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1巻
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序章 禁断の果実
俺は、義妹の推しだ。
――と、ロイ・クレスウェルは自負している。
なぜなら、ロイの義妹アンナがよく口にしているからだ。
「ロイさまは……わらしの、推し……」
このように、寝言でふにゃふにゃと。
「ふふ……好き……」
リビングに差し込む夕日が、猫脚のソファに横たわるアンナを優しく照らす。
気持ちよさそうに転寝している義妹を黙して見守るロイは、黒髪から覗くオリーブとレッドのオッドアイを細め、耐えきれずはにかんだ。
『推し』という馴染みのない言葉は、アンナによると『特別に好き』という意味らしい。
つまりアンナは、夢に見るくらいロイを特別に想ってくれているということ。
ロイは緩んでしまう口元を片手で覆い、落ち着かせるよう息を吐く。
(本当に……君は変わらないな)
父の再婚により、一粒種のロイに年の離れた義妹ができたのは八年前。ロイが十八歳の時だ。
当時八歳だったアンナは、その頃から耳慣れない言葉を時々使っていた。
推し、尊死、萌え、沼すぎる。
どれもいい意味だとアンナは言うが、なぜ自分がこうも彼女に好意を寄せられているのか、いまだに不思議でならない。
しかも、出会ってすぐに懐かれた。自分は人を不幸にする恐ろしい存在だから近づくなと脅しても、少しも怖がらず、いつもロイの傍にいた。
ロイのことが大好きだと無邪気に笑みを見せるのだ。
突き放しても、変わらずに。
「ロイ……さま」
(そうやって、夢の中でだけ俺を名前で呼ぶのも変わらない)
普段は『義兄様』で、寝言だと『ロイ様』と呼ぶのはなぜか。
けれどその理由を問うたことはない。恥ずかしがられ、呼んでもらえなくなるのは惜しいから。
だが、愛らしいソプラノで名を口にされるたび、罪悪感がロイを苛む。
歓喜しながらも胸が締め付けられるその原因は、いつの頃からか芽生え、ひた隠しにしてきた想いのせいだ。
これは、義妹に対して抱いてはならない感情。
名を呼ばれない方がいい。兄のままでいなければいけないのだ。
明日になれば、アンナは寄宿学校に通うため王都へ発つ。
会えぬ間に気持ちを冷ます……つもりだった。なのに、今日に限ってこうも自制が利かないのは、先刻、忘れ物を届けにこの離れを訪れた使用人の青年が、アンナに懸想していると気づいたからだ。
いつかはと思いつつも、今までどこか現実味のなかったアンナの恋の相手。
それが突如現れたことによる焦燥感に、ぴったりと着けていた兄の仮面が外れかけてしまった。
(アンナが誰かのものになってしまう……)
公爵令嬢としての役目を果たすため、どこぞの貴族子息と結婚しなければならないのはわかっている。先ほど使用人の青年にしていたように、アンナは自分以外の男に笑みを見せ、自分ではない男に愛されるのだ。
わかっている……けれど、胸の奥が痛み、ざわめき、仄暗い欲求が広がっていく。
(俺を好きだと告げるその唇が、他の男に愛を囁くなんて……許せるものか)
唇を噛んだロイは、読みかけの本をソファに置いてアンナの前に跪く。
眠る前に飲んでいた、リラックス効果のあるハーブティーが効いているのだろう。
アンナは、髪と同じ白藍色の睫毛に縁どられた瞼をぴたりと閉じ、穏やかに肩を上下させている。
眠りが深いのか、頬にかかる柔らかな長い髪をそっと耳にかけても身動ぎひとつしない。
「俺には君しかいないんだ」
アンナは、孤独という暗い檻の中にいたロイに光をくれた特別な存在だ。
けれど、ターリン王国では近親婚はタブー。血は繋がっていなくとも、同じ姓となった義妹とは決して結ばれない。それが叶うのはいつだって、想像と夢の中でだけだ。
(……いっそ、奪ってしまおうか)
黒い嫉妬の炎が、兄という仮面をちりちりと燃やす。
(君を、俺だけのものにしたい)
せめて、眠っている間だけでも。
血色のいい滑らかな頬にそっと指を添えると、アンナの唇から漏れる呼気がロイの手を掠めた。
ふっくらとした唇から目が離せなくなり、ロイは引き寄せられるように顔を近づけていく。
刹那、頭の片隅で警鐘が鳴り響いた。
触れることは、互いを不幸に堕とす行為だと。
自分はかまわない。
けれど、愛するアンナだけは不幸にしたくはない。
(だが、アンナなら……)
『義兄様、心配しないで。不幸なんて私がいれば相殺よ!』
そうだ。きっと心配ない。
ラッキー体質のアンナは、不幸を呼ぶロイと対になる者。
幸と不幸は、ひとつとなることでバランスを保つのだ。
独占欲が鎌首をもたげ、左の赤瞳が鈍い光を纏った。
「アンナは、俺だけのものだ」
囁いた直後。
「好き……」
「っ……!」
まるで想いに答えるかのような寝言に、仮面はあっという間に焦げて崩れ落ちる。アンナを愛するただの男となったロイは、とうとう唇を重ねてしまった。
胸が悦びに打ち震える。
(ああ……ついに、ついにアンナと……)
初めて触れるアンナの唇は想像よりも柔らかく、ほんのりと甘い気さえした。
感嘆の息を押し殺し、無防備に眠る義妹に何度も口づける。その度に湧き上がる背徳感は苦しくも甘美で、愛する女性に触れている高揚感と相まってロイの理性を溶かしていく。
(アンナ……好きだ……好きだ、好きだ、好きだ)
可憐な桃色の唇に繰り返し啄むように口づけるも、アンナに起きる気配はない。
どうかそのまま、空色の瞳は見せずに眠ったままで。
そう願いつつも、頭の片隅では目覚めたアンナと求め合うことを切望していた。
起きているアンナはどのように口づけに応え、どんな可愛らしい嬌声を零すのか。
ロイの手によって乱れるアンナを想像すれば、不埒な熱が下半身に集まり、ずくりと痛んだ。
――足りない。
重ねるだけでなく、唇を食み、舌を差し入れて咥内を味わいたい。
夜な夜なベッドの上で自己嫌悪しながらも夢想していたように、アンナの柔肌を快楽で赤く染め、貫き、愛を囁き合いながら最奥で果てたい。
(手離そうとしたくせに、帰ってきたらどう手に入れるかを考える愚かな俺を、君はどう思うだろうか)
離れている間に、兄の仮面が外れないよう戒めるつもりだったが、結局、一線を越えてしまった。弱く罪深い兄でも、アンナは好きだと言ってくれるだろうか。
「アンナ……」
俺だけを見て。俺だけに笑いかけて。俺だけを好きでいて。
俺だけのものになって。
「俺だけのアンナ……」
懇願するように囁き、また唇を合わせる。
禁断の果実をじっくりと味わうように。
恋情なく兄妹でいられた、もう戻れないあの頃の記憶を彼方に見ながら。
第一章 推しのいる世界
昔ながらの雰囲気が漂う大衆居酒屋で、店員の青年が申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません! 先ほどオーダーを取り間違えてしまいまして、こちら、お代はいりませんので召し上がってください」
簡素な木製のテーブルに置かれたのは、出汁の香りが食欲をそそる揚げ出し豆腐だ。
杏奈はぱっちりとした目を瞬かせ、店員と揚げ出し豆腐を交互に見る。
「いいんですか?」
「どうぞ! 先ほど頼まれた揚げ出しモチは今準備していますので、少々お待ちください」
深々と頭を下げ、調理場へ戻っていく店員を見送っていると。
「さすがラッキーに愛されし女。あー、あたしも杏奈みたいにラッキー体質になりたいなぁ」
向かい側に座る幼馴染の陽菜乃が、羨ましそうに溜め息を吐いた。
「杏奈の運、少しでいいからあたしにもくれない?」
甘えた声で強請り、ビールジョッキを手にしたままテーブルに力なく突っ伏す陽菜乃は、昔から運が悪い。正確には男運なのだが、その証拠に彼女は昨夜、恋人の浮気現場を目撃したばかりだ。
「じゃあひとまず、ラッキーでいただいた揚げ出し豆腐をおすそわけするね」
杏奈は肩で切り揃えられた黒髪を耳にかけ、陽菜乃の小皿に揚げ出し豆腐を載せた。
「豆腐じゃなくて幸運が欲しいの……。恋愛運爆上げして、誠実な男と出会いたい。今年で二十七になるのに、このままじゃ行き遅れちゃう……」
「それ、もう十年彼氏のいない私の前で言う?」
同じ歳なだけならまだしも、高校以来まともに恋人がいない杏奈が突っ込むと、陽菜乃はむくりと起きて片眉を上げる。
「杏奈の場合作る気がないだけでしょ。乙女ゲームばっかりやって、二次元の男のなにがいいのよ」
「最高よ。なんせ彼らは、ヒナの元カレのように私を裏切らないし」
三次元の男に浮気された陽菜乃は「傷口に塩を塗らないでよ」と呻いた。
「でも、幸運引き寄せちゃう杏奈なら、ある日突然現れたいい男と、あれよあれよと結婚まで行きそうな気がする」
陽菜乃がいいなぁと羨望の眼差しで杏奈を見つめる。
確かに、杏奈は子供の頃からラッキー体質だった。
人によっては偶然と片付けるものを、杏奈がラッキーだと思い込んでいる節もあるだろうが、よく経験するのは、くじ付きのアイスを食べると高確率で当たりが出るというものだ。
ちなみに、もらったもうひとつのアイスまで当たることもしばしば。
他には、うっかり物を紛失しても必ず手元に戻ってきたり、旅先のホテルのミスで部屋が取れていなかった結果、空いていたスイートルームに泊まれたり。
一番ラッキーだと感じたのは、交通事故に巻き込まれたのに無傷で済んだことだろう。
しかし、杏奈が望む理想の男性は現れてくれないので、ラッキー体質も完璧なわけではない。
「どうかなぁ。ロイ様似の人に出会えてないし、私も男運ないのかも」
「出たロイ様。あれでしょ? ハッピーエンドがなくて、メリバエンドが最良だとかいう乙女ゲーム」
「そう! ハピエン厨にもかかわらず、公式サイトで見たロイ様のビジュにひと目惚れして即予約した『君と織りなす愛の果て』、略して『君果て』のロイ様!」
「あ、スイッチ入れちゃったわ」
「立ち絵もスチルも最高で、悲しい結末にもかかわらず幸せそうなロイ様のメリバエンドに涙して悶え、寝ても覚めても忘れられなくなってから早五年。その後どんなキャラと出会って恋をしても、私の最推しは変わらずロイ様だけ!」
杏奈が早口で熱弁するほど推しているロイは、受け手によりバッドにもハッピーにもなるメリーバッドエンドが最良エンドとして用意されている乙女ゲーム『君と織りなす愛の果て』の攻略対象キャラだ。
とある事情により、孤独な環境で生きてきたロイ・クレスウェル。
儚げな容姿と感情の起伏が乏しい凪いだ声、どこか物憂げな雰囲気は、杏奈の好みド真ん中。
彼に惚れてからというもの、三次元の男への興味は薄れるばかりだった。
部屋もロイグッズに溢れ、夜はロイがプリントされている等身大抱き枕を抱き締めて眠っている。
「他キャラと浮気してるから現れてくれないんじゃない?」
「他キャラ攻略は世界線が違うから浮気じゃありません」
『君果て』内でも他のゲームでも、各キャラとの物語は、パラレルワールドで恋を疑似体験しているようなもの。決して二股をかけているわけではない。
ただし、ロイへの気持ちは疑似ではなくマジだ。
「その感覚をリアルな女相手に持ってるのが、昨日オサラバしたアホ男なわけよ」
「リアルでやっちゃダメ。でも、リアルなロイ様は大歓迎」
揚げ出し豆腐を味わい、レモンサワーを飲み干して告げると、陽菜乃がクスクスと肩を揺らした。
「ロイ様がリアルにいるわけないでしょ」
「ワンチャン転生してるかもしれないじゃない」
もしロイがこの世に爆誕しているならば、同じ世界に生きているというだけで尊く、息を吸うだけでも満たされるというもの。
オタク思考全開で妄想しつつ、杏奈はサワーを追加注文した。
「でも本当、ロイ様と会えるなら、全ての運を使っても後悔はないのに」
「全てー? 運が尽きて死んだらどうすんのよ」
酒で赤らんだ顔に、目いっぱい笑みを広げてケラケラ笑う陽菜乃。
それはやばいと、杏奈も大口を開けて笑った。
酔っ払いの戯言。けれど、杏奈にとってはそこそこ本気の願いごと。
ロイ様がリアルに現れてくれたなら――
そんな奇跡を胸に、杏奈は幼馴染の憂さ晴らしにとことん付き合った。
――カタカタ、カタカタ。
リズミカルな音に合わせて身体が揺れる。
その振動に目を覚ました杏奈は、向かい側に見える臙脂色の座席をぼんやりと眺めた。
(あれ……?)
さっきまで居酒屋にいたはずだが、いつの間に電車に乗ったのか。
……いや、電車はこんなに狭くない。どちらかといえばバスだ。
だがバスにしても狭く、低い天井からは蛍光灯ではなくランプが下がって揺れている。
一体ここはどこなのか。
混乱と共に意識が明瞭になる中、ふと聞こえてきた馬のいななきに、思い当たる乗り物がひとつ。
「もしかして馬車……? って、え?」
確かめるように呟いた自分の声が妙に幼い。
違和感を覚えて喉に触れた直後。
「あら、目が覚めたの? アン」
すぐ隣から降ってきた穏やかな声に、杏奈は声の主にもたれていた頭を勢いよく起こした。
夜空のような濃紺の長い髪は真っ直ぐに伸びて美しく、杏奈を見下ろす空色の瞳は慈愛に満ちている。
「あ、あの……? どちらさま、ですか?」
首を捻る杏奈と鏡合わせのように小首を傾げた女性は、「いやだわ」と苦笑した。
「寝ぼけているの? そろそろクレスウェルのお屋敷に着くわよ」
「クレスウェル……?」
反芻したその名は、ロイのファミリーネームと同じだ。
(夢……にしては妙にリアルだけど……)
手を開いたり閉じたりしながら首を捻り、視線を窓の外に向ける。
蒼空の下、レンガ造りの建物が連なる街並みは、メディアなどで目にするヨーロッパのそれだ。
飛行機に乗った覚えはないので、やはり夢だろうと納得しかけた時、杏奈は窓にうっすらと映る自分の姿を見て驚愕した。
「え? 子供になってる……⁉ しかも外人さん!」
緩やかにウェーブがかった白藍色の髪と、隣の女性によく似た空色の瞳。
天使のごとく可愛らしい美少女に変身したとなれば、これはもう夢で確定だ。
(というか、ちゃんと家に帰って寝たのかな)
電車なら寝過ごしていそうだ。一回起きようと、試しに弾力のある頬を思い切りつねってみる。
「いったぁ⁉」
「もう、アンったら、なにしてるの? あなたさっきから変よ」
「……アンって、私のこと?」
「そ、そうよ? 本当に大丈夫?」
心配そうにのぞき込んでくる女性の瞳が不安げに揺れる。
痛む頬を摩りながら、杏奈は「大丈夫です」とぎこちない笑みを浮かべた。
(夢なのにめちゃめちゃ痛い。痛みだけじゃない、全部がリアルすぎる)
もし夢でないなら、一体なにがどうなっているのか。
杏奈は深呼吸して心を落ち着かせ、記憶を順に辿ってみる。
(ヒナと居酒屋で飲んで……そうだ、酔いつぶれたヒナを家まで送ったんだ。で、終電逃しちゃって、仕方ないからタクシーで帰ることにしたのよね)
だが、タクシーはなかなか通らず、電話で呼んだ方が早そうだとスマホを手にした時、足元に黒猫が寄ってきたのだ。
黒猫ってロイ様のイメージがあるなと頬を緩めていると、杏奈に向かってひと鳴きした黒猫は、大型のトラックが迫っている道路に飛び出した。
『え、ロイ様ダメ! 危ない!』
叫び、道路に駆け出し黒猫を抱きかかえると同時に、クラクションの大きな音が鼓膜を震わせ、視界を眩しい光が覆い尽くし……
(気づけばここ、と。まさか私……轢かれて死んだ?)
だとしたら、ここは天国なのか。
「いや、天国だとして、なんで私はアンって子になってるの?」
ぶつぶつと呟いていると、隣の女性が悲哀に満ちた表情で杏奈の背を撫でた。
「アン……もしかして私の再婚には反対だった? てっきり父親ができるのを喜んでくれていると思っていたのだけれど、本当は嫌だったのかしら……」
どうやら女性は杏奈の……アンの母親らしい。
そして話の内容から察するに、再婚したか、これからするのだろう。
だが、混乱している杏奈のせいで、母は自分の再婚を無理に受け入れたストレスから娘がおかしくなったのではと落ち込んでしまった。
杏奈は慌てて首を横に振る。
「ち、違うわ! ただ、そ、そう。変な夢を見て、記憶がごちゃごちゃになっていて」
「まあ、夢見が悪かったのね」
「そうなの。だからその、少し確認してもいい?」
「ええ、母様になんでも聞いてちょうだい」
おっとりとした笑みを浮かべる母に、杏奈はさっそく口を開く。
「ここは天国?」
質問を受けた母は、面食らって双眸を丸くする。
「もしかして命を落とす夢を見たの? 安心して。ここは天国ではなく、ターリン王国のクレスウェル領内よ」
「ターリン王国の……クレスウェル領って……」
聞き覚えのあるそれは、ロイが住まう世界のもの。
「え……まさかここは、『君果て』の世界、なの?」
確かめるように声を零した直後、アンの記憶が段々と脳内に広がって融合する。
「名前は、アン……アンナ。少し前に八歳になった……」
「そうよ、あなたは私の可愛い娘、アンナよ」
そして、聖母のような微笑でアンナを優しく見守る女性はアンナの母、クラリッサだ。
父はアンナが物心つく前に他界していて、顔も覚えていない。
だから……そう、母の再婚が決まり、父親ができることを喜んでいた。
まだ一度しか会っていないけれど、とても優しそうな人だったから。
(というか、今思い浮かんだ新しい父親の顔が、ロイルートでちょくちょく出てくるロイ様の父親とそっくりなんですけど)
思い返してみれば、ロイには義妹がいた。
とはいえ、ストーリーに影響がないキャラクターであり、ワケあって家族と距離を置くロイとは立ち絵どころか会話シーンすらなかったはず。
自分は、その義妹キャラになっているのか。しかも同じ名の。
「少し落ち着いたかしら?」
「は、はい……」
頭はまだ混乱しているが、あまり母を困らせないよう杏奈は笑みを浮かべた。
やがて目的地に到着した馬車を降りると、紅葉に染まる木々の奥に覚えのある大邸宅を見つけ、杏奈は歓喜の悲鳴を上げかける。
(ロイ様の住む邸宅が! 舐めるように見た背景画像がリアルになって目の前に!)
慌てて両手で口元を押さえるも、興奮に漏れ出る息は荒い。
(本当に? 本当にここは『君果て』の世界なの?)
出迎えた壮年の執事長に案内され、母と共に広く豪奢なエントランスに通される。
すると、黒髪を七三できっちりと分け、紳士然とした長身の男が笑みを浮かべながら両腕を広げて近づいてきた。
「クラリッサ、アンナ、よく来たね」
「グレイン」
嬉しそうに眦を下げた母が、男の腕の中に身を寄せる。
(グレイン・クレスウェル。やっぱりロイ様のお父様! ということは!)
杏奈は忙しなく視線を動かしてエントランスを見回した。
「アンナ、どうかしたかい?」
眉を上げたグレインは、不思議そうに杏奈を見下ろす。
「あ、あの、ロイ様は……」
グレインがワケあり息子のロイを遠ざけているのは知っている。
だが、今日から家族として共に暮らすのだ。最初に紹介くらいはあるはずだと思ったのだが。
「息子のロイは離れに住んでいるんだが、病弱であまり人と会えないんだ」
どうやら杏奈たちに関わらせたくないらしい。
しかし今の会話で、推しキャラであるロイの義妹になったことは確定した。
(ロイ様が私の義兄に!)
興奮してにやける口元を小さな手で隠すと、グレインがにこりと杏奈に微笑みかける。
「それよりアンナ、父となったわたしとハグをしてくれないか」
「は、はい。お父様」
緊張しつつも笑みを返し、杏奈はグレインと親愛のハグを交わした。
その後、両親と共に豪華な夕食を味わった杏奈は、使用人たちに手伝われながら入浴を済ませた。
「それじゃあおやすみなさい、アンナ」
「おやすみなさい、母様」
あてがわれた自室の天蓋付きベッドに横になった杏奈は、扉が閉まるのを確認するとむくりと起き上がる。
「ロイ様の抱き枕がないと落ち着かない。というか、せっかく『君果て』の世界にいるのに、ロイ様に会えないなんて拷問では……」
ぼやいてベッドから下りると、窓際のソファに膝をついて夜の帳に包まれた庭園を見下ろす。
手入れの行き届いた花々が並ぶ奥に、ぼんやりと明かりが灯る建物が見えた。もしかして、そこがロイの住む離れではないか。
ギンギンに冴えている目を見開き、食い入るように明かりを凝視する。
(うーん、暗くてよく見えない。でも、離れの外観はゲームで何度も見て覚えてる。朝一で確認してみよう)
明日の予定を立てた杏奈は、窓に映る見慣れない自分の姿を見つめた。
(恐らくだけど、これは異世界転生ってやつ?)
アニメや漫画、小説などで流行っている、『死んだら異世界に転生しました』という新しい人生を歩むあれが、自分の身にも起きたのでは。
『でも本当、ロイ様と会えるなら全ての運を使っても後悔はないのに』
杏奈の場合、事故に遭う前にそう願ったことで、運が全使いされて奇跡が起こったのだ。
こうなると、事故に遭って死んだ不運さえ幸運に思えてくる。
「推しのいるゲームに転生できたなんて、自分の体質が恐ろしいわ」
このラッキーが黒猫にも発動していて無事ならいいのだが。
ただ、転生できたのは嬉しくても、遺してきた家族や友人らの気持を考えると、心は痛むし寂しさも募る。
(いや、こっちの世界で死んだら現実世界に戻って意識が回復……なんてパターンもあるから死んでないかもだけど)
どちらにせよ、嘆いているであろう皆に、どうか悲しまないでくれと伝えたい。
俺は、義妹の推しだ。
――と、ロイ・クレスウェルは自負している。
なぜなら、ロイの義妹アンナがよく口にしているからだ。
「ロイさまは……わらしの、推し……」
このように、寝言でふにゃふにゃと。
「ふふ……好き……」
リビングに差し込む夕日が、猫脚のソファに横たわるアンナを優しく照らす。
気持ちよさそうに転寝している義妹を黙して見守るロイは、黒髪から覗くオリーブとレッドのオッドアイを細め、耐えきれずはにかんだ。
『推し』という馴染みのない言葉は、アンナによると『特別に好き』という意味らしい。
つまりアンナは、夢に見るくらいロイを特別に想ってくれているということ。
ロイは緩んでしまう口元を片手で覆い、落ち着かせるよう息を吐く。
(本当に……君は変わらないな)
父の再婚により、一粒種のロイに年の離れた義妹ができたのは八年前。ロイが十八歳の時だ。
当時八歳だったアンナは、その頃から耳慣れない言葉を時々使っていた。
推し、尊死、萌え、沼すぎる。
どれもいい意味だとアンナは言うが、なぜ自分がこうも彼女に好意を寄せられているのか、いまだに不思議でならない。
しかも、出会ってすぐに懐かれた。自分は人を不幸にする恐ろしい存在だから近づくなと脅しても、少しも怖がらず、いつもロイの傍にいた。
ロイのことが大好きだと無邪気に笑みを見せるのだ。
突き放しても、変わらずに。
「ロイ……さま」
(そうやって、夢の中でだけ俺を名前で呼ぶのも変わらない)
普段は『義兄様』で、寝言だと『ロイ様』と呼ぶのはなぜか。
けれどその理由を問うたことはない。恥ずかしがられ、呼んでもらえなくなるのは惜しいから。
だが、愛らしいソプラノで名を口にされるたび、罪悪感がロイを苛む。
歓喜しながらも胸が締め付けられるその原因は、いつの頃からか芽生え、ひた隠しにしてきた想いのせいだ。
これは、義妹に対して抱いてはならない感情。
名を呼ばれない方がいい。兄のままでいなければいけないのだ。
明日になれば、アンナは寄宿学校に通うため王都へ発つ。
会えぬ間に気持ちを冷ます……つもりだった。なのに、今日に限ってこうも自制が利かないのは、先刻、忘れ物を届けにこの離れを訪れた使用人の青年が、アンナに懸想していると気づいたからだ。
いつかはと思いつつも、今までどこか現実味のなかったアンナの恋の相手。
それが突如現れたことによる焦燥感に、ぴったりと着けていた兄の仮面が外れかけてしまった。
(アンナが誰かのものになってしまう……)
公爵令嬢としての役目を果たすため、どこぞの貴族子息と結婚しなければならないのはわかっている。先ほど使用人の青年にしていたように、アンナは自分以外の男に笑みを見せ、自分ではない男に愛されるのだ。
わかっている……けれど、胸の奥が痛み、ざわめき、仄暗い欲求が広がっていく。
(俺を好きだと告げるその唇が、他の男に愛を囁くなんて……許せるものか)
唇を噛んだロイは、読みかけの本をソファに置いてアンナの前に跪く。
眠る前に飲んでいた、リラックス効果のあるハーブティーが効いているのだろう。
アンナは、髪と同じ白藍色の睫毛に縁どられた瞼をぴたりと閉じ、穏やかに肩を上下させている。
眠りが深いのか、頬にかかる柔らかな長い髪をそっと耳にかけても身動ぎひとつしない。
「俺には君しかいないんだ」
アンナは、孤独という暗い檻の中にいたロイに光をくれた特別な存在だ。
けれど、ターリン王国では近親婚はタブー。血は繋がっていなくとも、同じ姓となった義妹とは決して結ばれない。それが叶うのはいつだって、想像と夢の中でだけだ。
(……いっそ、奪ってしまおうか)
黒い嫉妬の炎が、兄という仮面をちりちりと燃やす。
(君を、俺だけのものにしたい)
せめて、眠っている間だけでも。
血色のいい滑らかな頬にそっと指を添えると、アンナの唇から漏れる呼気がロイの手を掠めた。
ふっくらとした唇から目が離せなくなり、ロイは引き寄せられるように顔を近づけていく。
刹那、頭の片隅で警鐘が鳴り響いた。
触れることは、互いを不幸に堕とす行為だと。
自分はかまわない。
けれど、愛するアンナだけは不幸にしたくはない。
(だが、アンナなら……)
『義兄様、心配しないで。不幸なんて私がいれば相殺よ!』
そうだ。きっと心配ない。
ラッキー体質のアンナは、不幸を呼ぶロイと対になる者。
幸と不幸は、ひとつとなることでバランスを保つのだ。
独占欲が鎌首をもたげ、左の赤瞳が鈍い光を纏った。
「アンナは、俺だけのものだ」
囁いた直後。
「好き……」
「っ……!」
まるで想いに答えるかのような寝言に、仮面はあっという間に焦げて崩れ落ちる。アンナを愛するただの男となったロイは、とうとう唇を重ねてしまった。
胸が悦びに打ち震える。
(ああ……ついに、ついにアンナと……)
初めて触れるアンナの唇は想像よりも柔らかく、ほんのりと甘い気さえした。
感嘆の息を押し殺し、無防備に眠る義妹に何度も口づける。その度に湧き上がる背徳感は苦しくも甘美で、愛する女性に触れている高揚感と相まってロイの理性を溶かしていく。
(アンナ……好きだ……好きだ、好きだ、好きだ)
可憐な桃色の唇に繰り返し啄むように口づけるも、アンナに起きる気配はない。
どうかそのまま、空色の瞳は見せずに眠ったままで。
そう願いつつも、頭の片隅では目覚めたアンナと求め合うことを切望していた。
起きているアンナはどのように口づけに応え、どんな可愛らしい嬌声を零すのか。
ロイの手によって乱れるアンナを想像すれば、不埒な熱が下半身に集まり、ずくりと痛んだ。
――足りない。
重ねるだけでなく、唇を食み、舌を差し入れて咥内を味わいたい。
夜な夜なベッドの上で自己嫌悪しながらも夢想していたように、アンナの柔肌を快楽で赤く染め、貫き、愛を囁き合いながら最奥で果てたい。
(手離そうとしたくせに、帰ってきたらどう手に入れるかを考える愚かな俺を、君はどう思うだろうか)
離れている間に、兄の仮面が外れないよう戒めるつもりだったが、結局、一線を越えてしまった。弱く罪深い兄でも、アンナは好きだと言ってくれるだろうか。
「アンナ……」
俺だけを見て。俺だけに笑いかけて。俺だけを好きでいて。
俺だけのものになって。
「俺だけのアンナ……」
懇願するように囁き、また唇を合わせる。
禁断の果実をじっくりと味わうように。
恋情なく兄妹でいられた、もう戻れないあの頃の記憶を彼方に見ながら。
第一章 推しのいる世界
昔ながらの雰囲気が漂う大衆居酒屋で、店員の青年が申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません! 先ほどオーダーを取り間違えてしまいまして、こちら、お代はいりませんので召し上がってください」
簡素な木製のテーブルに置かれたのは、出汁の香りが食欲をそそる揚げ出し豆腐だ。
杏奈はぱっちりとした目を瞬かせ、店員と揚げ出し豆腐を交互に見る。
「いいんですか?」
「どうぞ! 先ほど頼まれた揚げ出しモチは今準備していますので、少々お待ちください」
深々と頭を下げ、調理場へ戻っていく店員を見送っていると。
「さすがラッキーに愛されし女。あー、あたしも杏奈みたいにラッキー体質になりたいなぁ」
向かい側に座る幼馴染の陽菜乃が、羨ましそうに溜め息を吐いた。
「杏奈の運、少しでいいからあたしにもくれない?」
甘えた声で強請り、ビールジョッキを手にしたままテーブルに力なく突っ伏す陽菜乃は、昔から運が悪い。正確には男運なのだが、その証拠に彼女は昨夜、恋人の浮気現場を目撃したばかりだ。
「じゃあひとまず、ラッキーでいただいた揚げ出し豆腐をおすそわけするね」
杏奈は肩で切り揃えられた黒髪を耳にかけ、陽菜乃の小皿に揚げ出し豆腐を載せた。
「豆腐じゃなくて幸運が欲しいの……。恋愛運爆上げして、誠実な男と出会いたい。今年で二十七になるのに、このままじゃ行き遅れちゃう……」
「それ、もう十年彼氏のいない私の前で言う?」
同じ歳なだけならまだしも、高校以来まともに恋人がいない杏奈が突っ込むと、陽菜乃はむくりと起きて片眉を上げる。
「杏奈の場合作る気がないだけでしょ。乙女ゲームばっかりやって、二次元の男のなにがいいのよ」
「最高よ。なんせ彼らは、ヒナの元カレのように私を裏切らないし」
三次元の男に浮気された陽菜乃は「傷口に塩を塗らないでよ」と呻いた。
「でも、幸運引き寄せちゃう杏奈なら、ある日突然現れたいい男と、あれよあれよと結婚まで行きそうな気がする」
陽菜乃がいいなぁと羨望の眼差しで杏奈を見つめる。
確かに、杏奈は子供の頃からラッキー体質だった。
人によっては偶然と片付けるものを、杏奈がラッキーだと思い込んでいる節もあるだろうが、よく経験するのは、くじ付きのアイスを食べると高確率で当たりが出るというものだ。
ちなみに、もらったもうひとつのアイスまで当たることもしばしば。
他には、うっかり物を紛失しても必ず手元に戻ってきたり、旅先のホテルのミスで部屋が取れていなかった結果、空いていたスイートルームに泊まれたり。
一番ラッキーだと感じたのは、交通事故に巻き込まれたのに無傷で済んだことだろう。
しかし、杏奈が望む理想の男性は現れてくれないので、ラッキー体質も完璧なわけではない。
「どうかなぁ。ロイ様似の人に出会えてないし、私も男運ないのかも」
「出たロイ様。あれでしょ? ハッピーエンドがなくて、メリバエンドが最良だとかいう乙女ゲーム」
「そう! ハピエン厨にもかかわらず、公式サイトで見たロイ様のビジュにひと目惚れして即予約した『君と織りなす愛の果て』、略して『君果て』のロイ様!」
「あ、スイッチ入れちゃったわ」
「立ち絵もスチルも最高で、悲しい結末にもかかわらず幸せそうなロイ様のメリバエンドに涙して悶え、寝ても覚めても忘れられなくなってから早五年。その後どんなキャラと出会って恋をしても、私の最推しは変わらずロイ様だけ!」
杏奈が早口で熱弁するほど推しているロイは、受け手によりバッドにもハッピーにもなるメリーバッドエンドが最良エンドとして用意されている乙女ゲーム『君と織りなす愛の果て』の攻略対象キャラだ。
とある事情により、孤独な環境で生きてきたロイ・クレスウェル。
儚げな容姿と感情の起伏が乏しい凪いだ声、どこか物憂げな雰囲気は、杏奈の好みド真ん中。
彼に惚れてからというもの、三次元の男への興味は薄れるばかりだった。
部屋もロイグッズに溢れ、夜はロイがプリントされている等身大抱き枕を抱き締めて眠っている。
「他キャラと浮気してるから現れてくれないんじゃない?」
「他キャラ攻略は世界線が違うから浮気じゃありません」
『君果て』内でも他のゲームでも、各キャラとの物語は、パラレルワールドで恋を疑似体験しているようなもの。決して二股をかけているわけではない。
ただし、ロイへの気持ちは疑似ではなくマジだ。
「その感覚をリアルな女相手に持ってるのが、昨日オサラバしたアホ男なわけよ」
「リアルでやっちゃダメ。でも、リアルなロイ様は大歓迎」
揚げ出し豆腐を味わい、レモンサワーを飲み干して告げると、陽菜乃がクスクスと肩を揺らした。
「ロイ様がリアルにいるわけないでしょ」
「ワンチャン転生してるかもしれないじゃない」
もしロイがこの世に爆誕しているならば、同じ世界に生きているというだけで尊く、息を吸うだけでも満たされるというもの。
オタク思考全開で妄想しつつ、杏奈はサワーを追加注文した。
「でも本当、ロイ様と会えるなら、全ての運を使っても後悔はないのに」
「全てー? 運が尽きて死んだらどうすんのよ」
酒で赤らんだ顔に、目いっぱい笑みを広げてケラケラ笑う陽菜乃。
それはやばいと、杏奈も大口を開けて笑った。
酔っ払いの戯言。けれど、杏奈にとってはそこそこ本気の願いごと。
ロイ様がリアルに現れてくれたなら――
そんな奇跡を胸に、杏奈は幼馴染の憂さ晴らしにとことん付き合った。
――カタカタ、カタカタ。
リズミカルな音に合わせて身体が揺れる。
その振動に目を覚ました杏奈は、向かい側に見える臙脂色の座席をぼんやりと眺めた。
(あれ……?)
さっきまで居酒屋にいたはずだが、いつの間に電車に乗ったのか。
……いや、電車はこんなに狭くない。どちらかといえばバスだ。
だがバスにしても狭く、低い天井からは蛍光灯ではなくランプが下がって揺れている。
一体ここはどこなのか。
混乱と共に意識が明瞭になる中、ふと聞こえてきた馬のいななきに、思い当たる乗り物がひとつ。
「もしかして馬車……? って、え?」
確かめるように呟いた自分の声が妙に幼い。
違和感を覚えて喉に触れた直後。
「あら、目が覚めたの? アン」
すぐ隣から降ってきた穏やかな声に、杏奈は声の主にもたれていた頭を勢いよく起こした。
夜空のような濃紺の長い髪は真っ直ぐに伸びて美しく、杏奈を見下ろす空色の瞳は慈愛に満ちている。
「あ、あの……? どちらさま、ですか?」
首を捻る杏奈と鏡合わせのように小首を傾げた女性は、「いやだわ」と苦笑した。
「寝ぼけているの? そろそろクレスウェルのお屋敷に着くわよ」
「クレスウェル……?」
反芻したその名は、ロイのファミリーネームと同じだ。
(夢……にしては妙にリアルだけど……)
手を開いたり閉じたりしながら首を捻り、視線を窓の外に向ける。
蒼空の下、レンガ造りの建物が連なる街並みは、メディアなどで目にするヨーロッパのそれだ。
飛行機に乗った覚えはないので、やはり夢だろうと納得しかけた時、杏奈は窓にうっすらと映る自分の姿を見て驚愕した。
「え? 子供になってる……⁉ しかも外人さん!」
緩やかにウェーブがかった白藍色の髪と、隣の女性によく似た空色の瞳。
天使のごとく可愛らしい美少女に変身したとなれば、これはもう夢で確定だ。
(というか、ちゃんと家に帰って寝たのかな)
電車なら寝過ごしていそうだ。一回起きようと、試しに弾力のある頬を思い切りつねってみる。
「いったぁ⁉」
「もう、アンったら、なにしてるの? あなたさっきから変よ」
「……アンって、私のこと?」
「そ、そうよ? 本当に大丈夫?」
心配そうにのぞき込んでくる女性の瞳が不安げに揺れる。
痛む頬を摩りながら、杏奈は「大丈夫です」とぎこちない笑みを浮かべた。
(夢なのにめちゃめちゃ痛い。痛みだけじゃない、全部がリアルすぎる)
もし夢でないなら、一体なにがどうなっているのか。
杏奈は深呼吸して心を落ち着かせ、記憶を順に辿ってみる。
(ヒナと居酒屋で飲んで……そうだ、酔いつぶれたヒナを家まで送ったんだ。で、終電逃しちゃって、仕方ないからタクシーで帰ることにしたのよね)
だが、タクシーはなかなか通らず、電話で呼んだ方が早そうだとスマホを手にした時、足元に黒猫が寄ってきたのだ。
黒猫ってロイ様のイメージがあるなと頬を緩めていると、杏奈に向かってひと鳴きした黒猫は、大型のトラックが迫っている道路に飛び出した。
『え、ロイ様ダメ! 危ない!』
叫び、道路に駆け出し黒猫を抱きかかえると同時に、クラクションの大きな音が鼓膜を震わせ、視界を眩しい光が覆い尽くし……
(気づけばここ、と。まさか私……轢かれて死んだ?)
だとしたら、ここは天国なのか。
「いや、天国だとして、なんで私はアンって子になってるの?」
ぶつぶつと呟いていると、隣の女性が悲哀に満ちた表情で杏奈の背を撫でた。
「アン……もしかして私の再婚には反対だった? てっきり父親ができるのを喜んでくれていると思っていたのだけれど、本当は嫌だったのかしら……」
どうやら女性は杏奈の……アンの母親らしい。
そして話の内容から察するに、再婚したか、これからするのだろう。
だが、混乱している杏奈のせいで、母は自分の再婚を無理に受け入れたストレスから娘がおかしくなったのではと落ち込んでしまった。
杏奈は慌てて首を横に振る。
「ち、違うわ! ただ、そ、そう。変な夢を見て、記憶がごちゃごちゃになっていて」
「まあ、夢見が悪かったのね」
「そうなの。だからその、少し確認してもいい?」
「ええ、母様になんでも聞いてちょうだい」
おっとりとした笑みを浮かべる母に、杏奈はさっそく口を開く。
「ここは天国?」
質問を受けた母は、面食らって双眸を丸くする。
「もしかして命を落とす夢を見たの? 安心して。ここは天国ではなく、ターリン王国のクレスウェル領内よ」
「ターリン王国の……クレスウェル領って……」
聞き覚えのあるそれは、ロイが住まう世界のもの。
「え……まさかここは、『君果て』の世界、なの?」
確かめるように声を零した直後、アンの記憶が段々と脳内に広がって融合する。
「名前は、アン……アンナ。少し前に八歳になった……」
「そうよ、あなたは私の可愛い娘、アンナよ」
そして、聖母のような微笑でアンナを優しく見守る女性はアンナの母、クラリッサだ。
父はアンナが物心つく前に他界していて、顔も覚えていない。
だから……そう、母の再婚が決まり、父親ができることを喜んでいた。
まだ一度しか会っていないけれど、とても優しそうな人だったから。
(というか、今思い浮かんだ新しい父親の顔が、ロイルートでちょくちょく出てくるロイ様の父親とそっくりなんですけど)
思い返してみれば、ロイには義妹がいた。
とはいえ、ストーリーに影響がないキャラクターであり、ワケあって家族と距離を置くロイとは立ち絵どころか会話シーンすらなかったはず。
自分は、その義妹キャラになっているのか。しかも同じ名の。
「少し落ち着いたかしら?」
「は、はい……」
頭はまだ混乱しているが、あまり母を困らせないよう杏奈は笑みを浮かべた。
やがて目的地に到着した馬車を降りると、紅葉に染まる木々の奥に覚えのある大邸宅を見つけ、杏奈は歓喜の悲鳴を上げかける。
(ロイ様の住む邸宅が! 舐めるように見た背景画像がリアルになって目の前に!)
慌てて両手で口元を押さえるも、興奮に漏れ出る息は荒い。
(本当に? 本当にここは『君果て』の世界なの?)
出迎えた壮年の執事長に案内され、母と共に広く豪奢なエントランスに通される。
すると、黒髪を七三できっちりと分け、紳士然とした長身の男が笑みを浮かべながら両腕を広げて近づいてきた。
「クラリッサ、アンナ、よく来たね」
「グレイン」
嬉しそうに眦を下げた母が、男の腕の中に身を寄せる。
(グレイン・クレスウェル。やっぱりロイ様のお父様! ということは!)
杏奈は忙しなく視線を動かしてエントランスを見回した。
「アンナ、どうかしたかい?」
眉を上げたグレインは、不思議そうに杏奈を見下ろす。
「あ、あの、ロイ様は……」
グレインがワケあり息子のロイを遠ざけているのは知っている。
だが、今日から家族として共に暮らすのだ。最初に紹介くらいはあるはずだと思ったのだが。
「息子のロイは離れに住んでいるんだが、病弱であまり人と会えないんだ」
どうやら杏奈たちに関わらせたくないらしい。
しかし今の会話で、推しキャラであるロイの義妹になったことは確定した。
(ロイ様が私の義兄に!)
興奮してにやける口元を小さな手で隠すと、グレインがにこりと杏奈に微笑みかける。
「それよりアンナ、父となったわたしとハグをしてくれないか」
「は、はい。お父様」
緊張しつつも笑みを返し、杏奈はグレインと親愛のハグを交わした。
その後、両親と共に豪華な夕食を味わった杏奈は、使用人たちに手伝われながら入浴を済ませた。
「それじゃあおやすみなさい、アンナ」
「おやすみなさい、母様」
あてがわれた自室の天蓋付きベッドに横になった杏奈は、扉が閉まるのを確認するとむくりと起き上がる。
「ロイ様の抱き枕がないと落ち着かない。というか、せっかく『君果て』の世界にいるのに、ロイ様に会えないなんて拷問では……」
ぼやいてベッドから下りると、窓際のソファに膝をついて夜の帳に包まれた庭園を見下ろす。
手入れの行き届いた花々が並ぶ奥に、ぼんやりと明かりが灯る建物が見えた。もしかして、そこがロイの住む離れではないか。
ギンギンに冴えている目を見開き、食い入るように明かりを凝視する。
(うーん、暗くてよく見えない。でも、離れの外観はゲームで何度も見て覚えてる。朝一で確認してみよう)
明日の予定を立てた杏奈は、窓に映る見慣れない自分の姿を見つめた。
(恐らくだけど、これは異世界転生ってやつ?)
アニメや漫画、小説などで流行っている、『死んだら異世界に転生しました』という新しい人生を歩むあれが、自分の身にも起きたのでは。
『でも本当、ロイ様と会えるなら全ての運を使っても後悔はないのに』
杏奈の場合、事故に遭う前にそう願ったことで、運が全使いされて奇跡が起こったのだ。
こうなると、事故に遭って死んだ不運さえ幸運に思えてくる。
「推しのいるゲームに転生できたなんて、自分の体質が恐ろしいわ」
このラッキーが黒猫にも発動していて無事ならいいのだが。
ただ、転生できたのは嬉しくても、遺してきた家族や友人らの気持を考えると、心は痛むし寂しさも募る。
(いや、こっちの世界で死んだら現実世界に戻って意識が回復……なんてパターンもあるから死んでないかもだけど)
どちらにせよ、嘆いているであろう皆に、どうか悲しまないでくれと伝えたい。
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