憎欲

水瀬白龍

文字の大きさ
16 / 17

第十六話 提案

しおりを挟む
 グラスはあっという間に空となり、改めてホルスト卿は口を開く。

「さて、面倒な横やりが入ってしまったけれど、これでやっと私にも余裕が出来た訳だ」
「本当に、よくもやってくれましたよね」

 俺が差しているのは政府からの依頼だ。死者をも陥れようとする彼等には反吐が出る。

「貴方の名誉がこれほどまでに損なわれるとは」
「おや、話が戻ったじゃあないか」
「それだけ俺が腹を立てているということですよ。友を愚弄されて誰が喜ぶとでも?」
「すまないけれど、どうにも私はそのあたりの感情の機微には疎くてね」

 肩を竦めるホルスト卿の姿を見て、俺はそれ以上の言及を避けることにした。

「こちらの扇動に容易に流され、他でもないホルスト卿に嬉々として石を投げた衆愚に対しても、怒りが収まりませんよ。かつての恩を忘れ、虚言に呆気なく騙される彼等の低能さには救いようがない」
「それが君の憎しみの形なんだね」
「えぇ、そうです。理不尽でしょう? それで構いませんよ、もう開き直ることにしました。誰かを蔑むことはこれ程までに楽しい」
「君が楽しいのならば幸いだよ。ところで君は、今でも私のやりたいことに手を貸してもいいと思ってくれているのかな」

 俺はその言葉を聞き、数カ月程前に交わされた会話を思い出す。それは彼から自殺偽装の手伝いを求められた時のことだ。そもそも彼は何故、政界どころかこの世界からの消失を選んだのか。それは彼を蹴落とそうとする彼の政敵が次第に手段を選ばなくなり、身の危険を感じたということだけが理由ではない。彼は自らの存在を抹消することで、時間的な余裕を得ようとしたのだ。その時間をジックリとかけることで彼が成し遂げようとしていることを、俺は何度も彼から語られている。また先程の彼の過去の話から、それこそが彼の根源を形成するものだと、俺は既に理解しているのだ。

「腐敗に塗れた独裁政権体勢を崩壊させ、社会をより良くすること。力になれるかは分かりませんが、俺でよければ幾らでもご協力しましょう」
「ありがとう。君が味方であることが本当に心強いんだ」
「ただ、その先にあるのが、俺が憎悪する民衆のより安定した生活だという点だけが、どうにも気に食わないですけれどね」

 俺は己の言葉に顔を歪ませた。結局彼が求めるものは、俺の欲が望むものとは完全に異なるものなのだ。俺は彼等が地獄を味わうことを心待ちにしている。例えば、それこそ俺が過去に味わったように親を壊され、失い、飢え、渇き、生存のための闘争を強制され、寒さに凍え、ガラクタの中に眠り、人間としての尊厳を奪われることを望んでいる。そして、かつて見捨てられて死んでいった子供の様に、彼等も誰にも救いの手を差し出されない絶望に満ちた死の淵に沈んで欲しいと、俺は心の底から願っているのだ。呼吸も出来ぬ程に恐ろしい闇が、どうか彼等を揃って愛してやらぬものか。寒さに凍える俺の存在を、示し合わせたように見て見ぬ振りをした民衆に対する不幸への切望が、俺の根幹を形成している。ホルスト卿はそのようなことをぼやく俺に眉を上げた。

「それが、かつての君の絶望を生み出す原因を作った者達の断罪の先にあるものだとしても、気に食わないのかい?」
「そう理解しているからこそ、俺は貴方に手を貸すのです。俺とて、その者達に制裁が加えられる様を間近で見たいと思う程には、彼等の没落を心待ちにしていますからね」
「民衆の安寧が、かつての君達の様な浮浪児を救うことだとしても?」
「ですから理解はしているのです。そもそも垢に塗れて異臭を放つ浮浪児に対し、一切の躊躇なくその頭を撫でることが出来る程に彼等のことを思っていた貴方が、どうして彼等に決定的な支援をしなかったのか。貴方の屋敷は何人もの孤児を保護出来る程に広大で、大量の食事を用意出来る資金もあったというのに、貴方は時折しか貧民窟に顔を出さなかった」
「その心は?」
「浮浪児にその日のパンを与えたところで、彼等が得られる明日のパンはないということです。そして一人を保護することが出来ても、何百人と保護することは不可能です。貧民窟の者達を救うには、より根本的な解決策が必要だ。そしてそれが民衆を含めた国全体の社会秩序と治安の向上そのものであると、俺は理解はしているのです」

 理性と感情は別物というだけのことだ。ホルスト卿の指摘通り、それが憎悪に関わるものである程その傾向が顕著になると、俺も自らの内を顧みることで知った。不機嫌な様子を隠しもしない俺にホルスト卿は面白がるような表情を浮べる。

「そういえばね、そのことについてだけれど、私は一つ良いことを思いついたんだよ」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

壊れていく音を聞きながら

夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。 妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪 何気ない日常のひと幕が、 思いもよらない“ひび”を生んでいく。 母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。 誰も気づきがないまま、 家族のかたちが静かに崩れていく――。 壊れていく音を聞きながら、 それでも誰かを思うことはできるのか。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

処理中です...