冤罪女の行く末

広川朔二

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冤罪女と冤罪男

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なんか、最近、面白いことないなぁ。

キャンパスは秋の終わりの気だるさに包まれて、講義も、課題も、友達とのおしゃべりも、すべてが薄っぺらくて退屈だった。インスタに載せるカフェの写真も、ストーリーで回す誰かの悪口も、もう何周したかわからない。

スリルが欲しい。

心臓がドクッと鳴るような、あの瞬間が。

あたしがまだ高校生だった頃の話を、ふと思い出した。駅のホーム、人混みのなかでスマホをいじっていたら、不意に肩をぶつけられた。よろけた拍子に、男が振り返ってこう言った。

「どこ見て歩いてんだよ。あぶねぇな」

その一言がムカついた。無意識に、でも確信的に、あたしは叫んだ。

「この人、痴漢です!」

演技なんて大げさにする必要はなかった。泣き真似すら不要。周囲の視線が一気に男に集中し、駅員がすっ飛んできて、あたしの勝ちだった。あの瞬間の快感は、忘れられない。

自分が世界を支配しているようなあの感覚。あたしは正義だった。【悪を裁いた少女】。その聴き触りのいい事実を誰も疑わなかった。

「そうだ、あの時みたいな感じをもう一回…」

それからは不必要に朝の通勤ラッシュの電車に乗った。それでも一向に痴漢にはあわなかった。むしろ男の人は私を避けるように背を向けてくる。

——なによ、つまらないわね。

既成事実があれば大手を振って裁きを下せたのに。でもそれならでっち上げて騒げばいいだけ。簡単なこと。

そう思ってそれから、何度か試した。

満員電車で「触らないでください」って声に出してみたり、大げさに「きゃっ」って声を出したり。

でも上手くいかなかった。

「この人の手、こっちに向いてましたよ」
「両手が塞がっているのにどうやって痴漢するんだよ」
「え、その人ずっと手すりを掴んでましたよ」

周囲の空気が冷たくて、時には睨み返されることすらあった。それに思った以上に女の人からの妨害が多かった。私は女性の代表として悪いおじさん達を成敗しようとしているだけなのに。

ある日のことだった。

「この前、俺にも痴漢をでっち上げてきたよな。証言してくれた人がいたから助かったけど……あのとき、俺は本当に人生を壊される寸前だったんだよ!」

そう文句を言ってきたおじさんを皮切りに周りの人たちが口々にあたしを責める。

何よ、何よ、何よ!

その場は何とか逃げたけど、それからしばらくはおとなしくしてた。

でも、あたしは知ってる。あの“快感”が、どこかにまだ転がってるって。正義のふりをして、誰かを壊す。やられる前にやる。それだけ。

平凡な日常の下に、そういう“裏”の顔があるって、あたしだけが知ってる。

そう思うと、またゾクゾクしてくるのだ。

冬のある日、講義の帰りに、友達数人と新しくできたカフェでスイーツを食べた。映える内装、甘ったるいドリンク。会話の中身なんて、どうでもよかった。

「じゃあ、また明日ね」

いつの間にか陽が落ち、友達と明るく手を振って別れたあと、ふと思った。

このまま真っ直ぐ帰るの、なんかつまんない。

繁華街まで電車で言ってナンパやキャッチに暴言を吐いて追い返す。でも駄目だ。あの時のような快感は得られない。でもいつの間にか終電近くになっていたので家路につくことにした。

歩き慣れた駅前の道から外れ、あたしは裏通りへ足を向けた。住宅街の外れ、雑草の生えたフェンス沿いの歩道。人気のないその道は、ママから「危ないからやめなさい」って何度も言われてたけど、そんなの関係ない。

むしろ、こういう場所のほうが“演じやすい”。何かあれば「痴漢!助けてください!」って叫べば、どうせ誰かが来てくれる。そう、あたしは“被害者”になる準備ができている。

バッグからスマホを取り出し、画面を見ながら歩くふり。でも誰ともすれ違わない。拍子抜けするほど平穏な空気。仕方ないけど家に帰ろうと公園を一人で歩いているときだった。

背後から、何かが覆いかぶさってきた。

「——っ!?」

口をふさがれ、息が詰まる。
冷たい感触、粘着質な圧迫。ガムテープ。
恐怖で身体が硬直する。

もがく間もなく、腕を後ろにねじられ、引きずられるようにして公園の裏手に停められた車へ押し込まれる。

必死に抵抗していると視界の端に、誰かのスマホの光が見えた気がした。

物陰から誰かが見ていた。——通報されるはず。

大丈夫、こんなのすぐに警察が来てくれる。
だから、今は静かにしておこう。

車内には、無言のまま運転する男と、その隣で缶コーヒーを啜っている別の男。それに私を見張る男。言葉はない。ラジオも音楽もかかっていない。

ただエンジン音だけが響いている。

一時間?それとももっと?どれだけ時間が経ったのか、わからなかった。やがて車は山間の細い道を抜け、鬱蒼とした林の奥に入っていく。外灯もない。世界から切り離されたような感覚。

あたしの中で、何かがゆっくりと軋み始めた。

“……おかしい。警察は?誰も来ないの?さっき誰か見てたじゃない!”

そして、車は止まった。

「降りろ」

荒い声。腕を引っ張られ、強制的に外へ。

森の奥、ぬかるんだ地面に足を取られながら、あたしは引きずられるようにして歩かされた。月明かりだけが頼りの中、男たちの影が長く伸びていた。

森の中少し開けた場所に着くと、三人のうち一人が、帽子とサングラスを外した。

一瞬、記憶がフラッシュバックする。

——あのおじさんだ。

あたしが“成敗”した、あの男。

「久しぶりだな……覚えてるか?」

私を睨みつけるその瞳は、底知れない闇を孕んでいた。

「覚えてねぇか。まあ、いいさ。こっちは、一生忘れられねぇからな。俺、お前のせいで、人生終わったよ。会社も首、家族にも捨てられた。ニュースになって、ネットに晒されて……今じゃ、俺の名前を検索すれば“痴漢”って出てくる。——全部、お前のウソのせいでな」

黙っていた。
答えられなかった。

あのときは、ただの気まぐれだった。
目障りな中年男に一泡吹かせてやっただけ。
あんなことで、ここまで追い詰められていたなんて……知るわけがなかった。

「“冤罪”で人生潰されたヤツらの気持ち、今からゆっくり教えてやるよ」

ばちん。

乾いた音が夜に響いた。頬が熱い。目の奥がぐらりと揺れる。殴られた。現実感が薄れ、足元がふらついた。

もう一発。さらにもう一発。痛みの中で、怒りの声が重なって聞こえる。

「何様のつもりだったんだ、お前はよォ……!」

両手両足を縛られた私が地面に倒れても尚、馬乗りになって私を殴るおじさんの瞳は真っ暗でとても恐ろしかった。

土の匂い、冷たい夜気。
頬から流れるのは、血か、涙か、もうわからない。

「もうやめろ。その辺で気が済んだだろ」

一人が、おじさんを制止する。ようやく終わった。……そう思った。

だが次の瞬間、背後から別の声が上がる。

「俺たちにも楽しませてくれるって話だったろ?」

空気が、変わった。

“このままじゃ、済まされない”。

どこかで聞いたようなセリフ、冗談まじりの悪意。だけど今、あたしはその悪意の真正面にいた。

逃げようにも、体は動かせない。息を整えたおじさんが私を見下している。

「…まさか犯されるとでも思ったか?安心しろよ。お前みたいなクズにはそんな価値すらねぇよ」

言葉も出せないまま、あたしは地面に押し付けられた。

——どれくらい時間が経ったのか。

「俺さ、冤罪かけられて会社クビになってよ。今は害虫駆除の会社で働いてんだよ。結構楽しくってよ。虫は服なんて着ねぇだろ」

目の前で、脱がされた服が燃やされている。ひとりの男が、ライターで袖口に火をつけていた。

にやりと笑うその顔に、異様な冷たさがあった。彼の手には、大きな鉄のハンマーが握られていた。工事現場で見るような、重くて鈍い工具。

「やっぱ、害虫は駆除しなきゃな」

振りかぶられたその瞬間——あたしの視界が、ぐらりと歪む。

音も、色も、感覚も、遠のいていく。

真っ黒な夜に沈むようにして、意識が、途切れた。





あの日から彼女は、姿を消した。

二月初旬の凍える夜。
大学の友人と遊んで、「じゃあ、また明日ね」と手を振って別れたのが最後の目撃だった。

通っていた女子大では、最初の数日はざわつきがあった。
「もしかして事件じゃない?」
「いや、また家出でしょ」
そんな噂が飛び交い、SNSには“行方不明”の文字が並んだ。

警察も一応は動いた。家族からの届け出があった以上、無視はできなかった。だが調べが進むにつれ、微妙な空気が漂い始めた。

「どうやら、素行に問題があったようです」
「以前にも、似たようなことで……」
「もしかすると、自作自演で誰かを……」

そう囁かれるようになると、世間の興味は急速に冷めていった。“痴漢冤罪を面白がって演じていた”という裏アカウントのスクリーンショットが、誰かの手で拡散された。決定的な証拠ではないが、十分だった。

ネットの反応は冷酷だった。

「自業自得」
「正義ヅラしてるやつが一番やべー」

一週間も経たないうちに、捜索願の話題はネットから消えた。大学の掲示板には、誰が貼ったのかもわからないビラが数日だけ残り、やがて剥がされて消えた。

月日は過ぎていく。
夏が来て、秋が過ぎ、冬の気配が街に落ちる頃には、彼女の名前を口にする者は誰もいなくなっていた。

ただ一度だけ、地元のローカルニュースで、こう報じられた。

「都内で行方不明になっていた女子大学生について、新たな手がかりは得られておらず、警察は引き続き情報提供を呼びかけています。なお、本人の交友関係や家庭環境に特段の問題は確認されておらず、現段階では“自発的な失踪”の可能性もあるとしています」

画面の端に映ったのは、笑顔の証明写真。画質は荒く、色褪せていた。

だがその瞳の奥に、何かが見えた気がした。

それは、かつての彼女自身も気づいていなかった“闇”かもしれない。

あるいは、仄暗い井戸の底から、じっとこちらを見つめる、何かの残り火だったのかもしれない。
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