自由に下された正義

広川朔二

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自由に下された正義

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とある地方の古寺に、午後の光が差し込んでいた。
観光客のざわめきと、遠くから聞こえる鳥のさえずり。いつもの風景だ。ただし今日だけは、何かが異質だった。

境内の石灯籠のそばに、背の高い白人の青年が立っていた。キャップを後ろにかぶり、サングラスをかけたその男は、スマートフォンを片手にもう一方の手でスプレー缶を振っている。

「Yo, Japanese temple art! New design by me!(俺の新しいデザイン、見てくれよ!)」

笑いながら放ったその言葉とともに、彼は石灯籠の側面に派手な蛍光ピンクで英語の文字を描いた。

“FREEDOM > TRADITION”

あっという間だった。誰もが一瞬、何をしているのか理解できなかった。ただ、男の隣で動画を撮っていた金髪の女が「That’s soooo cool!」と歓声を上げたとき、初めてそれが“事件”であることに気づいた者もいた。

しばらくして、男はスマートフォンに向かって動画を撮り始めた。

「This is how you leave a mark in history, folks. Japan, you’re welcome! Hashtag freedom art.(これが歴史に名を残すってことだよ、日本。ハッシュタグ自由のアート!)」

そして満足そうに投稿ボタンを押した。





その日の夜、田嶋真一は自宅のリビングで、何気なくSNSのタイムラインを眺めていた。いつものように猫動画とグルメ写真が流れてくる中、突然一つの動画が目に止まった。

《@matttrave!s:What I just pulled off at an old Japanese shrine today lol(今日、日本の古い神社で俺がやってやったことwww)》

再生すると、見覚えのある石灯籠と、信じられない光景。まさにあの場所。数週間前、自分が清掃ボランティアとして掃除を手伝ったばかりの境内だ。

「は……?」

声が出た。真一の指が震えた。冗談だと思いたかったが、映像は本物で、そこには誰の目にも明らかな「落書き」が刻まれていた。

コメント欄にはすでに怒りの声が溢れている。

「文化財に落書き?マジかよ」
「警察動けよ」
「また外国人かよ」

いいね数はみるみるうちに増えていき、共有されたリンクは各種まとめサイトにも転載され始めていた。
ただ、不思議なほどに本人は気にしていないようだった。フォロワー数が増えたのが嬉しいのか、動画のコメントには「もっと自由に!」という言葉さえ並べていた。

真一は背筋に冷たいものを感じながら、スマホを置いた。これは、ただの愚行では済まされない。文化に泥を塗るということが、どういう意味を持つのか。

だがこの時、あの外国人はまだ知らなかった。
ネットという名の見えない群衆が、ゆっくりとその男に牙を剥こうとしていることを——。




翌朝、目覚めた田嶋真一がSNSを開くと、昨夜の投稿はもはや“事件”へと変貌していた。

《#文化財への落書き》《#観光客モラル問題》《#日本なめすぎ》
トレンド入りしたワードがスクリーンに並ぶ。テレビ局のアカウントまでが「詳細確認中」とツイートしていた。

「速いな……」

思わず呟いた真一の脳裏に、あのスプレー缶の音が蘇る。動画のコメント欄は爆発的な勢いで伸び続けていた。

「自分の国で同じことしてみろよ」
「こいつ名前も顔も出してるじゃん。捕まらないのか?」
「文化に敬意を払えない奴は観光に来るな」

中には冷静を装う者もいたが、圧倒的多数が怒りと嘲りを織り交ぜた感情で溢れていた。特定班と呼ばれるネットユーザーたちは、既に動き始めていた。

「背景に映ってるこのポスター、◯◯ホテルのやつじゃね?」
「窓の形と照明、地図で一致確認。ここだわ」
「宿泊者名簿までは無理だけど、これはもう時間の問題」

匿名のアイコンが次々に「証拠」を積み上げ、拡散されていく。SNSの海は怒れる“正義”の波で荒れていた。

一方その頃、当の本人である@matttrave!s──マットは、東京・渋谷のカフェでパンケーキを頬張りながらライブ配信をしていた。

「Yo guys, I’m trending in Japan. I think I’m famous now!(やべー、日本でバズってる俺!もう有名人ってやつじゃね?)」

サングラス越しの目は笑っていた。フォロワー数は一晩で三万人増え、コメントは英語と日本語が入り混じっていた。

「You’re disgusting.(お前最低だな)」
「文化を侮辱するな」
「Don’t come back to Japan.(二度と日本に来るな)」

それでも彼は意に介さない。むしろ注目を浴びていることに酔っているようだった。

「Man, this country is so serious about rocks. Chill out.(ったく、この国は石ごときで大騒ぎしすぎだろ。落ち着けっての。)」

画面の向こうで、ある日本人ユーザーがつぶやいた。
《まだ笑ってられるの、今のうちだけだぞ》

警察は記者からの取材に対し、「状況を確認中。関係機関と連携して対応を検討中です」とコメントを出した。
文化財保護法違反の可能性があるにもかかわらず、その動きは鈍かった。メディアは慎重だった。外国人旅行者に対する「過度なバッシング」にならないよう、言葉を選びながら報じていた。

だが、ネットは違った。
何かを守るためではなく、誰かを追い詰めるために動いていた。

夜、再び真一は動画を見返した。あのピンクの文字は、削れば消えるものではない。そこに刻まれた「無理解」や「嘲笑」までもが、石の肌に染み込んでいた。

スマホに通知が走る。

《これってあの落書き外国人じゃない? 今日、原宿で見たかも》

その投稿には、ぼやけた写真とともに“それらしき男”が写っていた。サングラスに白いTシャツ、スマホを構えて笑っている。

真一は、静かにスマホを伏せた。
これは、誰かが止めなければならないかもしれない。
いや、もう止まらないのかもしれない——。




原宿の竹下通りにて、再び“彼”は姿を現した。

白いTシャツにサングラス、相変わらずスマートフォンを片手に動画の撮影中だ。再びSNSにアップロードするつもりなのか、それともただの思い出なのか。彼がスマートフォンをかざすその姿を捉えた投稿は瞬く間に拡散され、コメント欄には次々と「今、ここにいるぞ」の情報が寄せられた。

「駅の改札口に向かってる」
「黒いバックパック、目印にして」
「直接話しかけるのはやめろよ」

まるで捜査本部のような空気が、匿名の掲示板に漂っていた。

最初の異変は、小さな「違和感」として現れた。
マットが入店したカフェの店員が、注文を受けるときにやけに目を逸らした。周囲の客が、小声でヒソヒソと話していた。外国語がわからないはずなのに、なぜか敵意だけは伝わってくる。

続いて、カウンターテーブルの上に置かれていたアイスラテを彼が飲もうとすると、隣の席の男が席を立つときに少しよろめいた。軽く体が触れただけだが、少しだけアイスラテがこぼれて白いTシャツに目立つシミが出来る。

「Damn it!(くそっ!)」

マットが眉をひそめるも隣の男はそれに気が付かないのか店を後にしてしまった。不快な気持ちでアイスラテを一気に飲み干したマットが席を立つとき、後ろを通った別の客が小さく呟いた。「Serves you right(当然の報いだな)」と。

彼が泊まっていたホステルにも、変化は訪れた。夜になると、フロントに無言電話が頻繁にかかるようになった。チェックアウトの時には、「文化財にスプレーを吹いた人に宿を貸すんですね」と書かれた張り紙がエントランスに貼られていた。

宿の責任者は明言こそ避けたが、彼にこう言った。

「……次の宿を、早めに探してください」

マットはようやく、自身の身に何が起きているのかを理解し始めた。

「They’re following me. I don’t know who, but they are.(誰かが……つけてきてる。誰かはわからないけど、確実に、誰かが。)」

疲れ果てた顔で語るその様子を、自らライブ配信してしまうあたり、彼の感覚はまだどこかズレていた。

コメント欄は荒れていた。

「自業自得だろ」
「文化を壊して笑ってたくせに、何が『怖い』だ」
「罰が当たったんだよ」

マットの様子に憤慨したのか、匿名のアカウントが現れた。その内容はマットを隠し撮りした画像だった。これまでSNSに投稿されていたものの一部だが、自分が多くの人に監視されているなど知らぬマットには恐怖でしかなかった。

「謝罪文がなければ、次の映像を公開する」
「今ならまだ、国に帰れる可能性がある」
「選べ、お前の未来を」

ホテルをチャックアウトしたマットが逃げ込んだネットカフェ。そこでも何者かが行動をおこした。マットが借りているブースに一枚の紙が差し込まれた。そこには手書きのURLが記載されている。

恐る恐るそのURLをパソコンに打ち込んだマットは恐怖で嗚咽した。

そこには、彼の行動を遠巻きに撮影した無数の静止画と動画──
コンビニで買い物をする姿、駅のホームで立ち尽くす姿、誰かとすれ違ったときに一瞬見せた不安そうな表情までもが、克明に記録されていた。

そして数日後、空港での動画がネットに投稿された。

「Please, I just want to leave. I didn’t know it was that serious... I’m sorry...(お願いだから帰らせてくれ……こんなに大ごとになるなんて思ってなかったんだ……本当に、ごめんなさい……)」

日本語と英語を取り混ぜた謝罪。だが、背景には検査官に取り囲まれる姿が映っていた。まったくの濡れ衣だが、彼がテロを起こすつもりだという匿名での通報があったのだ。




画面越しにそれを見つめる田嶋真一の手には、何の力も残っていなかった。怒りはとっくに消えていた。残っているのは、深い疲労感と、何か大きなものが動いたという実感だけだった。

「正義って……こういうことか?」

誰にともなく呟いた言葉は、部屋の静寂に溶けて消えた。




数週間後。
あれだけ熱狂していた“文化財落書き事件”は、世間の記憶から急速に消えつつあった。

テレビは連日別の話題を追い、SNSは新たな「叩き対象」を見つけて盛り上がっていた。かつてトレンドに居座り続けた「#マット国外追放」「#文化財を守れ」のタグも、今ではほとんど検索されない。

マット・ジェンキンス──。

彼はついに帰国できた。日本の警察による事情聴取、宿泊先での強制退去、ネット上の断罪と現実の嫌がらせに晒された彼は、かつての無邪気な観光客ではなかった。

地元メディアはこの騒動を小さく報じ、「SNSの軽率な投稿が引き起こしたトラブル」とだけ記した。だが、ネットで彼の顔写真が再利用されるたび、彼は新たな敵意を受け取った。自ら全てのSNSのアカウントを削除したマットに唯一残ったのは、削除不能な動画の断片と、それを観て冷笑する他人たちの視線だった。

田嶋真一は、その後も何度か例の神社を訪れた。ピンク色のスプレー跡は業者の手でなんとか薄くなっていたが、石材にはまだかすかに色が残っていた。

「完全には消せませんね。吸い込んじゃってるから」

作業員が苦笑しながら言った言葉が、やけに重く響いた。

その足で立ち寄った蕎麦屋で、隣席の高校生たちが新たな炎上騒動について話していた。

「今度は電車の中で踊ってた外国人らしいよ」
「またかよ。懲りねーな」

真一は、箸を置いた。

あのときの怒りは正しかったのか。誰が間違っていたのか。マットのあの顔が、今もふとまぶたの裏に浮かぶ。

哀れみではない。ただ、後味の悪い“片付けられ方”が、胸の奥に鉛のように沈んでいた。

そして、夜。
とある掲示板に、新たなスレッドが立つ。

《この動画のヤツ、またやらかしてない?》
《駅の柱に落書き、笑いながらSNSに上げてた。顔も映ってる》
《よし、行くか。次のターゲットだ》

何も変わらない。誰も変わらない。

ネットの群衆は、静かにまた一人、新たな“正義の対象”を選び始めていた。

闇の中に浮かび上がるスマホの光だけが、やけに冷たかった。
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