『勇者リリアとレベル999のモフモフぬいぐるみ』 Eden Force Stories I(第一部)

風間玲央

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『第二十話・3 : 女神さまと呼ばれた夜』

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黒い軍勢の最前列――
その一体が、わずかにこちらへと顔を向けた。

ギィ……と、錆びた関節が鳴る。

次の瞬間。

全ての視線が、こちらへ向いた。

ざわり、と空気が反転する。
焚き火の熱すら、ひと呼吸ぶんだけ凍りつく。

リリアは息を呑んだ。

「……気づかれた。」

黒い軍勢が一斉に槍を傾ける。
刃が、月光を吸い込むように鈍く光る。

その動きは乱れていなかった。
まるで、一つの巨大な生き物が、形を変えたかのように。

大地が低く震える。

最初の一歩が――踏み込まれた。

ドォン。

大地が、心臓を打った。

ブッくんの声は、かすれ切っていた。
「……あかんやつや、これ。
 本気で“殺しに来とる側”や……」

ワン太は、首をほんのわずかに傾けた。
炎の明かりをその瞳に映したまま。

……それだけで、世界の重心が揺れた。

黒い軍勢が、槍を揃えて前進する。
炎に照らされた甲冑が、波打つ闇の群れとなって押し寄せてくる。

その中で――

ワン太が、一歩だけ前に出た。

 ぽす。

その小さな足音が、大地ごと「基準」をずらした。

黒い軍勢の足並みが、かすかに揺らぐ。
いや、揺らいだのは足ではない。

“世界の認識”のほうだ。

ワン太は、ただ首をかしげただけ。
いつもの、眠そうで、のんびりとした仕草。

……それだけで充分だった。

黒い軍勢の最前列が、揃って――
「一歩、後ろへ」退く。

リリアは息を呑む。

(……威圧じゃない。
 力でも、魔力でもない。
 “存在の前提”が、書き換わってる……)

炎の明滅の中。
ただのぬいぐるみが、戦場の中心に立っていた。

それは――
「この世界のほうが間違っていた」と言わんばかりの光景だった。

リリアの胸に、ひとつ呼吸が落ちる。

(……今しかない。)

(――チャンスだ。)

(……ワン太が、道を開いた。)

その事実だけが、背中を押した。

リリアは剣を掲げる。
炎に照らされた瞳に、祈りが灯った。
その祈りは、恐れごと抱きしめて、静かに形を結ぶ。

「──闇に沈みし亡霊よ。
 血と怨嗟に縛られし者よ。
 その影はもはや人ならず、
 その嘆きはもはや天に届かず。

 ならば光に還れ。
 穢れを焼き、魂を解き放つ。
 星々の誓約に従い、
 我が刃は清浄をもって汝らを裁く──!」

リリアは一度だけ息を吸った。
胸の奥の“痛み”と“願い”が、ひとつに重なる。

剣先がぱあっと白銀の輝きを帯び、
炎の赤さえ呑み込むように街全体を光で満たしていく。
祈りが、刃に「形」を持った。

「──帰天照命《レディア・アポストル》」

それは滅びではなく、帰還だった。

放たれた瞬間、世界が呼吸を止めた。

それは殲滅ではない。
憎しみでも、力任せの破壊でもない。

――罪を祓い、魂を本来の座へ還す、“帰還の光”。

歴代の法王であっても、生涯に一度しか触れ得なかった秘儀。
その名を、今、リリア自身の声で呼び覚ました。

光は炎を押しのけるのではなく、
世界そのものの呼吸に滲むように降りた。

轟音とともに、閃光が奔流となって広場から四方へ駆け抜けた。
黒煙を裂き、瓦礫も炎も呑み込みながら押し広がる光の津波。

──だが、その光は“選んでいた”。

逃げ惑う人々に触れたそれは、刃ではなく、春の陽だまりだった。
泣きじゃくっていた子供は、頬に残る涙ごとそっと温められ、
老いた者の荒い咳も、光に撫でられるように静かに落ち着いていく。

焦げた皮膚には花弁のような痕が灯り、
乱れていた鼓動さえ、ゆるやかに整っていった。

だが、魔に堕ちた兵は違った。

ひび割れた仮面は、触れられた瞬間に音もなく崩れ、怨嗟は声になる前に光へと溶けていく。

叫びも苦痛もない。
ただ――存在の糸が静かにほどけていくだけ。

さっきまで広場を埋めていた“軍勢”は、もうどこにもいない。

ただ、光の余韻だけが、淡く空気に漂っていた。

黒煙が裂け、一瞬だけ夜明けの青がのぞく。
だが、それは朝ではない。
世界がほんの一瞬、“救いの色”を思い出しただけ。

そして――音が消えた。

風も、炎も、時間さえ息を止める。
“祈りが形を得た”ときにだけ訪れる、聖域の静けさだった。

「……おお……っ」

炎の中で逃げ惑っていた人々が、足を止める。
すすにまみれた顔で、震える声を上げた。

「……女神さまだ……!」

その言葉は、祈りでも歓喜でもなく――
ただ、静かな“事実”として降りた。

リリアだけが、炎と光の境目に立っていた。
その胸の奥には――静かな“ただ、役に立てた”という温度が灯っていた。

炎の揺らぎさえ、彼女を中心に呼吸しているように見えた。

誰も、否定しなかった。

ただ、リリアだけが。
胸の奥で、その重さを静かに受け止めていた。

肩が、かすかに震える。

それは恐れではない。
悲しみでもない。

――心臓が、ようやく自分の名を思い出しただけだった。

灰の降る音だけが、世界のすべてだった。
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