恋愛禁止条項の火消し屋は、子会社社長を守る側に立つ

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第10章 恋の着地:守りながら恋をする

嵐のあと

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子会社フロアの蛍光灯は、いつもより白く感じた。本社の白は刃だったけれど、ここは——生活の白だ。雑なコピーの匂い、古い椅子の軋み、誰かが淹れた薄いコーヒー。

嵐のあとに残るのは、静けさじゃない。通常運転のふりだ。

14:32。エレベーターを降りると、いつもの総務フロアの音がした。キーボードの連打、電話の保留音、紙が擦れる音。誰も“嵐”の話をしない。しないことで、嵐がなかったことになると思っている。

でも、空気は変わっていた。視線が増えた。視線は、言葉より早い噂だ。

「……おかえり」

共働き夫婦の妻が、席から立たずに言った。声は小さい。公の場で喋ると、まだ燃える。

私は頷く。

「ただいま」

“ただいま”は、帰還じゃない。現場に戻った確認だ。

吉岡が、資料の束を机の端に置いた。分厚い。でも中身は紙じゃない。今日止めたもののリストだ。

・勤務地強制テンプレ:凍結(第三者承認制)
・個別案内:発令停止(同上)
・同席不可運用:停止
・参考人(新人)接触禁止:強化
・不利益取扱い:監視項目化

ログ保全:第三者主導(社内操作禁止)

嵐のあとに必要なのは、慰めじゃない。チェックリストだ。

私は椅子に座る前に、机の上の“いつものもの”を確認した。雑に置かれた付箋。誰かが持ってきたお菓子。郵便の仕分け箱。——生活の痕跡。

生活が残っていると、人は戻れる。

胃がまだ痛んだ。でも痛みは、今日の戦いの残り香だ。消そうとしない。消すと、また同じことが起きる。

チャットが鳴った。総務グループ。神谷からの一文。

【今日の件、余計な発言は禁止。各自、通常業務に戻れ】

“余計な発言”。言葉を余計にすることで、原本を消す。まだ台本は生きている。

吉岡が小声で言った。

「これ、第三者の“接触禁止・不利益”の監視対象ですよね」
「うん」

私は言った。

「でも、反応しない。記録だけ」

吉岡が時刻を押さえる。

14:41 神谷:沈黙の指示(チャット)

情シス担当が、さらに淡々と付け足す。

「ログも残ります。削除されたら、それも残ります」
「ありがとう」

私は頷く。“残る”が増えるほど、人は消えにくい。

隣の島で、若手がコピー用紙を抱えたまま固まっていた。目が赤い。泣いてはいない。泣くと、また“弱さ”にされるから。

私と目が合って、すぐ逸らされた。逸らすのは敵意じゃない。巻き込まれたくない恐怖だ。

私は声を掛けなかった。掛けると、私が“中心”になる。中心に戻ると、また燃料になる。

代わりに、机の上に小さなメモを置いた。誰にでも読める言葉じゃない。“手順”の言葉だけ。

「困ったら窓口。窓口は第三者経由。口頭より文書」

それが、このフロアでできる最大の救いだった。

共働き夫婦の夫が、資料を一枚差し出した。“共同申出”の控え。そこに、今日の追記が反映されている。

「例外なし設計=配慮の体裁。通報者保護違反の疑い」
「人格攻撃(みんなが嫌)=不利益取扱いの兆候」

夫は前を向いたまま言う。

「……効きますか」

私は短く答えた。

「効く」
「外部の原本に乗ったから」

妻が言う。

「じゃあ、もう、戻れますか」

戻れる。その言葉は簡単に言えない。戻れると言った瞬間、戻れなかった人が増えるから。

私はこう答えた。

「戻るんじゃない」
「呼吸できる形に、変える」

夫が頷く。妻も頷く。呼吸。社長が言った言葉が、現場の言葉に変わった。

窓の外は、冬の青。澄んでいる。澄んでいるほど、寒い。

私は引継ぎ仕様書の最後の欄に、日付だけを書いた。

2026-01-24

今日という日付は、物語の区切りじゃない。運用が止まった日として残す。

そして、フロアの音が戻ってくる。電話が鳴り、コピーが回り、誰かが笑う。笑いは、まだ薄い。でも薄くても、生活だ。

嵐のあと。子会社フロア。ここから先は、大きな戦いじゃない。

“通常運転のふり”の中で、一つずつ、手順を埋め直す戦いだ。
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