憎欲

水瀬白龍

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最終話 憎欲

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「良いこと? それは俺にとって、でしょうか」
「そうだよ。実は社会をより良く変える仕事を、君が大いに嫌う民衆に担ってもらおうと思っているんだ。既に君に頼んで種は撒いてもらった。さて、どれのことか分かるかい?」
「貴方から頼まれたことと言えば……あぁ、別の政府要人の罪を貴方に押し付けるという案のことですか」
「その通り」

 彼は満足そうに頷いた。

「此度のことで証明されてしまったけれど、民衆の扇動は比較的楽に行うことが出来るようだ。彼等を集合と考える限り、彼等の思考の操縦は良い手段になりえる」
「えぇ、影とは同じ方向を向くものですから。思考の方向性の統一は難しいことではないでしょう。その言葉には一言一句同意します」
「政府からの依頼は私を憎ませることだった。ならば、次はそれを逆転させるんだ」

 勿体ぶる様に言う彼に、俺はその言葉を脳裏で繰り返す。政府がホルスト卿へ行ったことを逆転させるとはどういうことか。逆転という彼の発想に従い、両者の立場を入れ替えれば――成程。俺は彼が望む答えに辿りつき、自信を持って口を開いた。

「つまり民衆に対し、政府への憎しみの感情を植え付けるということですね」
「そういうことだ。そして私の罪状と銘打って、彼等の悪逆非道は既に記事として国中に流布されている」

 そう言いながら、彼は机の上に置かれたままの新聞紙をトンと指で叩いた。
 ――『慈善家と呼ばれたホルスト卿の明らかとなった本性』
 大々的に書かれた見出しの下には、あまりにも悍ましい悪事が書き連ねられている。ホルスト卿が行ったということを除けば、それらは全て強大な権力によって握り潰されただけの確かな事実なのだ。彼等が保身のために隠そうとしていた非道な振る舞いが、今や俺と卿の甘言に乗せられた政府自身の手によって国中に知らしめられている。俺はようやく、この提案をした卿の真意を悟った。

「あれは、そのためのものだったのですね」
「まずは、今私へ向いている憎悪の対象を政府へ掏り替えるんだ。そうだな、民衆は私が政府と敵対していたことなんて知らないんだ。実は、私は政府と結託して悪事を行っていて、此度の件はその一端が結婚パレードによって晒されたにすぎないという筋書きなんかはどうかな。そして、彼等が決起するように仕向ける。私達はそのための元手を提供し、民衆を扇動するんだ。つまり私達の代わりに民衆を動かして、現政権を打倒するという計画だよ」
「成程」

 俺は大まかな概要を掴み、頷いた。確かに新聞の記事や、俺の持つ薄暗い伝手、今回の件で得た政府からの信頼、卿の持つ潤沢な資金と、今でも一部には通用する影響力を鑑みれば、確かにそれは不可能なことではないだろう。力を持たぬ民衆でも数が集まれば大きなことを成し遂げることが出来るというのは、歴史を振り返れば明らかなことであるし、計画において理解に戸惑う箇所も特にはなかった。しかし疑問は一つ残る。

「貴方は先程、俺にとって良いことを思いついたと仰っていましたが、その計画において俺の利点になるようなことはないように思えます。どうして民衆を扇動することが、俺にとって良いことになるのでしょうか」

 首を傾げながら問いかけると、彼は満面の笑みを浮かべてみせた。

「極悪非道な狂人だと罵り見下していたホルスト卿に、自分達が呆気なく操られていた事実を彼等が知ったら、どう思うだろうね? ついでに、その事実を後世の人間達が知ったらどう思うだろうね?」

 その言葉に、俺の全身は衝撃を受けたように固まった。彼の笑みは正常な人であらばあり得てはならぬ程に完璧であり、そこに人間らしさは一片も見当たらない。しかし、俺は身の内の血流が喜ぶように速度を上げ、顔が紅潮していくのを感じた。

「私の目的はこの社会をより良いものにしたいということだけだ。私の友である君に対してとは異なって、別に民衆の細やかな感情なんてものは塵芥よりもどうだっていい。むしろ、私は君の欲を見たい」

 彼は立ち上がって俺の横へ移動し、俺の瞳を覗き込むように凝視した。きっと俺の中には期待と歓喜、そして興奮が満ち溢れていることだろう。そして深淵を覗く心地になりながら、俺もまた彼の瞳の奥に広がる世界をついに赤裸々に暴くのだ。

「私達の思うがままに操られる民衆を、愚図で愚鈍だと罵倒すればいい。自らの力で成し遂げた偉業だと誇り、勘違いする彼等を滑稽だと嘲笑えばいい。全ては私達の手のひらの上だというのに、そこが己の開拓した世界だと思い込む彼等の愚かさ加減を存分に哀れめばいい。たった一人の女にすら見捨てられた男だと嘲笑った彼等を、今度はこちらが好きなだけ嘲笑うんだ。狂人だと見下され罵られた私と、罵声を浴びせられ石を投げられた君こそが、彼等をまるで操り人形のように操る――それは、君にとっては心躍ることではないかな?」

 彼の真円の瞳孔の奥に滲む異常性を垣間見ながら、俺の口角は次第に上がってゆく。そして、鏡映しのように瞳に映り込む互いの姿に、俺達は笑い合った。

「貴方とならば、俺は世界で一番輝くことが出来る気がしますよ」
「そんな憎悪に満ち溢れた君とならば、その感情を持たぬ私でさえその世界を垣間見ることが出来る気がするんだ」

 今から行われるのは民衆による革命だ。腐敗した世界を正そうと民衆が決起し、悪を打倒し、より良い社会を作るのだ。その正義に満ち溢れた一連の行動を嘲笑う者がいるなど誰が想像するであろうか。人を愛すよりも人を憎むことの方が容易く楽しい。まさにこれこそが人の本質であると、俺は確信した。
 時に聖人君子と呼ばれ、時に狂人と呼ばれた男は俺に囁く。

「――さぁ、君の憎欲を見せておくれ」

 その声はこの世界の誰よりも悦楽に満ちていた。

 (終)
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