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たぶらかしてから
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瞼をそっと撫でられると腫れぼったい感じが引いていく。だけど涙は止まらなくて、眼球だけが熱を持ったみたいに熱かった。
優しく優しく、お湯の中を泳ぐようにニシキさんの手が背中を撫でおろしていく。キスが降る。瞼に、額に、鼻の頭に、頬に、最後に唇に。鳥がついばむようなものではなくて、ゆっくりと触れて撫でるように離れていく、静かなキスだった。
恐怖に竦んで変な力の入っていた体からゆっくりと力が抜けていく。
尾てい骨まで下りた手がまたゆっくりと撫で上がって、それから肩を撫でていく。ちゃぷっと音がして首筋に優しくお湯をかけられる。羽のような触れ方が心地よくて、思わず目を閉じる。こんなことしてていいのかな?という疑問もどこかにあったけれど、ニシキさんに甘やかしてほしかった。すごく、怖かったから。
ニシキさんに抱き着いたとき、全裸だというのにまたがってしまったことを今更恥ずかしく感じだす。今までまるで気にしていなかったのだけれど、こうして優しく触れられると、途端に意識してしまうのは、あまりに単純だろうか。それでも離れるという選択肢は浮かばなかった。くっついていたい。離れたくない。
ニシキさんの唇が顎のラインを添って首筋に落ちる。覆いかぶさるようにして、うなじへと伝い、そこから肩へと滑っていく。片手は魚みたいに私の背中をそうっと撫でて、もう片方の手はまだ流れ続ける涙を拭って、唇が流れていったのとは逆の肩へ首筋を撫でおろしていった。
もっと唇にキスをして欲しくて、でもなんて言ったらいいのかわからなくて、ニシキさんの背中に回していた手で、その長い髪をくいくいと引っ張った。肩にあるニシキさんの顔を盗み見ると、いつも以上に優しい表情で笑っていて、見惚れていたらそのまま近づいてきて、お伽噺のお姫様にするような優しいキスをされた。お伽噺なら、きっと彼は素敵な悪役になれそうだけど、私にとって彼は白馬の王子様だ。いや、白蛇の、だろうか。どうでもいいことが脳裏を巡っていった。
ゆっくりと触れて、またゆっくりと離れた唇が惜しくて、追いかけるようにして私から唇を重ねる。それは抵抗もなくすんなりと受け入れられ、腰と後頭部を抱かれ。それでも激しさなんて欠片も感じられない、優しく優しく口づけあう。ニシキさんの背中をするすると撫で上げる。すべすべの肌が気持ちいい。腰に回された彼の手がピクリと震えた。くふん、とニシキさんの鼻息が頬をくすぐる。
唇で下唇を食まれる。むず痒くなってしまうようなそのやわらかい感触に、思わず顔を引くと、唇は簡単に離れてしまった。少し荒くなった呼吸がまじりあう。次いで視線が絡んだ。そこに意地悪な色はまるでなく、ただただ優しくて、私がどうしたいのかを伺っている。それがどうしようもないほどに嬉しくて、また私から唇を重ねた。ニシキさんの真似をして、彼の下唇を同じように唇だけで食む。合わせたままの視線の先で、彼の目がゆっくりと笑った。両手で頬を包まれる。上唇をちゅッと吸われた。戯れるようなそのキスに私も少しだけ笑った。
背中に回していた手を片方、彼の心臓の上に置く。止まっているんじゃないかというほどにゆっくり、けれどしっかりと、それは脈打っている。ああ、生きてる。あの鳥の妖怪にも、帰りを待つ人がいたのだろうか・・・。
ニシキさんの下唇に舌を這わす。そうすると上唇を甘噛みされた。またむず痒くなってしまって思わず顔を引くと、今度はニシキさんが追ってきてまた優しく唇が重なる。ぬるりと舌が入り込んで、優しく咥内を探っていく。上顎をなぞって、頬の内側を舐められて、舌を撫でられる。鼻からため息なのか喘ぎ声なのかわからない呼吸が抜けていく。いつもの、頭がおかしくなるような、私を快楽に突き落とそうとするものではなくて、慰めるようにそっとそっと舌が絡む。
安心してしまうような、ともすれば眠くなってしまいそうな心地よさのそれに、目を閉じた。跨ったニシキさんの蛇の体を太ももでぎゅっと絞める。密着度が増して、鱗の一枚一枚がはっきりと感じられた。頬を包む指がぴくっと動き、一瞬舌が動きを止めるが、すぐにまた咥内を撫でられる。絡んで、離れて、呼吸を整える時間が与えられて、また重なる。
不意に両耳に触れられ、ちょっと驚いて目を開いた。手つきにも視線にもけして責めようという意図は感じられなくて、そっとそっと包むように耳を覆われた。途端。くちゅくちゅという口の中の音と、自分のいつもより早い鼓動の音しか聞こえなくなる。
どこか遠くで水の跳ねる音が聞こえた気がした。
そうでなくても狭い私の世界が、耳をふさがれてますます閉塞される。でもそこには安心感があって、私はずるずるとお湯に溶けるように体も思考も力を抜いていってしまうのだ。頭がぼうっとしてくる。しばらくして唇が離れると、ニシキさんと目があった。
耳を塞いでいた手が滑って、目じりをそっとなぞる。
「よかった。涙止まったね。千尋の目が溶けちゃったらどうしようかと思った」
壊れた蛇口みたいに流れ続けていた涙が止まっていた。心地いいキスに夢中でそんなことにも気づかなかった。
「ん・・・。もし、目が溶けちゃったらどうするの?」
馬鹿らしい甘い言葉に、馬鹿々々しい質問で返した。ニシキさんは大まじめな表情で、考えもせずに答える。
「私が千尋の目になる。何の不自由も感じさせない自信があるよ?ああでもそうしたら、あなたの目が溶けてなくなってしまったら、せっかくだから赤いガラス球を入れたいな。私とお揃いの」
さすがニシキさん。頭沸いてる。囁くような声で返された戯言に、何故か安心する。目じりをぺろりと舐められて思わず目をつむる。ニシキさんの手が心臓の上に置かれた。私たちは鏡合わせのように同じ姿勢になっていて、そのことによくわからない満足感を覚えた。見上げるとにこりと笑う。お風呂に浸かっているせいか、ニシキさんの手はいつもよりずっと温かくなっていて、その熱がじんわりと胸に広がっていく官職が気持ちいい。
「でも、千尋に見つめてもらえないのは寂しいから、やっぱり溶けないでくれるのが一番いいな」
私も、あなたの姿を見ていられなくなるのはとても寂しいから、いやだな。
彼の目に裸の胸が晒されていることにもう少し恥じらうべきなのかもしれないけれど、ニシキさんの触れ方が優しくてとてもそんな気になれない。触れるのをやめないでほしい。もっと、私が生きていることをその手で確かめてほしい。
私の心臓の上に重ねられていた手を取って、左の乳房の上に移動させる。ぺたっと濡れた手が胸を押しつぶす。彼の熱の分だけ、私の胸にじわりと熱が広がった。
「なぐ、さ、めて?」
そっと窺うように見上げると、ニシキさんはちょっとびっくりするくらいに間抜けな表情で私を見ていた。視線が合うと一気に顔が赤く染まる。何故だか非常に悔しそうな、にも拘らず笑いそうなのを耐えるような、本当に変な顔をして、ぷいっと背けた。耳まで真っ赤だった。何をそんなに照れているんだ。
ちらり、と切れ長の目が私に流し目をよこす。そのとんでもない破壊力を彼は自覚しているのだろうか。
はあ、と彼は盛大なため息をついて、こつんと額を合わせてきた。ふにふにとささやかな胸がいたずらに揉まれる。
「千尋。少し可愛いさを自重してほしいんだけど。千尋がそんなだからいつもついつい虐めちゃうんだよ。千尋が悪い」
「え。いや。それは絶対に言いがかりだと思う」
途中までなら甘ったるいセリフなのに最後ので台無しだ。赤くなりかけた顔が一気に真顔になって言葉尻を拾う勢いで否定した。
真剣な表情で何を言うんだこの蛇野郎。とんでもない言いがかりだ。単純に自分がドSで鬼畜なだけじゃないか。責任転嫁しないでほしい。
またため息をつく。ちょっとばかりわざとらしい、ふざけた色合いのため息。それからやわらかく笑って、ぎゅうっと抱きしめられた。ぴたりと合わさった胸から鼓動の音が交わるみたいで、それが心地よくて、私もぎゅっと抱き返す。
「慰めさせて」
耳元でささやかれた言葉に、ニシキさんの首元に顔をうずめ、頷いて返した。
***
ニシキは今回の件に関しては、心底反省していたし、後悔していたし、負い目も感じていた。千尋をこんな目にあわせるつもりなど毛頭なかったし、あんな血にまみれた自身を見せるつもりだってなかった。千尋の意識が、ニシキにとってはいい方向に刺激されたことの一点のみ、この件は役立ったといえるのだろうが、それ以外は最悪だ。なんでまどろっこしいやり方を選んでしまったのか。角は立つがもっと確実で、千尋を傷つけない方法などいくらでもあったのだ。こればかりは自身の驕りだろう、とニシキは結論付ける。
千尋の存在は徐々に多種族の妖怪たちに知られ始めている。『知られる』程度で済めばいいが、いっそのこと有名になりだしているくらいだ。
「領」というのは基本的に、妖気の有り余っている妖怪のもとに同種の妖怪たちが侍り、その妖気のおこぼれを得る代わりにある程度の主従関係を築いてできる集団だ。ニシキの屋敷の周りにも城下町よろしく蛇妖怪たちの集落ができている。
さて。千尋から潤沢な気を得て、それを自身の妖気へつつがなく変換しているニシキは現在、今までになく絶好調である。妖気の質もよければ量も溢れかえるほどあり、鱗の艶もよし。となるとそのおこぼれにあずかる領の蛇たちにもたっぷりとおすそわけが来るわけである。そうすると自然、領に住まう蛇妖怪全体の力が底上げされているわけで、これが面白くない妖怪ももちろんいるわけである。
この屋敷に来てから千尋の披露目をしたことはないが、とはいえ妖怪の口にも戸は立てられない。そうでなくてもニシキ自身がけして無名な妖怪ではない。ニシキが復活したというだけですでになかなかなニュースになったというのにそれが女を囲っているとなれば、さらには領全体の力が増しているとなれば、噂にならないはずもなかった。
おいしそうな匂いを垂れ流している千尋を買い物になんて出したらあっという間に骨までしゃぶられてしまうに決まっているので、なかなか屋敷の外へも出してやれない。もともと、ニシキとしては他人の目に触れさせたくもないのでそこは好都合だ。それでも千尋だって年頃の女なわけで、そうでなくてもいろいろとしばりつけてしまっているニシキとしては、せめて簾ごしに買い物くらいはさせてやりたいわけで、行商も呼ぶというわけである。葵や花菱といった妖気が強い古参で信頼のおける者と、さらには自身が同席することで、少しでも千尋の匂いをごまかそうとはしているのだが、行商たちとて妖怪だ。彼らが千尋の匂いを嗅ぎつけてしまうのは致し方のないことだった。
そういうわけで、すでに千尋が襲撃をうけるというのは蛇妖怪たちの間では日常化しており、害虫駆除をするような淡々とした作業と化していた。千尋の恩恵を少なからず感じている領に住む蛇妖怪たちも当たり前のように妖しい者を排除するため、大抵の襲撃者は屋敷にすら入れずに終わる。
今回の鳥の妖怪たちの件は、鳥妖怪が千尋を狙っているという情報を得たニシキと花菱とで一計を案じたものだった。
鳥妖怪は数が多い。天狗などの古の妖怪も多く、戦をするとなると厄介なのだ。下手を打って全面戦争などという面倒なことになることは避けたかった。彼らを撃退するにしろ、あくまで正当防衛という口実がほしかった。
ニシキが千尋を一人寝室に残したのは、千尋を囮にする為だ。行商としてやってきた鳥妖怪たちを屋敷へ通し、ニシキだけが来て、妻は具合が悪くて寝込んでいる、とこぼす。もし鳥妖怪が千尋を襲いに寝室へと出向けばそこまでの間にすべて取り押さえてしまうという、何の技巧も凝らされていない単純な作戦だった。
鳥というのはどういうわけか自分が空を飛んでいることに気づかれていないと過信しがちだ。蛇は地べたを這いずっているから上空のことには気づかないとでも思っているのだろう。しばらく前からニシキの屋敷の上空に妖しい影がちらほらとあることに、まさか彼らが気が付いていないはずもないのに。
案の定というべきなのか、行商の鳥妖怪たちが上空の鳥たちに合図を送ったようで、千尋の眠る寝室に舞い降りていった。ほとんどの者たちは即刻捕えられたが、捕まえた数と感知していた妖気の数が合わない。どういうことだ、と話し合っていたところに千尋が現れたのである。
ニシキは千尋を一人にしてもいいと思える程度にはその場を整えていた。まずいつも以上に寝室の結界は強力なものを張った。これを崩せるようなレベルの妖怪がやってきたとしたならば、それこそ戦争以外に道が残されていない。鳥妖怪とてそこまでのことはしないはずである。
さらに、千尋自身にも元々複雑な呪い(まじない)をかけてある。これを通り抜けて千尋に触れることができるのはニシキより力を持っているものだけで、それはなかなかに数に限りがある。かわいくないのは子の呪いがけして千尋を守るためだけではないということだろうか。千尋の魂に刻まれたこの呪いは、ニシキの意思一つで千尋を安らかな眠りのような死へと誘う。
千尋に言った「一緒に生きて、一緒に死んで」という言葉にはまるで嘘はなかった。
千尋が縁側の角に現れた時、ニシキはかなり驚いていた。彼女はニシキの呪いで深い眠りの中にいるはずだったからだ。
彼女にかけた呪いが弱かったのか?と考えたがそんな思考は一瞬で吹っ飛んだ。縁側の床板から湧き出るようにして鳥妖怪が現れたのだ。ニシキは心臓が凍り付くような感触を覚えた次の瞬間にはもう動いていた。千尋の体を絡めとり、鳥妖怪のろっ骨をへし折りながらその胸に鋭く手を突きこみ心臓を握りこんでいた。
正直なところ、あの鳥妖怪では千尋にかすり傷すら負わせることはできなかったことだろう。けれどその時のニシキにそんなことは欠片も思い浮かばなかった。目の前の敵を確実に殺すこと以外何も考えていなかった。千尋に害をなすものの排除以外なにも。
鳥妖怪の心臓を握りつぶし、血の雨を被りながらニシキは思考を回転させていた。鳥妖怪が床板から現れたのはどう考えても異常だ。床がまるで水面のように波打っていた。
そこまで考えてニシキは破り捨てた嘆願書のことを思い返す。もはや他人と呼ぶべき遠い親戚とやらの救援要請。確か人魚からだった。人魚と言えば惑わすこと、潜り込むことにかけては他に追随を許さない。
苦虫を噛み潰したよう気分になる。しくじったと思った。少し調べれば予想ができたことだ。鳥妖怪と人魚が戦をしていたことも、その捕虜を利用するであろうことも。いや、もしかするとこれだけ力の強い人魚が力を貸しているということは、人魚側の逆恨みなのかもしれない。自らを助けてくれなかったニシキへの。
千尋が目を覚まし、ニシキの元へとやってきたのはきっとこのためだと、彼は一人納得した。
千尋はこちらに来てからその勘の良さにさらに磨きがかかっている。そのうち千里眼でも会得しそうな勢いだ。今のところ、本人にその自覚はなく、ニシキもわざわざそれを本人に伝える気はない。
千尋は自身にとんでもない呪いがかかっていることは知らないが、寝室に結界が張ってあることは知っている。恐らくはそれを超えて何かがやってくることを察知したのだろう。それで自分を守ってくれる存在の元へと逃げてきたのだ。そして、確かに人魚であればあの結界を潜り抜けて寝室へ入り込むことが可能だろう。寝室の結界はあくまで鳥の妖怪の襲撃に対し強化したもので、潜り込まれることに対して対策はされていない。
すぐさま、人魚の行方を探る。少しでも回復を図ろうとしているのか、人魚は風呂場へと向かったようだった。探す方向さえ特定できていれば蛇の探知能力を逃れるのは非常に難しい。上空にばかり目を取られていたのも敗因の一つだろう。
やつれた千尋を抱え、風呂場へと急ぎながらニシキは大半の意識を千尋の様子に配りながらも、人魚から意識をそらさなかった。これ以上千尋を危険な目に合わせるわけにはいかない。
もう引くことはできないのだ。人魚は。きっとこちらの隙を狙って攻撃を仕掛けてくるだろう。余裕もないはずだ。隙を作るまでもない。見つけたらその場で絞め殺してくれる。
風呂場に入ってすぐ、ニシキは目もくれずにその長い胴体を使って湯の中に潜んでいた人魚を音もなく捕え、広い風呂場の片隅、湯気で千尋の目には触れない場所で声も出ぬように口元を覆い、雁字搦めにした上で抱え上げた。そしてそのまま千尋の体を丁寧に洗ってやり、自身も千尋に「血の臭いがする」なんて言われないように丁寧に洗い、湯船につかったのだ。
絡めとった胴体の中で、人魚が必死に悶えているのが伝わってくる。感触からして恐らく女の人魚なのだろうが、そんなことはニシキがその締め付けを緩める理由にはなりえなかった。
甘えてくる千尋をそっと慰める。本当に、心底怖かったのだろう。ぼろぼろと泣きながら体の芯を震わせている。優しく優しく、真綿で包むように撫でさすり、口付けた。いい加減そちらに集中したいので人魚の存在が非常に邪魔だった。だがさすがに骨を折る音は聞こえてしまうだろうと千尋の耳をそっと覆う。人魚を捕えた胴体を水中に沈め、まるで加減なく締上げる。尾びれが一回だけ抵抗するように水を跳ね飛ばしたが、ほとんど同時に首の骨をべきりと折ったため、それ以上の反撃はなかった。致命傷だけでは安心できず、そのまま締上げて全身の骨を複雑骨折させる。本当なら首をねじ切ってしまいたいのだが、千尋の入っている風呂を血で汚したくなかった。
やわらかい唇に、手のひらに収まる乳房に優しく触れる。
目元を指先でなぞって癒す。本当に可哀そうなことをしてしまったと、その頬を両手で包みながらニシキは再度深く反省していた。
彼女を囮になんてもう二度とつかわないと心に誓う。いくらがちがちに守っていても、彼女に危険が及ぶことをよしとできないし、それ以上に千尋はニシキたち妖怪ほど殺伐とした情景に免疫がない。内臓を見たくらいで嘔吐してしまうのだ。もっと考えるべきだった。少しばかり力を増して調子に乗っていた。それで千尋を傷つけてしまった。自身が傷つくくらいで済むのならまだよかったのに。
濡れたこげ茶色の目が見上げてくる。「なぐさめて」と。
反省も後悔も胸の奥底に沈んで行って、酩酊するような浮ついた眩暈を覚えた。彼はもちろん理解していた。千尋には煽る気なんてないということを。理性を試されているのかと疑うのが間違いだということを。常ならば、ここで意図的に理性が負けるわけだが、今日ばかりはそういうわけにはいかない。反省、反省、と脳内で念仏のように唱えた。
その溶けそうなほどに潤んで、信頼しきった視線をよこす瞳がいかに蠱惑的であろうと、決していたぶり尽くしてはいけない。喘ぎ声というには些か絶叫に傾きすぎている声で鳴かせてもダメだし、その目が虚ろになり、前後不覚どころか語彙能力が獣レベルに落ちるまで快楽に貶めてもダメだ。
狂暴な欲に無理やり蓋をして、ニシキとしては一歩間違えたらへし折ってしまいそうな小さな体を、力加減に気を付けながら抱きしめる。
抱きしめているというのに、沈み込んでしまいそうな柔らかい感触に自分が抱き込まれているような気になる。そのぬくもりと鼓動に安らぐ。
「慰めさせて」
自分にも言い聞かせるように、千尋の耳元で囁いた。鎖骨に顎を乗せ首に額を預けている千尋が小さくうなずいて了承する。ああ可愛い。性的にも物理的にも食らいつくしてしまいたくなる。ニシキは本気で、いつか寝ぼけて千尋を齧ってしまっていたらどうしようかと不安になった。
密着する濡れた彼女の肌はいつも以上に温かくて、移る体温が体の奥に蓄積されていく。ヒト型を取った方が理性を保つのが楽なのだが、そうすると人魚の死体の扱いに困る。どうしたものかと悩んだ末、とりあえず我慢できる限り我慢しよう、という行き当たりばったりな結論に至る。
よくよく千尋の様子を観察しながらゆっくりと体を撫でる。彼女の体のことなら本人よりも知り尽くしていた。ニシキが触れれば千尋の体は簡単に反応する。すぐに濡れてしまうことにニシキがどれほど煽られているかなんて、千尋が知る由もない。
千尋のつるりとした陰唇がすでにぬめり気を帯び始めていることに、ニシキはもちろん気づいていた。毎回あれだけ酷い抱かれ方をしていて、よくもまあこれだけ無防備にソコを押し付けてくるものだ、と半ばあきれる。今彼女が跨っている蛇腹に擦りあげられて果てたことだって一度や二度ではないというのに。
心地よさそうにニシキの首筋に額を預けて、半開きの口からいつもより少しだけ早い、熱っぽい呼吸が漏れる。半分ほど閉じられた瞳には理性が残っているのに、恍惚とした表情をしていた。どくん、と胸が騒ぐ。たぶん今、顔が赤いな、とニシキは気恥ずかしくなってしまう。年甲斐もない。まったく本当に恥ずかしい限りだ。
むさぼり尽くしてしまえという欲求が、ふっと落ち着く。たまには、こんな風に何にも警戒をしていない彼女を抱くのも素敵かもしれない、と。千尋に理性が残っているときにちょっかいをかけると、それはもう一生懸命に抵抗してくるのだ。その理性を瓦解させていく過程は、大変、非常に、ものすごく楽しいわけだが、こうやって信用しきって最初から身を預けられてしまうととてもとてもその期待を裏切る気にはなれない。
いつもは餌で釣っている野良猫が、自主的に頭を撫でろと近寄ってきた時のような感動があった。とはいえニシキは、猫はまったく好かないので、あくまで想像でしかないのだが。
千尋の後頭部を撫でてやりながら、背筋をゆっくりとなでおろしていく。お尻まで撫でて、また同じ順路を辿って撫で上げる。頭を撫でていた手を彼女の腰に回して支え、撫で上げた手で彼女の鎖骨のあたりを撫でながら柔らかく押して、密着していた体に僅かばかり隙間を開けた。お湯が二人の間に流れ込んだ。千尋からの抵抗はなかった。背中に回っていた千尋の手が肩に、首に額を預けていた頭が反対の肩に移った程度だ。乳房を優しく包み込むと、小さなため息をついた。
手のひらに触れる感触で、乳首が主張し始めていることに気づく。本当に、体ばっかり正直なんだから、とニシキは口にしないまま小さく笑った。
きゅっと、肩に添えられた指先に力が入る。彼女の表情を窺い見ると、視線が絡んだ。眠たげな視線だ。伏せられ気味の睫毛に、涙の残滓か、お湯かわからない水滴が乗っている。吸い寄せられるようにして、熱い吐息を吐く半開きの唇に口づけた。
優しく優しく、お湯の中を泳ぐようにニシキさんの手が背中を撫でおろしていく。キスが降る。瞼に、額に、鼻の頭に、頬に、最後に唇に。鳥がついばむようなものではなくて、ゆっくりと触れて撫でるように離れていく、静かなキスだった。
恐怖に竦んで変な力の入っていた体からゆっくりと力が抜けていく。
尾てい骨まで下りた手がまたゆっくりと撫で上がって、それから肩を撫でていく。ちゃぷっと音がして首筋に優しくお湯をかけられる。羽のような触れ方が心地よくて、思わず目を閉じる。こんなことしてていいのかな?という疑問もどこかにあったけれど、ニシキさんに甘やかしてほしかった。すごく、怖かったから。
ニシキさんに抱き着いたとき、全裸だというのにまたがってしまったことを今更恥ずかしく感じだす。今までまるで気にしていなかったのだけれど、こうして優しく触れられると、途端に意識してしまうのは、あまりに単純だろうか。それでも離れるという選択肢は浮かばなかった。くっついていたい。離れたくない。
ニシキさんの唇が顎のラインを添って首筋に落ちる。覆いかぶさるようにして、うなじへと伝い、そこから肩へと滑っていく。片手は魚みたいに私の背中をそうっと撫でて、もう片方の手はまだ流れ続ける涙を拭って、唇が流れていったのとは逆の肩へ首筋を撫でおろしていった。
もっと唇にキスをして欲しくて、でもなんて言ったらいいのかわからなくて、ニシキさんの背中に回していた手で、その長い髪をくいくいと引っ張った。肩にあるニシキさんの顔を盗み見ると、いつも以上に優しい表情で笑っていて、見惚れていたらそのまま近づいてきて、お伽噺のお姫様にするような優しいキスをされた。お伽噺なら、きっと彼は素敵な悪役になれそうだけど、私にとって彼は白馬の王子様だ。いや、白蛇の、だろうか。どうでもいいことが脳裏を巡っていった。
ゆっくりと触れて、またゆっくりと離れた唇が惜しくて、追いかけるようにして私から唇を重ねる。それは抵抗もなくすんなりと受け入れられ、腰と後頭部を抱かれ。それでも激しさなんて欠片も感じられない、優しく優しく口づけあう。ニシキさんの背中をするすると撫で上げる。すべすべの肌が気持ちいい。腰に回された彼の手がピクリと震えた。くふん、とニシキさんの鼻息が頬をくすぐる。
唇で下唇を食まれる。むず痒くなってしまうようなそのやわらかい感触に、思わず顔を引くと、唇は簡単に離れてしまった。少し荒くなった呼吸がまじりあう。次いで視線が絡んだ。そこに意地悪な色はまるでなく、ただただ優しくて、私がどうしたいのかを伺っている。それがどうしようもないほどに嬉しくて、また私から唇を重ねた。ニシキさんの真似をして、彼の下唇を同じように唇だけで食む。合わせたままの視線の先で、彼の目がゆっくりと笑った。両手で頬を包まれる。上唇をちゅッと吸われた。戯れるようなそのキスに私も少しだけ笑った。
背中に回していた手を片方、彼の心臓の上に置く。止まっているんじゃないかというほどにゆっくり、けれどしっかりと、それは脈打っている。ああ、生きてる。あの鳥の妖怪にも、帰りを待つ人がいたのだろうか・・・。
ニシキさんの下唇に舌を這わす。そうすると上唇を甘噛みされた。またむず痒くなってしまって思わず顔を引くと、今度はニシキさんが追ってきてまた優しく唇が重なる。ぬるりと舌が入り込んで、優しく咥内を探っていく。上顎をなぞって、頬の内側を舐められて、舌を撫でられる。鼻からため息なのか喘ぎ声なのかわからない呼吸が抜けていく。いつもの、頭がおかしくなるような、私を快楽に突き落とそうとするものではなくて、慰めるようにそっとそっと舌が絡む。
安心してしまうような、ともすれば眠くなってしまいそうな心地よさのそれに、目を閉じた。跨ったニシキさんの蛇の体を太ももでぎゅっと絞める。密着度が増して、鱗の一枚一枚がはっきりと感じられた。頬を包む指がぴくっと動き、一瞬舌が動きを止めるが、すぐにまた咥内を撫でられる。絡んで、離れて、呼吸を整える時間が与えられて、また重なる。
不意に両耳に触れられ、ちょっと驚いて目を開いた。手つきにも視線にもけして責めようという意図は感じられなくて、そっとそっと包むように耳を覆われた。途端。くちゅくちゅという口の中の音と、自分のいつもより早い鼓動の音しか聞こえなくなる。
どこか遠くで水の跳ねる音が聞こえた気がした。
そうでなくても狭い私の世界が、耳をふさがれてますます閉塞される。でもそこには安心感があって、私はずるずるとお湯に溶けるように体も思考も力を抜いていってしまうのだ。頭がぼうっとしてくる。しばらくして唇が離れると、ニシキさんと目があった。
耳を塞いでいた手が滑って、目じりをそっとなぞる。
「よかった。涙止まったね。千尋の目が溶けちゃったらどうしようかと思った」
壊れた蛇口みたいに流れ続けていた涙が止まっていた。心地いいキスに夢中でそんなことにも気づかなかった。
「ん・・・。もし、目が溶けちゃったらどうするの?」
馬鹿らしい甘い言葉に、馬鹿々々しい質問で返した。ニシキさんは大まじめな表情で、考えもせずに答える。
「私が千尋の目になる。何の不自由も感じさせない自信があるよ?ああでもそうしたら、あなたの目が溶けてなくなってしまったら、せっかくだから赤いガラス球を入れたいな。私とお揃いの」
さすがニシキさん。頭沸いてる。囁くような声で返された戯言に、何故か安心する。目じりをぺろりと舐められて思わず目をつむる。ニシキさんの手が心臓の上に置かれた。私たちは鏡合わせのように同じ姿勢になっていて、そのことによくわからない満足感を覚えた。見上げるとにこりと笑う。お風呂に浸かっているせいか、ニシキさんの手はいつもよりずっと温かくなっていて、その熱がじんわりと胸に広がっていく官職が気持ちいい。
「でも、千尋に見つめてもらえないのは寂しいから、やっぱり溶けないでくれるのが一番いいな」
私も、あなたの姿を見ていられなくなるのはとても寂しいから、いやだな。
彼の目に裸の胸が晒されていることにもう少し恥じらうべきなのかもしれないけれど、ニシキさんの触れ方が優しくてとてもそんな気になれない。触れるのをやめないでほしい。もっと、私が生きていることをその手で確かめてほしい。
私の心臓の上に重ねられていた手を取って、左の乳房の上に移動させる。ぺたっと濡れた手が胸を押しつぶす。彼の熱の分だけ、私の胸にじわりと熱が広がった。
「なぐ、さ、めて?」
そっと窺うように見上げると、ニシキさんはちょっとびっくりするくらいに間抜けな表情で私を見ていた。視線が合うと一気に顔が赤く染まる。何故だか非常に悔しそうな、にも拘らず笑いそうなのを耐えるような、本当に変な顔をして、ぷいっと背けた。耳まで真っ赤だった。何をそんなに照れているんだ。
ちらり、と切れ長の目が私に流し目をよこす。そのとんでもない破壊力を彼は自覚しているのだろうか。
はあ、と彼は盛大なため息をついて、こつんと額を合わせてきた。ふにふにとささやかな胸がいたずらに揉まれる。
「千尋。少し可愛いさを自重してほしいんだけど。千尋がそんなだからいつもついつい虐めちゃうんだよ。千尋が悪い」
「え。いや。それは絶対に言いがかりだと思う」
途中までなら甘ったるいセリフなのに最後ので台無しだ。赤くなりかけた顔が一気に真顔になって言葉尻を拾う勢いで否定した。
真剣な表情で何を言うんだこの蛇野郎。とんでもない言いがかりだ。単純に自分がドSで鬼畜なだけじゃないか。責任転嫁しないでほしい。
またため息をつく。ちょっとばかりわざとらしい、ふざけた色合いのため息。それからやわらかく笑って、ぎゅうっと抱きしめられた。ぴたりと合わさった胸から鼓動の音が交わるみたいで、それが心地よくて、私もぎゅっと抱き返す。
「慰めさせて」
耳元でささやかれた言葉に、ニシキさんの首元に顔をうずめ、頷いて返した。
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ニシキは今回の件に関しては、心底反省していたし、後悔していたし、負い目も感じていた。千尋をこんな目にあわせるつもりなど毛頭なかったし、あんな血にまみれた自身を見せるつもりだってなかった。千尋の意識が、ニシキにとってはいい方向に刺激されたことの一点のみ、この件は役立ったといえるのだろうが、それ以外は最悪だ。なんでまどろっこしいやり方を選んでしまったのか。角は立つがもっと確実で、千尋を傷つけない方法などいくらでもあったのだ。こればかりは自身の驕りだろう、とニシキは結論付ける。
千尋の存在は徐々に多種族の妖怪たちに知られ始めている。『知られる』程度で済めばいいが、いっそのこと有名になりだしているくらいだ。
「領」というのは基本的に、妖気の有り余っている妖怪のもとに同種の妖怪たちが侍り、その妖気のおこぼれを得る代わりにある程度の主従関係を築いてできる集団だ。ニシキの屋敷の周りにも城下町よろしく蛇妖怪たちの集落ができている。
さて。千尋から潤沢な気を得て、それを自身の妖気へつつがなく変換しているニシキは現在、今までになく絶好調である。妖気の質もよければ量も溢れかえるほどあり、鱗の艶もよし。となるとそのおこぼれにあずかる領の蛇たちにもたっぷりとおすそわけが来るわけである。そうすると自然、領に住まう蛇妖怪全体の力が底上げされているわけで、これが面白くない妖怪ももちろんいるわけである。
この屋敷に来てから千尋の披露目をしたことはないが、とはいえ妖怪の口にも戸は立てられない。そうでなくてもニシキ自身がけして無名な妖怪ではない。ニシキが復活したというだけですでになかなかなニュースになったというのにそれが女を囲っているとなれば、さらには領全体の力が増しているとなれば、噂にならないはずもなかった。
おいしそうな匂いを垂れ流している千尋を買い物になんて出したらあっという間に骨までしゃぶられてしまうに決まっているので、なかなか屋敷の外へも出してやれない。もともと、ニシキとしては他人の目に触れさせたくもないのでそこは好都合だ。それでも千尋だって年頃の女なわけで、そうでなくてもいろいろとしばりつけてしまっているニシキとしては、せめて簾ごしに買い物くらいはさせてやりたいわけで、行商も呼ぶというわけである。葵や花菱といった妖気が強い古参で信頼のおける者と、さらには自身が同席することで、少しでも千尋の匂いをごまかそうとはしているのだが、行商たちとて妖怪だ。彼らが千尋の匂いを嗅ぎつけてしまうのは致し方のないことだった。
そういうわけで、すでに千尋が襲撃をうけるというのは蛇妖怪たちの間では日常化しており、害虫駆除をするような淡々とした作業と化していた。千尋の恩恵を少なからず感じている領に住む蛇妖怪たちも当たり前のように妖しい者を排除するため、大抵の襲撃者は屋敷にすら入れずに終わる。
今回の鳥の妖怪たちの件は、鳥妖怪が千尋を狙っているという情報を得たニシキと花菱とで一計を案じたものだった。
鳥妖怪は数が多い。天狗などの古の妖怪も多く、戦をするとなると厄介なのだ。下手を打って全面戦争などという面倒なことになることは避けたかった。彼らを撃退するにしろ、あくまで正当防衛という口実がほしかった。
ニシキが千尋を一人寝室に残したのは、千尋を囮にする為だ。行商としてやってきた鳥妖怪たちを屋敷へ通し、ニシキだけが来て、妻は具合が悪くて寝込んでいる、とこぼす。もし鳥妖怪が千尋を襲いに寝室へと出向けばそこまでの間にすべて取り押さえてしまうという、何の技巧も凝らされていない単純な作戦だった。
鳥というのはどういうわけか自分が空を飛んでいることに気づかれていないと過信しがちだ。蛇は地べたを這いずっているから上空のことには気づかないとでも思っているのだろう。しばらく前からニシキの屋敷の上空に妖しい影がちらほらとあることに、まさか彼らが気が付いていないはずもないのに。
案の定というべきなのか、行商の鳥妖怪たちが上空の鳥たちに合図を送ったようで、千尋の眠る寝室に舞い降りていった。ほとんどの者たちは即刻捕えられたが、捕まえた数と感知していた妖気の数が合わない。どういうことだ、と話し合っていたところに千尋が現れたのである。
ニシキは千尋を一人にしてもいいと思える程度にはその場を整えていた。まずいつも以上に寝室の結界は強力なものを張った。これを崩せるようなレベルの妖怪がやってきたとしたならば、それこそ戦争以外に道が残されていない。鳥妖怪とてそこまでのことはしないはずである。
さらに、千尋自身にも元々複雑な呪い(まじない)をかけてある。これを通り抜けて千尋に触れることができるのはニシキより力を持っているものだけで、それはなかなかに数に限りがある。かわいくないのは子の呪いがけして千尋を守るためだけではないということだろうか。千尋の魂に刻まれたこの呪いは、ニシキの意思一つで千尋を安らかな眠りのような死へと誘う。
千尋に言った「一緒に生きて、一緒に死んで」という言葉にはまるで嘘はなかった。
千尋が縁側の角に現れた時、ニシキはかなり驚いていた。彼女はニシキの呪いで深い眠りの中にいるはずだったからだ。
彼女にかけた呪いが弱かったのか?と考えたがそんな思考は一瞬で吹っ飛んだ。縁側の床板から湧き出るようにして鳥妖怪が現れたのだ。ニシキは心臓が凍り付くような感触を覚えた次の瞬間にはもう動いていた。千尋の体を絡めとり、鳥妖怪のろっ骨をへし折りながらその胸に鋭く手を突きこみ心臓を握りこんでいた。
正直なところ、あの鳥妖怪では千尋にかすり傷すら負わせることはできなかったことだろう。けれどその時のニシキにそんなことは欠片も思い浮かばなかった。目の前の敵を確実に殺すこと以外何も考えていなかった。千尋に害をなすものの排除以外なにも。
鳥妖怪の心臓を握りつぶし、血の雨を被りながらニシキは思考を回転させていた。鳥妖怪が床板から現れたのはどう考えても異常だ。床がまるで水面のように波打っていた。
そこまで考えてニシキは破り捨てた嘆願書のことを思い返す。もはや他人と呼ぶべき遠い親戚とやらの救援要請。確か人魚からだった。人魚と言えば惑わすこと、潜り込むことにかけては他に追随を許さない。
苦虫を噛み潰したよう気分になる。しくじったと思った。少し調べれば予想ができたことだ。鳥妖怪と人魚が戦をしていたことも、その捕虜を利用するであろうことも。いや、もしかするとこれだけ力の強い人魚が力を貸しているということは、人魚側の逆恨みなのかもしれない。自らを助けてくれなかったニシキへの。
千尋が目を覚まし、ニシキの元へとやってきたのはきっとこのためだと、彼は一人納得した。
千尋はこちらに来てからその勘の良さにさらに磨きがかかっている。そのうち千里眼でも会得しそうな勢いだ。今のところ、本人にその自覚はなく、ニシキもわざわざそれを本人に伝える気はない。
千尋は自身にとんでもない呪いがかかっていることは知らないが、寝室に結界が張ってあることは知っている。恐らくはそれを超えて何かがやってくることを察知したのだろう。それで自分を守ってくれる存在の元へと逃げてきたのだ。そして、確かに人魚であればあの結界を潜り抜けて寝室へ入り込むことが可能だろう。寝室の結界はあくまで鳥の妖怪の襲撃に対し強化したもので、潜り込まれることに対して対策はされていない。
すぐさま、人魚の行方を探る。少しでも回復を図ろうとしているのか、人魚は風呂場へと向かったようだった。探す方向さえ特定できていれば蛇の探知能力を逃れるのは非常に難しい。上空にばかり目を取られていたのも敗因の一つだろう。
やつれた千尋を抱え、風呂場へと急ぎながらニシキは大半の意識を千尋の様子に配りながらも、人魚から意識をそらさなかった。これ以上千尋を危険な目に合わせるわけにはいかない。
もう引くことはできないのだ。人魚は。きっとこちらの隙を狙って攻撃を仕掛けてくるだろう。余裕もないはずだ。隙を作るまでもない。見つけたらその場で絞め殺してくれる。
風呂場に入ってすぐ、ニシキは目もくれずにその長い胴体を使って湯の中に潜んでいた人魚を音もなく捕え、広い風呂場の片隅、湯気で千尋の目には触れない場所で声も出ぬように口元を覆い、雁字搦めにした上で抱え上げた。そしてそのまま千尋の体を丁寧に洗ってやり、自身も千尋に「血の臭いがする」なんて言われないように丁寧に洗い、湯船につかったのだ。
絡めとった胴体の中で、人魚が必死に悶えているのが伝わってくる。感触からして恐らく女の人魚なのだろうが、そんなことはニシキがその締め付けを緩める理由にはなりえなかった。
甘えてくる千尋をそっと慰める。本当に、心底怖かったのだろう。ぼろぼろと泣きながら体の芯を震わせている。優しく優しく、真綿で包むように撫でさすり、口付けた。いい加減そちらに集中したいので人魚の存在が非常に邪魔だった。だがさすがに骨を折る音は聞こえてしまうだろうと千尋の耳をそっと覆う。人魚を捕えた胴体を水中に沈め、まるで加減なく締上げる。尾びれが一回だけ抵抗するように水を跳ね飛ばしたが、ほとんど同時に首の骨をべきりと折ったため、それ以上の反撃はなかった。致命傷だけでは安心できず、そのまま締上げて全身の骨を複雑骨折させる。本当なら首をねじ切ってしまいたいのだが、千尋の入っている風呂を血で汚したくなかった。
やわらかい唇に、手のひらに収まる乳房に優しく触れる。
目元を指先でなぞって癒す。本当に可哀そうなことをしてしまったと、その頬を両手で包みながらニシキは再度深く反省していた。
彼女を囮になんてもう二度とつかわないと心に誓う。いくらがちがちに守っていても、彼女に危険が及ぶことをよしとできないし、それ以上に千尋はニシキたち妖怪ほど殺伐とした情景に免疫がない。内臓を見たくらいで嘔吐してしまうのだ。もっと考えるべきだった。少しばかり力を増して調子に乗っていた。それで千尋を傷つけてしまった。自身が傷つくくらいで済むのならまだよかったのに。
濡れたこげ茶色の目が見上げてくる。「なぐさめて」と。
反省も後悔も胸の奥底に沈んで行って、酩酊するような浮ついた眩暈を覚えた。彼はもちろん理解していた。千尋には煽る気なんてないということを。理性を試されているのかと疑うのが間違いだということを。常ならば、ここで意図的に理性が負けるわけだが、今日ばかりはそういうわけにはいかない。反省、反省、と脳内で念仏のように唱えた。
その溶けそうなほどに潤んで、信頼しきった視線をよこす瞳がいかに蠱惑的であろうと、決していたぶり尽くしてはいけない。喘ぎ声というには些か絶叫に傾きすぎている声で鳴かせてもダメだし、その目が虚ろになり、前後不覚どころか語彙能力が獣レベルに落ちるまで快楽に貶めてもダメだ。
狂暴な欲に無理やり蓋をして、ニシキとしては一歩間違えたらへし折ってしまいそうな小さな体を、力加減に気を付けながら抱きしめる。
抱きしめているというのに、沈み込んでしまいそうな柔らかい感触に自分が抱き込まれているような気になる。そのぬくもりと鼓動に安らぐ。
「慰めさせて」
自分にも言い聞かせるように、千尋の耳元で囁いた。鎖骨に顎を乗せ首に額を預けている千尋が小さくうなずいて了承する。ああ可愛い。性的にも物理的にも食らいつくしてしまいたくなる。ニシキは本気で、いつか寝ぼけて千尋を齧ってしまっていたらどうしようかと不安になった。
密着する濡れた彼女の肌はいつも以上に温かくて、移る体温が体の奥に蓄積されていく。ヒト型を取った方が理性を保つのが楽なのだが、そうすると人魚の死体の扱いに困る。どうしたものかと悩んだ末、とりあえず我慢できる限り我慢しよう、という行き当たりばったりな結論に至る。
よくよく千尋の様子を観察しながらゆっくりと体を撫でる。彼女の体のことなら本人よりも知り尽くしていた。ニシキが触れれば千尋の体は簡単に反応する。すぐに濡れてしまうことにニシキがどれほど煽られているかなんて、千尋が知る由もない。
千尋のつるりとした陰唇がすでにぬめり気を帯び始めていることに、ニシキはもちろん気づいていた。毎回あれだけ酷い抱かれ方をしていて、よくもまあこれだけ無防備にソコを押し付けてくるものだ、と半ばあきれる。今彼女が跨っている蛇腹に擦りあげられて果てたことだって一度や二度ではないというのに。
心地よさそうにニシキの首筋に額を預けて、半開きの口からいつもより少しだけ早い、熱っぽい呼吸が漏れる。半分ほど閉じられた瞳には理性が残っているのに、恍惚とした表情をしていた。どくん、と胸が騒ぐ。たぶん今、顔が赤いな、とニシキは気恥ずかしくなってしまう。年甲斐もない。まったく本当に恥ずかしい限りだ。
むさぼり尽くしてしまえという欲求が、ふっと落ち着く。たまには、こんな風に何にも警戒をしていない彼女を抱くのも素敵かもしれない、と。千尋に理性が残っているときにちょっかいをかけると、それはもう一生懸命に抵抗してくるのだ。その理性を瓦解させていく過程は、大変、非常に、ものすごく楽しいわけだが、こうやって信用しきって最初から身を預けられてしまうととてもとてもその期待を裏切る気にはなれない。
いつもは餌で釣っている野良猫が、自主的に頭を撫でろと近寄ってきた時のような感動があった。とはいえニシキは、猫はまったく好かないので、あくまで想像でしかないのだが。
千尋の後頭部を撫でてやりながら、背筋をゆっくりとなでおろしていく。お尻まで撫でて、また同じ順路を辿って撫で上げる。頭を撫でていた手を彼女の腰に回して支え、撫で上げた手で彼女の鎖骨のあたりを撫でながら柔らかく押して、密着していた体に僅かばかり隙間を開けた。お湯が二人の間に流れ込んだ。千尋からの抵抗はなかった。背中に回っていた千尋の手が肩に、首に額を預けていた頭が反対の肩に移った程度だ。乳房を優しく包み込むと、小さなため息をついた。
手のひらに触れる感触で、乳首が主張し始めていることに気づく。本当に、体ばっかり正直なんだから、とニシキは口にしないまま小さく笑った。
きゅっと、肩に添えられた指先に力が入る。彼女の表情を窺い見ると、視線が絡んだ。眠たげな視線だ。伏せられ気味の睫毛に、涙の残滓か、お湯かわからない水滴が乗っている。吸い寄せられるようにして、熱い吐息を吐く半開きの唇に口づけた。
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