冤罪女の行く末

広川朔二

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冤罪を免れた男

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朝の通勤電車は、戦場だ。
いや、正確には“無言の戦場”とでも言おうか。誰もがスマホやイヤホンに逃げ、他人の存在を感じないふりをしながら、わずかな空間を奪い合っている。少しでも遅れれば、吊革一つ掴めない。少しでも距離を詰めなければ、押しつぶされる。

俺は、その戦場に毎朝同じ時間、同じ場所から参戦していた。七時三十八分発の急行、八両編成の三号車。駅の二つ目の柱の前に並べば、車両のドアがぴたりと開く。そうやって、決まった場所、決まった時間、決まった手順で毎日を過ごすのが、俺の“平穏”だった。

四十代、独身。特別高給でもなければ、極端に不幸でもない。課長昇進は同期の中で少し遅れたが、それも気にしていない。そうやって、できるだけ波風のない人生を歩いてきたつもりだった。

その日は、少しだけ並ぶのが遅れた。コンビニでコピー機の前に年配の女性が立ち尽くしていて、思わず声をかけてしまったのが原因だった。

「タッチパネル、こっちを押すんですよ」

お礼を言われて少し気分は良かったが、ホームに着いた時にはすでに列が膨らんでいて、いつもの場所には立てなかった。

結果、車内では吊革のない場所に押し込まれることになった。両手は自然と胸の前に浮き、バランスを取るのがやっとだった。いつもなら、吊革に手をかけて姿勢を安定させるのだが、この日はどうにも身動きが取れない。息苦しい空間に包まれながら、あと三駅。そう自分に言い聞かせていた、その時だった。

「……ちょっと、痴漢やめてもらえます?」

 女の声がした。すぐ目の前からだ。

一瞬、何のことかわからなかった。車内がざわつく。俺の視線の先にいたのは、女子大生風の若い女だった。長めのストレートヘア、無表情な目元。

彼女は俺の方を見て、明らかに“言ったのはあなたにです”という視線を投げてきた。

「は、え、俺……?」

言葉にならなかった。頭が真っ白になるとは、まさにこのことだった。

周囲の空気が変わる。誰かが少し身を引いた。スマホのカメラを向けている気配すら感じた。何か言わなければ、釈明しなければ——だが、何を?

「この人の手、ずっと見えてましたよ」

その声は、俺の斜め後から聞こえた。

振り向くと、三十代前半くらいの女性がこちらを見ていた。スーツに身を包み、目元には薄いアイシャドウ。落ち着いた雰囲気のその人は、はっきりと続けた。

「肩越しに見えてました。ずっと両手、前に出したままでしたよ」

車内に沈黙が落ちる。

女子大生は少しだけ眉をひそめたが、すぐに目をそらした。そして何も言わず、次の駅でスッと降りていった。謝罪も、説明も、何もなかった。

残された俺は、吊革に掴まったまま、その場に立ち尽くしていた。

助かった。そう思うと同時に、猛烈な怒りがこみ上げてきた。もしあの女性がいなければ、俺は警察に連れていかれていたかもしれない。会社は? 信用は? 積み上げてきた四十数年は?

すべて、一言で壊されるところだった。車内は再び、無言の戦場へと戻っていく。だが俺の中だけは、もう静かではいられなかった。

あれから、何週間が過ぎただろう。混雑した車内に立つたび、あの朝の感覚がよみがえる。吊革に掴まる手が汗ばむのも、今は恐怖からだった。人の体が少し触れただけで、ぎくりと身構える。視線を感じると、無意識に身を縮める。

平穏な日常に戻ったようで、戻れていなかった。

それでも人間は慣れるものだ。恐怖は薄れていき、心のどこかで「もうあんなことは二度と起きない」と思いたくなる。

そんなある朝だった。

珍しく座れた。たまたま席が一つ空いていたのだ。これだけで小さな幸福を感じられる自分を、少し滑稽に思いながらも足を軽く直した。

次の駅で数人の乗客が乗り込んでくる。ざわ、と小さな波が車内に立つ。

そして、耳に飛び込んできた。

「ちょっと、痴漢しないでください!」

反射的に顔を上げた。視線の先、立ち上がった声の主を見て、心臓が跳ねた。

——あの女だ。

間違いない。俺に冤罪を仕掛けた、あの女子大生風の女。今日は茶色いカーディガンに黒のロングスカート、髪はゆるく巻かれているが、あの冷えた目は同じだ。

彼女が掴んでいたのは、初老のサラリーマン風の男だった。地味なスーツにリュック、そして手には保冷バッグ。弁当でも入っているのだろうか。

「荷物を持った手で、どうやって痴漢するんだよ……」

男性は困惑しながらつぶやく。

「反対の手でやったんでしょ!」

女は食い下がる。だが、男性のもう片方の手には、ビジネスバッグが握られていた。

「持ち替えたのよ! そうやってごまかすんでしょ!」

強引すぎる主張。空気が凍りつく。誰もが思っている「これは、おかしい」と。

そのとき、一人の女性が声をあげた。

「私、この人の隣に立ってましたけど……鞄、持ち替えてませんよ。ずっと同じ手で持ってました」

静かな、しかしはっきりとした証言。それを聞いた瞬間、胸の内に何かが弾けた。

俺は、席を立って前に出た。

「おい、あんた……俺のこと、覚えてるよな?」

女が、はっとこちらを見る。その目には、わずかに動揺が走った。

「この前、俺にも痴漢をでっち上げてきたよな。証言してくれた人がいたから助かったけど……あのとき、俺は本当に人生を壊される寸前だったんだよ!」

女の口が動く。

「何のことよ、知らない」

「知らない? そんなはずないだろ! お前みたいなのがいるから、毎日電車に乗るのが怖くなるんだよ!」

そのとき、他の乗客が声を上げた。

「私も見たわ。あんた、前にこの人に痴漢って叫んだでしょ」

「俺も見たぞ。駅で降りた後、こそこそ逃げるように去ってったの」

次々にあがる声。数人が証言し始める。女の表情が崩れていく。

「うるさいっ! うるさいうるさいうるさい!!」

彼女は叫び、バッグを振り回しながら人の波をかき分けていった。次の駅で、電車が停まると同時に、逃げるようにホームへと駆け出していった。

残された車内には、重い沈黙が残る。

少し経って、近くの男性がぽつりと言った。

「……やり方が異常だ。あんなのがまた現れたら、誰も安心して乗れなくなる」

誰もがうなずいた。俺は、深く息を吐いた。少し震えていた。だがそれは、恐怖ではなかった。

怒りと、安堵と——そして、確かな「正義感」。冤罪をでっち上げる女は、そこにいた。もう二度と、あのときの自分のような思いを、他の誰かにさせてはならない。

あの騒動から数日が過ぎた。

冤罪女の姿は、それ以来、ぱったりと見かけなくなった。毎朝の通勤電車、いつもの場所、同じ時間。彼女がいたはずの空間はぽっかりと空いたままだ。

胸の奥に残るのは、妙な空虚さだった。

怒りはある。正義感も、ある。けれど、それ以上に、どこか引っかかるものがあった。

「なぜ、そんなことを繰り返していたのか?」

何か、追い詰められていたのか。単なる愉快犯なのか。真実はわからない。だが、わからないからこそ、消化しきれない感情だけが心に沈殿していく。

その日、仕事が遅くなった。クライアントの無茶ぶりに付き合わされ、会社を出たのは午後十時を過ぎていた。

終電にはまだ余裕があったが、気分的に混んだ駅前を歩きたくなくて、いつもと違うルートを選んだ。静かな住宅街の裏手を抜けると、街灯の少ない小さな公園がある。昼間は子供連れの姿がちらほら見えるが、今は静まり返っていた。

足を速めようとした、そのときだった。

「んっ……んむぅ……!」

微かなうめき声が聞こえた。

思わず足を止める。声は、公園奥の木陰からだ。薄暗い中に視線を凝らす。何かがもがくような気配。そして——人影。複数の。

「……なに、してるんだ……?」

息を呑んだ。

男が三人。女を押さえつけ、無理やり車に押し込もうとしていた。女の口にはガムテープ。声を上げられないようにされている。女の体は明らかに抵抗していた。細い腕が必死にもがく。目は恐怖に見開かれている。

咄嗟にスマートフォンを取り出した。警察に通報する。それが最善だ。震える指で画面を操作しようとした、そのとき。

女の顔が、街灯の下に晒された。

……あの女、だった。

あの、冤罪をでっち上げた女。

車内で冷たく笑い、人生を破壊しようとしたあの顔が、今、恐怖に歪んでいる。

指が止まる。

俺は、そのままスマホをそっとポケットに戻した。音も立てず、一歩、また一歩と、その場を離れる。

どこかで誰かが言ったセリフが、脳裏をよぎる。

——人の人生を壊す人間は、いつか自分の人生を壊される。

映画かドラマか小説か。はっきりとは思い出せないが、俺は公園を抜け、遠ざかる。背後の物音が、次第に小さくなっていった。

翌日。

あの三人と冤罪女がどうなったか気になり、再びその公園の前を通ると、数人の警官が聞き込みをしていた。

「この女性、行方不明でしてね。最後の目撃が近くのコンビニの防犯カメラに映ってたんです。なにか見ませんでしたか?」

俺は、一瞬だけ視線を落とし、そして穏やかに答えた。

「いえ、知らないですね」

警官は礼を言い、別の通行人に声をかけた。

その背中を見送りながら、俺はふっと小さく息を吐いた。

胸の奥が、不思議と軽かった。

自分は正義の味方じゃない。英雄でもない。ただ、壊されそうになった日常を守るために、何かを選んだだけだ。

そう思えた。





春が、近づいてきていた。

駅のホームに差し込む朝日が、少しずつ柔らかくなっている。分厚いコートの人も減り、窓の外には沈丁花の香りが漂い始めた。

あれから、一ヶ月。

あの女の姿を、再び見ることはなかった。公園での事件の報道も、結局ニュースでは扱われず、ネットにも情報は流れなかった。

ただひとつ、近所の掲示板に貼られていた。

【○○大学○年生・◯◯◯◯さん行方不明 目撃情報をお寄せください】

学生証の写真だろう。あの、女の顔だった。俺はその前を通り過ぎるだけだった。特別、何も思わなかった。いや、正確には何も“言わない”ことを選んだ、という方が近いか。

あの日を境に、通勤電車が少しだけ怖くなくなった。吊革に掴まる手も、必要以上に緊張しなくなった。人の視線が気にならなくなったわけじゃないが、あのときのような無力感はない。

変わったのは、他人ではなく、自分だった。

人の善意に救われ、人の悪意に晒され、そして最終的には、自分の選択で日常を守った。

あの朝、車内で声を上げた瞬間のことは、今もよく覚えている。あれがなければ、きっと俺はずっと“見て見ぬふり”をするだけの人間のままだったかもしれない。

正義なんてものは、立場や状況でいくらでも形を変える。けれど、俺にとっての“正しさ”は、あのとき確かにあった。

「ま、あの夜に見て見ぬふりはしたけどさ」

電車が駅に滑り込む。いつものように混み合う朝のラッシュ。けれど、今の俺は怯えていない。静かに立ち、吊革に手をかける。そのとき、隣にいた女性が軽く咳払いをした。ふと目が合う。

「おはようございます」

彼女は、以前助け舟を出してくれた、あの女性だった。

「あ……どうも。あのときは……本当にありがとうございました」

「あのとき……? ああ、覚えてますよ。あんな騒ぎ、忘れられませんから」

彼女は少し笑った。そして、もう一度、ぽつりと呟く。

「変な人、多いですからね…。でも私が声を上げて誰かの為になったんだとしたらよかったです。あんなの許せませんから」

それだけ言って、彼女は次の駅で降りていった。

俺はその言葉を胸の中で繰り返しながら、今日も会社へ向かう。仕事は相変わらず、忙しくて、理不尽で、報われない。

でも、今の俺にはひとつだけ、確かに言えることがある。

今日も、“ちゃんとした日常”がここにある。
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