白蛇さんはたぶらかす

極楽 ちどり

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たぶらかしてから

2-6

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隣にあるはずの鱗の感触がない。それに気づいた私の意識は一気に覚醒した。
周囲を見渡す。ニシキさんがいない。なんで。どこいったの。
やっぱり怒ってるのかな。でも仲直りしたはずなんだけどな・・・。

散々苛めまわされて、やっと開放されたのが一週間ほど前だ。ようやっと解放された後、久々に私はキレた。秘儀「口を利かない」を発動させる程度には頭に来ていた。さすがにあれは調子に乗りすぎだ。やりすぎだ。私を殺す気なのか。彼といると本当に腹上死するんじゃないかと割と毎回不安になる。
というか、あんな破廉恥なことを毎回やられていたらそのうち本当に脳みそが溶けだす気がするので、〆ておかないとまずいのだ。
まあでも?たまに、無理やり、どうしようもなくされてしまうのはやぶさかではないというか、仕方ないかなというか・・・。はっ!何言ってんだ。良い訳ないだろ。

ちょっと思考が飛んでいたが、一応昨日、仲直りしたはずだ。散々ニシキさんにご機嫌を伺われ、供物のように好物の胡麻料理を並べられ、いつも以上に甘やかされ、最終的にあの美丈夫がちょっと涙目で「お願い、もう許して?」とかいうから仕方ない。
チョロすぎるだろうか?いやでも、今回は数日口を利かないで押し通したし、私の勝ちだ。私もしゃべれないのが寂しかったとかそんなことはない。
というか、私がいくら怒ってみせたところで、今までニシキさんが起きたらいなかったなんてことはない。だから私が怒りすぎてて呆れてどっかいっちゃったなんてことはまずあり得ない。うん、ないな。目、覚めてきた。
私たちの寝室は一人きりだとだだっ広く感じる。その真ん中の布団で私は四つん這いで掛布団を押し上げたまま黙考していた。昨日はニシキさんにぐるぐる巻きにされながら普通に眠った。彼が私を寝るときにぐるぐる巻きにするのはもはや仕様なので気にしていない。

やっぱりおかしい。何故いない。何かあったのか。
彼は私が寝ていようが覚めていようが今まで離れたことがない。その長い体を存分に有効活用して、必ず私に触れていたし、触れていなくても同じ空間にいた。

「ニシキさん・・・」

手をついた敷布団をぎゅっと握りしめる。どこ?どこにいるの。やだ、おいてかないで。一人にしないで。不安が増していってきょろきょろとあたりを見回す。大丈夫。屋敷のみんながいなくなってしまったわけではなさそうだ。気配がないわけじゃない。
むしろ、意識を向けてみると外が少し騒がしかった。珍しいことだ。この屋敷は蛇の妖怪が集まっていることもあって、必要以上に静かな気がする。みんな気さくに話をするし、笑い声だってするけれど、動作はものすごく滑らかで静かなのだ。
寝室がものすごく居づらい空間に思えた。なんだかあまり、ここにいたくない。
寝室を出るにも着替えないと・・・。寝間着で出たりするとニシキさんに怒られる。
ささっと着物に着替えると、私は音のする方へと足を向けた。

少し歩いた。うちの屋敷は馬鹿でかい。まったく、この屋敷を奇麗に保ってくれているみんなには頭が下がる。
前庭がずいぶんと騒がしいようで、私もそちらへ向かう。あ、ニシキさんの声がした。どうしたんだろう。なんだか空気がピリピリしてる。行かない方がいいかな。
そうは思いつつ、私の足は緩みもしなければ止まりもしなかった。違和感、なんだかもやもやする。ニシキさんのところに行かないといけない。予感というにはあまりに確信めいた感覚に、彼が私を寝室に置いていったのにはきっとそれなりにわけがあるだろうと理解しつつも、引き返すという選択肢は私の中になかった。
目の前の角を曲がれば、前庭に面した縁側に出る。一応、ちょっとした迷惑ではないかという躊躇いはあって、様子を伺おうとそっと柱から前庭をのぞき込む。

目の前の光景は、異常だった。
山吹色の大蛇が鳥っぽい妖怪を四人、中心に捕えて、自らの体を縄代わりに締め上げていた。あれは葵さんだ。あの大蛇が人の姿になるとたおやかな女性になることに、そろそろ違和感を感じなくなってきている。
真ん中にいる妖怪はなんでつかまっているのだろう。何度か顔を見たことがある行商の妖怪たちだ。確か反物を扱っていたはずだ。
彼らを見ながら私はいよいよこれはこの陰から出ていくのはまずいかな、と考え始める。
私自身は、ニシキさんが過保護なので外部の人と直接会うことはない。屋敷から出るときは時代劇に出てくるような傘を被って顔を隠すし、そもそもあまり外には出ない。お買い物するために行商を呼んでも(そう、恐ろしいことに買い物には『行く』ではなく『呼ぶ』という動詞を使うのだ。未だに慣れない。)私と行商との間には簾がかかっており、決して直接しゃべりかけたりもしない。彼らが持ってきた商品を花菱さんとか葵さんが私のそばに持ってきて、簾の向こうであーでもない、こーでもないと話して、そうして決まった商品を買い取るという、非常にまどろっこしい買い物をしなければならないのだ。
屋敷に常駐している人たちは、ニシキさんに昔から仕えている人たちだけなので、恐らく彼も屋敷内はそれなりに安心しているのだろう。普通に顔を見せてしゃべることができる。まあそれにしても彼は私にべったりくっついてはいるし、必然的に彼が一緒にいるところでしか他人としゃべることもないのだけれど。
そういうわけで、私は非常に一方的に彼らを知っていた。且つ、出て行ったらニシキさんが笑顔で怒るのも何となく想像がついた。でも私はニシキさんの手の届く場所へ行きたくて仕方がなかった。なんだろう。恐怖?すごく落ち着かない。ざわざわといやな感じだ。
ニシキさんは珍しく険しい表情で花菱さんと何やら話していた。声は聞こえるけれど何を話しているのかは聞こえない。
きりっと着物を着て、朝日に白い髪がキラキラと光っていた。白い鱗もつやつやだ。

「ニシキさん」

ごくごく小さな声でそうつぶやいてみる。聞こえてくれないかな、と淡い期待を抱きつつ。すぐにはさすがに振り返ってはくれなかった。

「ニシキさ―――」

もう一度呼びかけた途中で、不意にニシキさんが私を振り返った。結構距離があったから絶対に聞こえないと思っていたのだけれど、聞こえたのだろうか。だとしたら奇跡だが。
視線が合う。行ってもいいかな。視線で問う。少し驚いた表情をしたニシキさんは、けれどどうしようかと思案しているようだ。私を見たまま首を傾げた。私も無言のまま逆方向に首を傾げて強請る。「お、ね、が、い」と口パクで追撃も忘れない。私としては働きもせずに世話ばかりかけているという負い目もあるのであまりお願いなんてことはしない。なんだか恥ずかしいし。でもだからなのか、たまにどうしようもなくてするお願いは大体叶えてくれる。今のところ叶わなかったのは「一人にさせてくれ」ということくらいだろうか。譲歩案として私が一人になりたいときは、ニシキさんは蛇の置物になって動かないという約束をしたけれど・・・・そうだ。ニシキさん、本当になんで私のこと一人にしたんだろう。

唐突に、ニシキさんが驚愕の表情を浮かべた。
え、なに?
問うより先に背筋がぞわりとして、反射的に振り向く。

「―――え?」

目と鼻の先で、鳥の化け物がいて私を見下ろしていた。
大きかった。2メートルはありそうだ。頭部は完全に鳥だ。黒い嘴と猛禽類を思わせるとび色の目。橙色の翼が生えた腕が振り上げられていて、黒く鋭い爪のついた手が私に向いて構えられている。
本能的な恐怖に体も頭も動作を停止してしまって、ただただ目を見開く。
鋭い爪が私めがけて振り下ろされる。
やけにゆっくりと、まるでスローモーションのようにそれが見えていた。
音が全く聞こえない。視覚だけが生きていた。
鳥の化け物の目に怒りや憎しみといった負の感情は見受けられない。ひたすら真剣だった。
その黒い五指の爪が、私の胸へと吸い込まれるようにして―――

白く。見開いた視界が、ふわりと白く覆われる。
慣れ親しんだ温度が私を絡めとり、体が傾いた。

断末魔が轟いた。

そのこの世のものとは思えない叫び声に私の思考は一気に時間を取り戻す。
心臓がとんでもない速さで脈打っていた。呼吸が震え、うまく酸素を取り入れられない。
今、何が起こったのかまるで理解ができない。

視界が開ける。目の前に地獄からやってきたような、ものすごい形相をした鳥の化け物がいた。

「ぐ、っそぉおおおッ!!!あと少しで!!」

ごぼごぼと血を吐きながら、鳥の化け物が喚く。瞼を閉じることができない。状況がうまく把握できない。本能的な恐怖だけが思考を占めていて、それはひどく漠然としたもので、目の前の化け物がただただ怖くて恐くてたまらなかった。
鳥は手を伸ばすが、ニシキさんの体に巻き付かれ、彼の背後、ニシキさんの頭よりも少し上にまで抱き上げられた私にそれは届かない。
鳥の胸部にはニシキさんの手が深々と突き刺さっていた。広範囲に破壊された胸部は、その折れた肋骨の断面や、内臓が垣間見えるほどだ。
ニシキさんの手がその中心の脈打つ肉塊を握っていた。

目を、背けることができない。

「下種が」

聞いたこともないような冷たい声で、ニシキさんがそういった。次の瞬間、彼の手が握られて、そこに収まっていた肉塊も握りつぶされる。
鳥は、ごぼっと血を吐く。
胸の穴から勢いよく血が噴き出した。ニシキさんが赤く染まる。噴き上がったその飛沫は私にまで届いた。ぬめる温かい感触が頬を伝い落ちる。
ニシキさんが手をずるりと抜き去ると、鳥は重力にのっとって後ろへと倒れた。ピクリともしない。血だまりが広がっていく。
真っ赤に染まったニシキさんが私を振り仰ぐ。髪からも手からも血が滴っていた。

「千尋、怪我してない?」

優しい声。ニシキさんの声。
その声が私を呼んだ途端、恐怖に麻痺した脳みそが現状を理性的に理解し始めた。

迫る爪、血だらけの彼、倒れた鳥の化け物、鉄の臭い、生物的な臭い、生温い頬の感触―――

急激な吐き気を抑えることはできなかった。ニシキさんに巻き付かれて足が地面についていない。ニシキさんの体に吐瀉物をかけたりしたくなくて、とっさに両手で口を押える。目が覚めたばかりで何も食べていないどころか何も飲んでいないので胃液しか出てこない。それでもあふれたそれは、指の隙間からぼたぼたと零れ落ちた。
ひどい寒気がした。

「千尋っ!」

本能的な恐怖が、理性を介し、その恐怖を意味のあるものに変換してしまう。

今私は殺されるところだったあの鳥の化け物の爪が一瞬違えば私に突き刺さり今鳥の化け物が倒れている場所には私が倒れていたかもしれない死んでた死んでたニシキさんが間に合わなかったら私が。

冗談のように体が震える。一度胃液を吐いたけれど嘔吐反応は止まらない。体が何かを吐き出そうという動きを繰り返す。恐怖も、臭いも、吐き出すことなんてできないのに。

「っ、げえっ、えぐっっ、げほげほげほっ」
「いいよ、千尋。吐いてしまっていいから。我慢しない方がいい」

ニシキさんが私を床におろし、ゆっくりと背中をさすられる。口に当てていた手をやんわりと外された。首を振る。吐きたいわけではないのだ。吐けるものなんて何もない。
酔っても吐かないようなタイプなので、まるで吐くことに慣れていない。鼻の奥がつんと痛くて、吐き気の止め方も分からなかった。体が吐き出そうとする動きに振り回される。据えた臭いと味と、それからあたりに満ちる血の臭いが拍車をかける。

あたりに一瞬霧が立ち込めて、血の海が消える。ニシキさんも真っ白に戻った。私の手の吐瀉物も消えた。臭いも消えたがはずだが、私の鼻の奥にはまだあの鉄っぽい生物的な臭いがこびりついていて消えない。
嘔吐反応が収まり、私はガタガタと体を震わせながら荒い呼吸を繰り返した。

「落ち着いた?お水?」

ニシキさんの手に木の椀が握られていて、どこから湧き出すのかそこに水がたっぷりと満ちる。口に添えられたままその水を口に含む。背中をさすられているのが非常にありがたかった。

「ぺってしちゃいな。私が奇麗にするから」

もうすでに吐いてしまっているし、今更かと思ってお言葉に甘えそのまま口の中のものを縁側に吐き出す。気を使っているような余裕はまるでなかった。彼の宣言通りそれはすぐに浄化されて消えた。
まだ心臓がばくばくとうるさくて、体の震えも収まらない。水の入ったお椀を口元に持ってこられたので舐めるように少しだけ水を飲んですぐに唇を離した。体に何か入れるのが怖かった。

「花菱、今ので終いか」

ニシキさんの声がする。どこか遠くで聞こえるような気がしていた。

「はっこれで鳥は全てでございます。間違いありません」
「ならばよい。葵、そいつらは好きにしていい。ああ、どれでもいい。一匹は生きたままを送り返してやれ。状態は問わぬ。熨斗をつけるのは忘れるな」
「お館様の仰せのままに」

嘔吐というのはびっくりするくらいに体力を食う行為で、私は疲労感に意識を朦朧とさせていた。それでも消えない恐怖が私の意識をつなぎとめていた。

「千尋。お風呂へ行こうね」

ニシキさんは優しい声でそう言うと、ぺたんと床に座り両手をついたまま動けないでいる私を、横抱きに抱え上げた。ニシキさんの匂いに包まれるとひどく安心して、それでもやっぱり恐くて、ガタガタと震えておぼつかない手でその襟をつかむ。
目の前でニシキさんが他人の命を意図も容易く、そして何の躊躇いもなく奪ったことに、私はあまり恐怖を感じられていなかった。そんなことより、自身が殺される寸前だった恐怖のほうがよほど勝っていたからかもしれない。

「ごめんね千尋」

周囲がかすむような速さで移動しながら、ニシキさんはそう呟いた。私は何も返すことができなくて、ただぎゅっと目をつむって、ニシキさんの胸に顔をうずめた。

あっという間にお風呂場へとたどり着いた。
広々とした脱衣所の竹材の床に降ろされて、何をするまでもなくさらさらと着物を脱がされる。浄化されたとはいえ気持ちが悪くて、されるがままだった。体も心もひどく疲れていた。
ニシキさんは着物を着たまま私を抱え上げるとするするとお風呂場へと入り、蛇の体に私を抱きかかえて体も髪も洗ってくれた。
「体あらうよ?」とか「髪流すから目をつむってね」とか言われるたびに頷いて言われるとおりにしたけれど、ほかは本当に何もしなかった。自分でもどうかと思うけれど、甘やかしてほしかったのでやっぱり何にもしなかった。
ニシキさんの白い鱗に抱かれてもう温泉施設なんじゃないかみたいな広々とした湯船に沈められる。そこまで私を世話して、ようやくニシキさんも自身の着物を脱いで体を洗い出した。
ニシキさんだって浄化したはずなのに、気持ちが悪いのかいつもより時間をかけて体を洗うと湯船につかり、私を自分の腕に抱きなおした。
私がその首に齧り付くようにして抱き着くと、ぎゅっと抱き返された。
しばらくの沈黙の後、ぽつりとニシキさんが口を開いた。

「ごめん。怖い思いをさせた」

疲労感がお湯に溶けていく。ニシキさんに抱きしめられて心が落ち着いていく。私の居場所。世界で一番、安全なところ。

「ありがとう」

助けてくれたこと。すぐに世話を焼いてくれたこと。

「ごめんなさい」

寝室から出たこと。吐いてしまったこと。すぐにお礼を言えなかったこと。

ぼろぼろと涙があふれた。恐怖を洗い流すみたいに。
私が知っていた死が急激に塗り替えられていく。
一番身近な死というのは、中学生の時に亡くなった祖母のものだった。死に際には間に合わず、すでに亡くなってから数時間たって病院へ駆けつけたのだ。確か老衰だったように記憶してい居る。入院してベッドの上で亡くなる、日本でよくある死だ。
霊安室で、青白い、でも眠っているような表情の祖母の手に触れた。血の流れをなくした皮膚はゴムみたいな感触で、表面はまだなんとなくぬるかった。でもその中心がひどく冷たくて。ああ、死というのは冷たいものなんだと、子供心に思ったのだ。

今日、私の目の前で、私の代わりに死んだあの鳥の妖怪は温かかった。頬にかかった血潮の感触を思い出す。血は、赤くて温かかった。生々しかった。血液という生の象徴をまき散らす、凄惨な死だ。
あの場に横たわっていたのは、冗談でもなんでもなく、私だったかもしれない。苦悶の表情をした自身を思い浮かべてしまい呼吸が苦しくなる。
私にはあの鳥の妖怪の死を憐れむ権利などない。私が死ぬか、彼が死ぬか、選択肢はそれしかなかったのだから。

「あんなに焦ったのは、もしかしたら生まれて初めてだ・・・」

きっとニシキさんも疲れたのだろう。心が。
肩まで湯につかって、二人で抱き合って、きっと少し緊張が解けたのだ。本当に、ぽつりと思ったことを呟いたような話し方だった。

「怖かった。千尋が死ぬかもしれないって思ったら、本当に怖かった」
「うん」
「あの場所からあなたのところまで・・・。あれの攻撃があなたに届く一瞬前に辿り着ける確信はあった。でも怖かったんだ。敵を見止めてからあなたを絡めとるまでのほんの数瞬の間に、心臓が止まるんじゃないかと思った」
「うん」
「あれの心臓を握りつぶしてしまうまで、気が気じゃなかったんだ」

ニシキさんは巧妙な嘘をつくけれど、今は全部本当のことを言っているんだろうなと、なんとなくそう思った。きっと本当に私を助ける確信があったんだろう。それでも、きっと怖かったんだ。ニシキさんでも怖くなることがあるんだ。なんて馬鹿げたことを考えた。

「千尋のこと考えたらもっと他にやりようがあったのに。あなたに見せるべきじゃなかった。確実に仕留めることばかり考えていて、私は」
「ニシキさん」

何やら見当違いな謝罪を口にしようとしているニシキさんの言葉を小さな声で遮った。それをさせてはだめだ。
郷に入ってはなんとやらで、私はきっといつまでも平和ボケした思考回路でいてはダメなんだ。いつも平和だったからあんまり意識していなかったけれど、ここは社会的ではなく物理的に弱肉強食なのだ。弱い者が肉となり強いものが食す、文字通りの。
現状でだって、ニシキさんも屋敷のみんなも私にすごく気を使ってくれていることには気が付いていた。食事一つにしたってそうだ。ニシキさんのように元から人に似た上半身を持つ妖怪たちならいざ知らず、本性はまんま蛇の葵さんなんかは食事は基本的に丸呑みだと聞いた。でも絶対に私にその光景を見せないし、たぶんそれは気にしてくれているのだと思う。

「私、もっと、しっかりしないとだね。ごめんなさい。蛇の領主の妻がこんなんじゃ、ダメだね」

私の倫理観はきっと、人間としてはひどく正常だと思う。目の前に惨たらしい死を突き出されて吐かずにいられる日本人が一体どれほどいるのだろう。自分が死ぬか、相手が死ぬかなんて選択肢が目の前にぶら下げられることが一体どれほどあるというのだ。そしてその選択権が自分にはない、なんてことが。
でも、それはあくまで人間として人間社会で生きていればの話で、私は人間やめて妖怪社会で生きていく、ひどく中途半端な存在で・・・。
ダメだね、という声がひどく震えてしまって、涙も全然止まらなくて、心のどこかで目の前で死んだ鳥妖怪への哀れみも拭えなくて、それがニシキさんにも鳥の妖怪にもひどく失礼なことなのも理解していて。そのどうしようもない気持ちがぼろぼろと溢れていく。

「千尋」

穏やかな声だ。優しい声。私にだけ、特別優しい人。

「千尋」

そっと腕が緩められて、額を擦りつけるようにして合わせられる。濡れた手が私の頬を伝い、涙なんだかお湯なんだかわからなくなる。
口がよく回るはずのニシキさんが、どういうわけか言葉に詰まっていた。切なそうな顔で私を見て、それからきゅっと目を閉じる。

「ごめんね。あなたにばかり、無理を強いている」

泣きそうな声で、ニシキさんが言う。
正直、その通りだと思ってた。でもきっと違う。私が享受していた平和の裏に、きっとニシキさんや屋敷のみんなの努力があるのだろう。私に見せないよう、必死に隠していた部分があるんじゃないか。
そもそも、私にはきっとニシキさんについてくると決めた時に覚悟が足りなかったんだ。ニシキさんは巧妙に私の逃げ道をふさいでいたし、私も、真剣に逃げようとしなかった。

「っ・・・・」

ちがう。そうじゃない。

ニシキさんは私に逃げ道を用意したんだ。甘い蜜を垂らした逃げ道。まるで蛍でも誘い込むみたいに。彼氏に浮気されて別れた程度で絶望しちゃう私に、現実から逃げ去る道を示した。根本からして私は甘かったのだ。

逃げて。それでここに来たんだから、もうこれ以上、どこに逃げられるっていうんだ。

笑えるくらい震えている手でニシキさんの頬を包む。私もぎゅっと目を閉じた。何か言わなくちゃ。私ちゃんと、ニシキさんと一緒にいたいんだよ?

「おしえて・・・ほしい」
「・・・・・千尋?」
「どうして、私、殺されそうになったの・・・・私が、美味しいから?」

ニシキさんが目を開いたのがわかった。まつ毛が触れあうような距離にいるのだ。でも、視線を合わせるのは怖くて、私は目を閉じたまま震える声で言葉をつづけた。

「あんな風に襲われたのは今日が初めて?それともいつもなの?私、わからないの。本はいっぱい読んでるけど、でも現実には何も知らない。だから教えて」

私はこの妖怪の世界で絶対的弱者だ。
鱗もない。牙もない。爪は丸い。体も小さいし、貧弱だ。火の玉も出せないし、死体も操れない。ならば知識でと思っても、私よりよほど長命な妖怪はごろごろいて、知識を蓄えた仙人みたいな妖怪もいるとあっては、人間ごときの知識などたかが知れていた。ましてや私は高卒で、別に頭がいいわけでもなんでもない。
私に特別なところがあるとするなら、それはきっと「おいしい」というその一点に尽きるだろう。こうして改めて考えてみるとなんて優秀な餌だろう。考えてて寒気がしてきた。また自分とあの鳥の妖怪の死にざまが被る。ニシキさんの腕の中にいなかったら叫んでいたに違いない。

「っっ、それとも、私、何も知らないで、ニシキさんに愛玩されてるのが・・・一番いいの?」

目を開けられない。沈黙が怖い。愛玩でいいって言われたらどうしよう。
する、と頬の手が滑って後頭部に回り、唇が重なった。お風呂につかっているせいか、いつもより温かい。すぐに離れ、今度は食むようにして口づけられる。
腰に回っていた腕に力がこもってますます裸の体が密着する。髪をかき混ぜるように後頭部を固定されて、いきなりの淫らな口づけに焦って開いてしまった私の口の中に舌が入り込む。
真面目な話してるのになんでこうなるのかと、さっきまで彼の頬に当てていた手でニシキさんの髪をぐいぐいと引っ張るがまるで堪えた様子はない。

「んくっ、ふっ、んぅ」

口をゆすいだとはいえさっき嘔吐したのに何だって平気で口の中に舌突っ込んでくるんだこの男はバカなのか。そして舌を扱かれてしまうと思考が吹っ飛ぶ私は確実にバカだ。

「愛玩?」

熱い呼吸を繰り返す。ぎゅっと閉じた瞼の上をそっとなぞられた。

「馬鹿な千尋。愛玩でいいなら、あなたに似合う可愛い首輪をつけて、鎖でつないで、私に逆らわないように躾けてしまうのに」

甘い睦言を囁くように狂気染みたことを吐く。妖怪がこういうものなのか、それとも妖怪の中でもニシキさんが異常なのか、いまいち私に確信は持てないのだけれど、なんとなく後者な気はしている。

「そんなのじゃ足りないんだよ千尋。全部欲しい。あなたが全部。その心も体も視線も命も時間も、死も。全部欲しいんだよ千尋。独占したい。これでも我慢してるんだよ?」

すり、と頬刷りをされる。猫がじゃれるようなしぐさだけれど、彼の言葉はあまりにトチ狂っていた。でもそれに対しては私はもう慣れ始めていて、そこまで拒絶する気分に離れない。もういっそすがすがしいくらいの狂い方だと思う。そうだな、愛玩なんて可愛らしいものなわけないな。何の心配してたんだろうと少し自分がバカらしくなっただけだった。

「千尋が知りたいと思ってくれるのならいくらでも質問には答えるし、今日のことについてもちゃんと説明する。でも、今じゃない。そんなに一気に考えなくていいから。怖かったでしょう?」
「っ!」
「いいんだよ。生きてきた世界が違う。死が怖いと思うのは生物ならば当たり前なんだ。それにあんな血生臭い光景に馴れる必要もない。こんなこと二度と起こさないから・・・・怖い思いをさせてしまって、ごめんね」

頭を撫でられて、ニシキさんの腕と、白い鱗の体に抱きしめられて、私はしばらくの間、ぐずぐずと頑是ない子供のように泣いていた。

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