんだね」
そうだねと透が軽く相槌を打つと、誠司は微笑んだ。困ったときや戸惑ったときに、彼はよくこういう表情をした。
「神隠しみたいにいなくなってしまったから、何ひとつ言葉を掛けられなかった。何度か電話はしたのだけれど」
「これで何回目だ?」
透は胸がざわつくような勘が働いて、開きかけていた目を閉じた。
ランはひどく苛立っているようだった。声を荒げることはしないが、言葉の1つひとつに棘がある。
透と話しているときとはまるで別人だった。
「なぜ言わない? これは何の電話だ?」
電話口から悲鳴のようなものが聞こえた。
「いい加減腹をくくれ」
ランはそう言うと、荒々しく電話を切った。舌打ちが車内に響く。車が揺れる。
透はきつく目を閉じた。
生々しい夢を見ても構わないから、今すぐ眠りにつきたかった。
いつの間にか、もう1度眠っていたようだった。
車の時計を見ると、時刻は昼をまわっていた。
透が土で汚した服を洗うために、コインランドリーへ立ち寄った。ついでにタオルや自分の服も洗濯した。
乾燥するのを待つ間に、透は近くのネットカフェでシャワーを浴びた。
今度は迷わずに戻ってくると、ランは再び誰かと電話をしていた。
入っていいものか躊躇っていると、ランが気づき、スマホを耳にあてたまま手を振ってくる。手招きだ。透はホッとしてドアを開けた。
「わかりました。またご連絡します」
ランは電話を切り、助手席に座る透を見た。
「汗は流せたか」
「すっきりしました」
ランは満足そうに頷くと、コインランドリーに戻り、透に洗濯物を回収させた。
「今日も行くところがある」
「俺は?」
「車で留守番だ。できるな?」
数時間後、車は公園沿いの道路脇に止まった。
親子がシャボン玉を飛ばし、老婦人が大型犬を散歩していた。少し離れた場所では、子どもたちが追いかけっこをして遊んでいる。
「エンジンはかけたままにしておく。トイレはあそこだ。風に当たりたくなったら外に出てもいいが、遠くへは行くなよ」
「はい」
「できるだけ早く帰ってくる。必ずここで待っていろ」
ランは透に何度も念を押すと、黒い鞄を手にどこかへ行ってしまった。
透はすぐに退屈になって、後部座席を漁った。何か暇を潰せるものはないかと思ったのだ。
タオルケットをめくると、紙袋を見つけた。覗くと、本が数冊入っている。
「萩原……」
目についたのは、とある作家の詩集だった。
口にしたことはないが、透は未だに、自分を萩原透だと思っている節があった。テストで書き間違えたことも1度や2度ではない。
伊東という苗字は、何年経っても借り物のような感覚だ。
透は何気なく頁を繰った。そして、ある頁で手を止めた。
ハリって、玻璃か。でも玻璃って何だろう。その詩では、玻璃は服の素材になっているようだった。
スマホがあれば調べられるのに。
透はその後も、紙袋に入っていた本を次から次へと読んだ。
すべて読み終わり顔を上げると、すっかり日が傾いていた。透は肩の凝りを感じ、車を降りた。
夕方を知らせるチャイムが鳴った。子どもたちが一斉に公園の外へ駆けていく。無邪気な笑い声が余韻のように残った。
公園は静けさが広がった。時折、犬の鳴き声や飼い主同士の話し声がする。
透はベンチに座り、藍色に染まっていく空を見ていた。
ランは今頃、どこで何をしているのだろうか。いつ帰ってくるのだろうか。
もしこのまま帰ってこなかったとしたら、どうすればよいのだろう。透はいやな胸騒ぎがした。
そのときだった。
「あれ。萩ちゃんじゃない?」
「え?」
ふちの細い眼鏡をかけた若い男が、親しげに声をかけてきた。そうしてそのまま、当たり前のように透の横に座った。
「おひさしぶり。中学で同じだった誠司。わかるかな」
透は彼の顔を見つめ、必死に記憶にある顔と照合した。つり目にタレ眉、狐のお面に似た顔は、たしかにどこかで見覚えがあった。
「……えっ、誠司!?」
彼は中学1年生の透と、最も仲の良い友人だった。中学生のわりに大人びていて、奇想天外で思いつきをするのが得意だった。
透は彼とともに大胆な悪戯を仕掛けては、大人たちを困らせた。
印象に残っているのは、煮物の匂いが漂ってくる居間で、薄い座布団に正座をしていた記憶だ。
2人は毎日のように外で遊びまわっていた。透の家の門限は、誠司の家に比べて早く、遊び足りない2人はあることを思いついた。
門限の時間を過ぎると、腕時計の針を巻き戻し、時計がずれていたと嘘をつくのだ。
そうして、2人は決まって誠司の家の門限を大幅に過ぎた時刻に帰宅した。
しかし何回も繰り返すうちに、偽装工作は見破られ、誠司の祖母にしかられた。
しかられた後に振る舞われるあたたかい和食の味が、透は大好きだった。
「ここらへんに住んでるの?」
「今は祖母の家を出て、大学の近くに1人暮らしをしている。ちょうど夏休みに入ったから、こっちに帰省したのだよ」
「おばあさんは、今はここに住んでいるんだね」
透がそう言うと、誠司は怪訝そうな顔をした。
「今も昔もずっとここだよ」
透は数秒、その言葉の意味を考えてから、素っ頓狂な声をあげた。
「ここって△△市なの? というか、〇〇県なの?」
「そう。僕らの思い出の地。僕が通っていた南小はこのすぐ近くだよ。当時は、この公園でもよく遊んだな」
誠司はしみじみとそう言った。
「年々緑が減って、代わりに何軒も老人ホームが建っている。子供はほとんどいない。中学校のあたり、見に行った?」
「行ってない」
「悲しくなるよ。面影がほとんどない」
誠司はそれから、当時のクラスメイトの近況などを話して聞かせた。
地元に出た者、残っている者。大学へ行った者、浪人中の者、専門学校へ行った者、就職した者、結婚し出産した者。担任は定年退職をしたらしい。
彼はいくつもの名前をあげたが、透は思い出せない顔が多かった。
「僕はどう? あれから変わっている?」
誠司は長い足を組み、ジャケット写真のような気取ったポーズをしてみせた。
「見た目はちょっと変わったけど、中身は変わってないな。おばあさんは元気なの?」
「今年で80歳になるけれど、ものすごく元気だよ。今度会ってくれるかい」
「俺のこと、覚えてるかな」
「覚えているよ。記憶力は僕よりもいいくらいだ。……ねえ萩ちゃん、1人称が俺になったのだね。今になって気づいたよ」
「うん。あと苗字、萩原じゃなくなった。伊東になった」
「伊東なら、いとちゃんだね」
そうだねと透が軽く相槌を打つと、誠司は微笑んだ。困ったときや戸惑ったときに、彼はよくこういう表情をした。
「神隠しみたいにいなくなってしまったから、何ひとつ言葉を掛けられなかった。何度か電話はしたのだけれど」
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