憎欲

水瀬白龍

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第十五話 本能

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「渇きが耐えられないんです。他者に賛同する安寧を享受する彼等を衆愚と罵り、その低能さを見せつけるかのように無意味に揺らめく影を踏みにじりたくて堪らない。かつての渇きのせいで拡張された己の体内にある虚ろな空洞を、彼等への痛罵で存分に満たしたい。あれ如きでは俺の中に渦巻く憎しみは満足しない。それ程までに、俺は憎悪を渇望している」
「君の足を向ける先は彼等の影ではなく別にあるのではないのかな。かつての君の極貧の原因を作ったのは誰だ? 君達が受け取るべき金を私財に貯め込んでいたのは誰だ? だから私には意味が分からないよ。そのような思考を働かせることすら非効率的だ」
「貴方はどうしても俺のことを頓馬と呼びたいようだ」

 俺は指の合間から、ホルスト卿を睨みつけた。そこに浮かぶ笑顔を塗り潰したいと、俺は彼と出会ってから初めてそう思った。

「随分楽しそうなご様子ですね。貴方はどうも、俺を道理も分からぬ人間だと愚弄なさりたいとみえる」
「いいや、まさか。そんな君の在り方に惹かれたと、私は言ったじゃあないか」

 一瞬その言葉は俺の脳を滑ったが、しかしすぐさまその意味を理解して、俺はハッと顔を上げる。そういえばすっかり忘れていたが、記憶を掘り起こせば彼は先程、確かにそのようなことを言っていた気がする。一旦冷静になると感情は身を顰め、俺の理性が帰還を果たした。
 そして俺はついに現状を理解する。冷たい水を掛けられたように明確になった視野に映るのは沈着に腰かける男で、しかし、それは愉快そうにブランデーの香りを楽しむ狂人に他ならないのだ。彼は俺を見て心底嬉しそうにしている。

「何かを憎む心というのは本人の自覚によらず、如何なる人間の中にも居座っているように思えるんだよ。それはさながら人とは切り離せぬ本能の一種のようにね。その理由は何だと思う?」
「さぁ……サッパリですね。俺は主観的にしか考えられず、貴方のように冷静にこの感情を分析することなど出来ませんから」
「成程、そういう見方も出来るのか。私は己の在り方に悲観していたけれど、常に主観的にならず客観的になれると考えれば、それはまるで利点のように思えてくるよ。これだから己とは別の観点を持つ者との対話は好きなんだ」

 彼はそう言って笑った。

「さて、先程の話の答えだが、人を敬愛するより罵倒する方が痛快で、人を褒めたたえるよりも踏みにじる方が快適だからだと私は思っている。ほら、あの時の杖を突いた男を思い出してごらん。彼は確かに私が救った男の一人であるが、最後は私を憎悪した。騙されたという事実から目を逸らすため、己を下げず、自らの矜持に従い他者を見下げた。つまり、何かを肯定よりも否定する方が楽なんだ。故に理性は嬉々として仕事を放棄し、多少の不条理は見逃される。君がそうしたようにね」
「俺は別に楽な道に逃げるために民衆を唾棄したわけではありません」
「君は本当の原因である見ず知らずの人間よりも、すぐ目の前にいた人間に対して憤慨することを選んだ。それが答えじゃあないのかい?」

 俺は言葉を失った。それをクスクス笑って眺めながら、彼はブランデーをぐいと飲み干す。

「憎悪とは本質的に理屈に外れた感情なんだろうね。そして、そこには人間の本質が隠れている。人間が獲得した多彩な感情の中で、特にそれは他とは一線を画しているようだ。人は道理を超えた先で、まるで何かに責め立てられるが如く、様々な事象を恨んでいる。もはや憎悪とは常に乾いた欲のようだ。それを求めずにはいられぬと、如何なる不条理ですら無視して、人は何かと理由を付けて憎しみにかられている。それを他でもない、君が教えてくれたんだ」

 どこか耽美的な微笑を浮かべる彼の姿が、俺にはどうしてか人ならざる何かに見えてしまった。俺はまるで人知を超えた化物に対峙しているような気分になり、恐怖と興奮がないまぜとなった心地を味わう。彼は恍惚と目を細めた。

「あぁ、その不合理な様が私は非常に愛おしいよ。それは私が持たざるものなのだから。――ところで、こうして私は君に初めて己の内を暴露した訳だけれど、それでも君は私の友のままでいてくれるかい?」

 俺は何より、彼が俺の友だということがおかしくて仕方がなかった。しかし、それは決して否定的な意味ではない。むしろ漠然とした集合体に身を沈める影とは決定的に異なる自我の持ち方を、俺は心から素晴らしいと喝采した。己の理解しえぬ者に抱く恐怖が塗り潰され、やがて濃厚な酒に溺れるように、興奮だけが次第に俺の脳を支配してゆく。俺は自然と笑みを浮かべていた。

「えぇ――貴方は私の生涯の友です。自らを曝け出してまで問われた貴方に敬意を」
「あぁ、それは良かった。途中の君もそうだったけれど、私が君を見下し馬鹿にしていると見当外れな勘違をされるんじゃあないかと、心配していたんだ」
「貴方に人を馬鹿にし見下すことが出来るような感情があるならば、そう思ったでしょうね。貴方が俺を理解出来ぬように、俺も貴方を理解出来ないんです。俺達が対等な友であっても、同じ目線に立って考えることは、ただただ馬鹿らしい」
「君の考えに賞賛を。やはり君と私の相性は相当良いと思っていたんだよ。何せ、多くの人間を今まで助けて来たけれど、その中で友と呼べるようになった者など君以外にただ一人として存在しないんだ。君だけはどうにも手放せそうにない」
「それは光栄なことです」

 俺達はそうして、気分良く酒を飲み交わした。

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