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第4章
志織の場合 その2 革手袋
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しばらく志織が黙っていたので、とうとうしびれを切らしたのか、涼平は言った。
「なぁ志織、何か言俺に言うことないのかなー。何か忘れてない?」
「何かって……」
志織はまじまじと涼平の顔を見た。そしてやっと志織は涼平の言葉を思い返し
「合格おめでとう、でいいのかな。そうよね、ごめんごめん」とあわてて言った。
涼平はあきれたような顔をしたが、やがて表情をやわらげ、苦わらいしながら頭をかいた。
「変わらないな、志織のそういうとこ。そうだよ、やっと俺、合格したよ。苦節……五年だったかな」
涼平の髪は、栗色がかったさらさらした髪だ。見たところ、まだ白髪もない。志織は夫の慎一の髪が、最近白髪が数本見え始めていることをふと思った。しかしそんなことを押しやり、志織は
「ほんとに涼平ったら短気っていうか無鉄砲っていうか、めちゃくちゃだったわよね、あの頃は」と言った。
涼平は大学卒業後、就職したものの上司とそりが合わず、二年ほどで辞めてしまった。そして、いきなり司法試験を受けると言い出したのだ。涼平は法学部出身でもなく、そんな畑違いの試験勉強などしてもうまくいくはずはない、やめておけと涼平の両親をはじめ、周囲も反対した。しかし涼平の意志は変わらなかった。そして五年たち、涼平は宣言通り、司法試験に合格した。そうだ、涼平は合格したのだ、と志織は胸の中で、その言葉を何度か反芻した。そんな志織に涼平は
「志織、少し時間あるかな? 立ち話もなんだし、久しぶりにどこかでコーヒーでも飲まない?」と誘った。
志織は左手の銀色の小さな腕時計を見た。秒針のないその腕時計は、二つの針が離れて、5と3を指していた。慎一の帰宅にはここから家までの時間を入れても、十分余裕があった。
「いいわよ。そうだ、ペルシュへ行こうか?」
ペルシュは二人で昔、何度も行ったコーヒー専門店だった。
「ペルシュか? まだあるのかな、あの店。あの辺り、すっかり変わっちまったけど」
「……」
涼平は少し考え込んでいたが
「行ってみるか」と明るく言った。志織は、涼平が司法試験に合格したので、きっと気分が高揚しているのだろうと思った。
しかし志織が売り場を離れようとした時だった。涼平はすぐに
「あ、志織。さっきの黒の革手袋、買わなくていいの? せっかくのダーリンへのクリスマスプレゼントだろう? 俺はあれじゃなきゃダメってこともないし」と言った。
志織は涼平が、いとも簡単に夫の慎一のことを「ダーリン」と呼んだことに少なからず驚いた。涼平にとってはもう、志織の結婚相手など、何の痛みもなくさらりと口に出せる、過去のものになっていたようだった。
「なぁ志織、何か言俺に言うことないのかなー。何か忘れてない?」
「何かって……」
志織はまじまじと涼平の顔を見た。そしてやっと志織は涼平の言葉を思い返し
「合格おめでとう、でいいのかな。そうよね、ごめんごめん」とあわてて言った。
涼平はあきれたような顔をしたが、やがて表情をやわらげ、苦わらいしながら頭をかいた。
「変わらないな、志織のそういうとこ。そうだよ、やっと俺、合格したよ。苦節……五年だったかな」
涼平の髪は、栗色がかったさらさらした髪だ。見たところ、まだ白髪もない。志織は夫の慎一の髪が、最近白髪が数本見え始めていることをふと思った。しかしそんなことを押しやり、志織は
「ほんとに涼平ったら短気っていうか無鉄砲っていうか、めちゃくちゃだったわよね、あの頃は」と言った。
涼平は大学卒業後、就職したものの上司とそりが合わず、二年ほどで辞めてしまった。そして、いきなり司法試験を受けると言い出したのだ。涼平は法学部出身でもなく、そんな畑違いの試験勉強などしてもうまくいくはずはない、やめておけと涼平の両親をはじめ、周囲も反対した。しかし涼平の意志は変わらなかった。そして五年たち、涼平は宣言通り、司法試験に合格した。そうだ、涼平は合格したのだ、と志織は胸の中で、その言葉を何度か反芻した。そんな志織に涼平は
「志織、少し時間あるかな? 立ち話もなんだし、久しぶりにどこかでコーヒーでも飲まない?」と誘った。
志織は左手の銀色の小さな腕時計を見た。秒針のないその腕時計は、二つの針が離れて、5と3を指していた。慎一の帰宅にはここから家までの時間を入れても、十分余裕があった。
「いいわよ。そうだ、ペルシュへ行こうか?」
ペルシュは二人で昔、何度も行ったコーヒー専門店だった。
「ペルシュか? まだあるのかな、あの店。あの辺り、すっかり変わっちまったけど」
「……」
涼平は少し考え込んでいたが
「行ってみるか」と明るく言った。志織は、涼平が司法試験に合格したので、きっと気分が高揚しているのだろうと思った。
しかし志織が売り場を離れようとした時だった。涼平はすぐに
「あ、志織。さっきの黒の革手袋、買わなくていいの? せっかくのダーリンへのクリスマスプレゼントだろう? 俺はあれじゃなきゃダメってこともないし」と言った。
志織は涼平が、いとも簡単に夫の慎一のことを「ダーリン」と呼んだことに少なからず驚いた。涼平にとってはもう、志織の結婚相手など、何の痛みもなくさらりと口に出せる、過去のものになっていたようだった。
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