恋は、母をやめてから始まる――正体を隠したまま、仮の婚約者になりました

あい

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第十一話 夜の練習室

舞踏会を控え、練習の夜が続いていた。

広い室内に灯るのは、壁際のランプだけだ。
楽団はいない。
あるのは、床を踏む音と、衣擦れの微かな響きだけ。

ノクスが差し出した手を、アリアは迷いなく取った。

「……では、始めましょうか」

「はい」

足を運び、身体を預ける。
最初の一歩から、動きは驚くほど滑らかだった。

ノクスは、無意識に視線を落とす。

——合う。

合わせようとしなくても、自然に噛み合う。
型をなぞるだけではない、流れのある動き。

「……お上手ですね」

思わず、そんな言葉がこぼれた。

アリアは一瞬だけ驚いたように目を瞬かせ、それから短く答えた。

「そう、ですか」

それ以上は語らない。
だが、彼女の身体は知っているようだった。
リズムも、間も、重心の移し方も。



かつて。

名家の娘として、デビュタントを控えていたエリーゼ。
教師や父を相手に、何度も何度も練習を重ねていた。

エリーゼは、特別な少女ではなかった。
ダンスが好きで、
デビュタントの日を心から楽しみにしている、ごく普通の女の子だった。

だが、両親の死が、すべてを変えてしまった。



それからの日々。

弟を育て、生活に追われる中で、
夜、ふとした拍子に身体が覚えている動きを思い出す。

音楽はない。
相手もいない。

ただ、一人で踊る。

それは懐かしさからでも、未練からでもなかった。
——誰かと踊れたらいいな、という、
デビュタントに出られなかったエリーゼの静かな願いだった。



今。

ノクスの腕の中で、
その願いが思いがけず形になっていた。

アリアの口元がふと緩む。

気づけば微笑んでいた。

「……楽しいです」

小さく、こぼれる声。

ノクスは、足を止めそうになりながらも動きを続けた。

今まで、数えきれないほど女性と踊ってきた。
社交の場で。
契約の席で。

だが、そこに感情はなかった。

(……こんな気持ちは、初めてだな)

視線が、思わず彼女の顔に留まる。

笑っている。
心から楽しそうに。

その表情から、目を離せなかった。



遠くで、鐘が鳴った。

「……そろそろ、家に送ります」

名残惜しそうに、ノクスが言う。

アリアは一瞬、躊躇ってから、顔を上げた。

「……もう少し、踊ってもいいですか」

わがまま、と言えるほどの言葉だった。

ノクスは、ほんのわずかに目を見開き、
それから、静かに頷く。

「ええ」

「構いません」

再び、音のない練習が始まる。

二人の足音だけが、夜の室内に重なっていった。

——この時間が、少しでも長く続けばいいと、
二人とも、同じことを思いながら。

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