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『第二十話・3 : 女神さまと呼ばれた夜』
しおりを挟む黒い軍勢の最前列――
その一体が、わずかにこちらへと顔を向けた。
ギィ……と、錆びた関節が鳴る。
次の瞬間。
全ての視線が、こちらへ向いた。
ざわり、と空気が反転する。
焚き火の熱すら、ひと呼吸ぶんだけ凍りつく。
リリアは息を呑んだ。
「……気づかれた。」
黒い軍勢が一斉に槍を傾ける。
刃が、月光を吸い込むように鈍く光る。
その動きは乱れていなかった。
まるで、一つの巨大な生き物が、形を変えたかのように。
大地が低く震える。
最初の一歩が――踏み込まれた。
ドォン。
大地が、心臓を打った。
ブッくんの声は、かすれ切っていた。
「……あかんやつや、これ。
本気で“殺しに来とる側”や……」
ワン太は、首をほんのわずかに傾けた。
炎の明かりをその瞳に映したまま。
……それだけで、世界の重心が揺れた。
黒い軍勢が、槍を揃えて前進する。
炎に照らされた甲冑が、波打つ闇の群れとなって押し寄せてくる。
その中で――
ワン太が、一歩だけ前に出た。
ぽす。
その小さな足音が、大地ごと「基準」をずらした。
黒い軍勢の足並みが、かすかに揺らぐ。
いや、揺らいだのは足ではない。
“世界の認識”のほうだ。
ワン太は、ただ首をかしげただけ。
いつもの、眠そうで、のんびりとした仕草。
……それだけで充分だった。
黒い軍勢の最前列が、揃って――
「一歩、後ろへ」退く。
リリアは息を呑む。
(……威圧じゃない。
力でも、魔力でもない。
“存在の前提”が、書き換わってる……)
炎の明滅の中。
ただのぬいぐるみが、戦場の中心に立っていた。
それは――
「この世界のほうが間違っていた」と言わんばかりの光景だった。
リリアの胸に、ひとつ呼吸が落ちる。
(……今しかない。)
(――チャンスだ。)
(……ワン太が、道を開いた。)
その事実だけが、背中を押した。
リリアは剣を掲げる。
炎に照らされた瞳に、祈りが灯った。
その祈りは、恐れごと抱きしめて、静かに形を結ぶ。
「──闇に沈みし亡霊よ。
血と怨嗟に縛られし者よ。
その影はもはや人ならず、
その嘆きはもはや天に届かず。
ならば光に還れ。
穢れを焼き、魂を解き放つ。
星々の誓約に従い、
我が刃は清浄をもって汝らを裁く──!」
リリアは一度だけ息を吸った。
胸の奥の“痛み”と“願い”が、ひとつに重なる。
剣先がぱあっと白銀の輝きを帯び、
炎の赤さえ呑み込むように街全体を光で満たしていく。
祈りが、刃に「形」を持った。
「──帰天照命《レディア・アポストル》」
それは滅びではなく、帰還だった。
放たれた瞬間、世界が呼吸を止めた。
それは殲滅ではない。
憎しみでも、力任せの破壊でもない。
――罪を祓い、魂を本来の座へ還す、“帰還の光”。
歴代の法王であっても、生涯に一度しか触れ得なかった秘儀。
その名を、今、リリア自身の声で呼び覚ました。
光は炎を押しのけるのではなく、
世界そのものの呼吸に滲むように降りた。
轟音とともに、閃光が奔流となって広場から四方へ駆け抜けた。
黒煙を裂き、瓦礫も炎も呑み込みながら押し広がる光の津波。
──だが、その光は“選んでいた”。
逃げ惑う人々に触れたそれは、刃ではなく、春の陽だまりだった。
泣きじゃくっていた子供は、頬に残る涙ごとそっと温められ、
老いた者の荒い咳も、光に撫でられるように静かに落ち着いていく。
焦げた皮膚には花弁のような痕が灯り、
乱れていた鼓動さえ、ゆるやかに整っていった。
だが、魔に堕ちた兵は違った。
ひび割れた仮面は、触れられた瞬間に音もなく崩れ、怨嗟は声になる前に光へと溶けていく。
叫びも苦痛もない。
ただ――存在の糸が静かにほどけていくだけ。
さっきまで広場を埋めていた“軍勢”は、もうどこにもいない。
ただ、光の余韻だけが、淡く空気に漂っていた。
黒煙が裂け、一瞬だけ夜明けの青がのぞく。
だが、それは朝ではない。
世界がほんの一瞬、“救いの色”を思い出しただけ。
そして――音が消えた。
風も、炎も、時間さえ息を止める。
“祈りが形を得た”ときにだけ訪れる、聖域の静けさだった。
「……おお……っ」
炎の中で逃げ惑っていた人々が、足を止める。
すすにまみれた顔で、震える声を上げた。
「……女神さまだ……!」
その言葉は、祈りでも歓喜でもなく――
ただ、静かな“事実”として降りた。
リリアだけが、炎と光の境目に立っていた。
その胸の奥には――静かな“ただ、役に立てた”という温度が灯っていた。
炎の揺らぎさえ、彼女を中心に呼吸しているように見えた。
誰も、否定しなかった。
ただ、リリアだけが。
胸の奥で、その重さを静かに受け止めていた。
肩が、かすかに震える。
それは恐れではない。
悲しみでもない。
――心臓が、ようやく自分の名を思い出しただけだった。
灰の降る音だけが、世界のすべてだった。
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