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第一話 三年目の離婚
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「ルート、離婚しましょう」
その言葉は、ひどく静かだった。
夕刻の執務室。
窓の外には、沈みかけた光が淡く残り、赤みを帯びた空が長く伸びている。
磨き上げられた床に影が落ち、その中央に二人は向かい合って立っていた。
ルートヴィッヒは書類から顔を上げる。
驚きはない。
だが、その銀色の瞳は、真っ直ぐに彼女を射抜いた。
「……三年目、か」
低く、抑えた声。
この国の制度。
ーー三年、子ができなければ、無条件で離婚できる。
王国法第七条。
貴族の家が跡継ぎを得られなかった場合、円満に婚姻を解消するための条文。
だが実際には、多くの妻がその条文によって、屋敷を後にせざるを得なかった。
今日は違う。
「私から使うわ」
オーレリアは、迷いなく言った。
ルートヴィッヒの指が、書類の上でわずかに止まる。
「理由は?」
その問いは簡潔だった。
「商売がしたいの」
「……屋敷では不可能か?」
「できない」
即答だった。
オーレリアは自分のドレスの裾をつまむ。
重たい絹が、指の間で鈍く光る。
「パーティーで、私は飾りなの」
脳裏に浮かぶ。
煌びやかな広間。
揺れる燭台の炎。
貴族たちの笑い声。
グラスの音。
「あなたの隣で、私は飾りみたいに立っているだけ」
ルートヴィッヒの眉が、わずかに動いた。
「それが、不満か」
「違うわ」
オーレリアは静かに首を振る。
「あなたの隣が嫌なんじゃない」
胸の奥に積もっていた言葉が、ゆっくりと形になる。
「でも、私は“飾り”じゃない」
声は震えていなかった。
「女性が、公の場で立てる服が欲しいの」
ルートヴィッヒは何も言わず、ただ聞いている。
「会議室に入れる服。
書類を抱えられる服。
椅子に深く座れて、走れて、机に身を乗り出せる服」
今の装いでは、それができない。
ブラウスに重たいスカート。
外出には厚手のケープ。
美しいけれど動きを奪う。
「女性が、公の場で立てる服を作りたいの」
静かに言い切る。
執務室に沈黙が落ちる。
やがてルートヴィッヒは立ち上がり、窓辺へ歩いた。
夕暮れの光が横顔を縁取る。
「制度を使う以上、止める理由はない」
それだけだった。
机へ戻り、ペンを取る。
さらり、と音を立てて署名が走る。
その筆致に迷いはない。
オーレリアは深く一礼した。
彼は引き止めなかった。
その静かな終わりだけが、そこにあった。
⸻
数ヶ月後。
町の一角に、小さな仕立て屋が生まれる。
――オーレリア・テイラーズ。
“元公爵夫人”。
その肩書きは、最初の客を連れてきた。
好奇心。
噂。
物珍しさ。
だが、二度目の来店は違った。
彼女が仕立てたのは、男性の正装を思わせる端正な上衣だった。
直線的な裁断に、女性の身体に沿う柔らかな曲線を加えた一着。
硬すぎず、だが格式は失わない。
王国の礼節に馴染む、洗練された仕立て。
「動きやすい」
「疲れない」
「長時間着ても苦しくない」
声が、静かに広がっていく。
やがて彼女が本当に作りたかった服が、認知され始める。
教師のための上衣。
女性書記のための実務服。
式典に立てるが、動ける衣装。
“女性が立てる服”。
それは、ただの流行ではなかった。
売上は伸び、注文は増え、
夜遅くまで店の灯りは消えない。
針を動かすたび、胸に確かな誇りが満ちていった。
⸻
その夜、雨が降っていた。
激しく、重く、途切れることなく。
店の奥で仕上げをしていると、卓上の通信機が鳴った。
オーレリアは手を止め、受話器を取る。
「オーレリア・テイラーズです」
「依頼していた服だが、急遽、明日の式典に必要になった。今夜中に届けてほしい」
低く切迫した声。
それは王女が着る正装だった。
王族の式典。
オーレリアの名が、正式な記録に刻まれる日になるかもしれない。
雨脚はさらに強くなっていた。
窓を打つ水滴が夜を歪ませる。
胸の奥に不安がわずかに生まれる。
けれど。
(気をつければ大丈夫)
丁寧に布を包み、マントを羽織る。
外に出ると、石畳は黒く光り、街灯が滲んでいた。
雨は冷たく、視界を曇らせる。
式典会場へ向かう近道の路地へ入った、そのときだった。
振り向く間もなく、視界の端に巨大な影が揺れた。
馬車だ。
濡れた石畳に車輪が取られ、制御を失った馬車がオーレリアに向かってきた。
次の瞬間、強烈な衝撃が全身を貫いた。
視界がぐるりと反転し、空と石畳が入れ替わる。
息が、できない。
開いた唇に、容赦なく雨が打ちつける。
(まだ、届けていない)
震える指先が、わずかに動く。
だが身体は重く、石畳に縫い止められたように動かない。
雨音が、ゆっくりと遠ざかっていく。
世界の輪郭が滲む。
冷たい闇が確実に覆いかぶさってくる。
オーレリアの意識は静かに遠のいていった。
⸻
――目を開けると、見慣れた天井が視界いっぱいに広がっていた。
木の梁。
薄いカーテン越しに差し込む朝の光。
廊下から、足音が近づいてくる。
そして。
「オーレリア、起きてる?」
その声を聞いた瞬間、心臓が強く跳ねた。
母の声。
亡くなったはずの母の声。
喉の奥がひくりと震える。
呼吸が浅くなる。
ゆっくりと自分の頬に触れる。
温かい。
確かな体温。
鼓動が胸の奥で刻まれている。
夢ではない。
生きている。
(どういうこと……? 私……生きているの?)
二度目の人生。
物語はもう一度始まる。
その言葉は、ひどく静かだった。
夕刻の執務室。
窓の外には、沈みかけた光が淡く残り、赤みを帯びた空が長く伸びている。
磨き上げられた床に影が落ち、その中央に二人は向かい合って立っていた。
ルートヴィッヒは書類から顔を上げる。
驚きはない。
だが、その銀色の瞳は、真っ直ぐに彼女を射抜いた。
「……三年目、か」
低く、抑えた声。
この国の制度。
ーー三年、子ができなければ、無条件で離婚できる。
王国法第七条。
貴族の家が跡継ぎを得られなかった場合、円満に婚姻を解消するための条文。
だが実際には、多くの妻がその条文によって、屋敷を後にせざるを得なかった。
今日は違う。
「私から使うわ」
オーレリアは、迷いなく言った。
ルートヴィッヒの指が、書類の上でわずかに止まる。
「理由は?」
その問いは簡潔だった。
「商売がしたいの」
「……屋敷では不可能か?」
「できない」
即答だった。
オーレリアは自分のドレスの裾をつまむ。
重たい絹が、指の間で鈍く光る。
「パーティーで、私は飾りなの」
脳裏に浮かぶ。
煌びやかな広間。
揺れる燭台の炎。
貴族たちの笑い声。
グラスの音。
「あなたの隣で、私は飾りみたいに立っているだけ」
ルートヴィッヒの眉が、わずかに動いた。
「それが、不満か」
「違うわ」
オーレリアは静かに首を振る。
「あなたの隣が嫌なんじゃない」
胸の奥に積もっていた言葉が、ゆっくりと形になる。
「でも、私は“飾り”じゃない」
声は震えていなかった。
「女性が、公の場で立てる服が欲しいの」
ルートヴィッヒは何も言わず、ただ聞いている。
「会議室に入れる服。
書類を抱えられる服。
椅子に深く座れて、走れて、机に身を乗り出せる服」
今の装いでは、それができない。
ブラウスに重たいスカート。
外出には厚手のケープ。
美しいけれど動きを奪う。
「女性が、公の場で立てる服を作りたいの」
静かに言い切る。
執務室に沈黙が落ちる。
やがてルートヴィッヒは立ち上がり、窓辺へ歩いた。
夕暮れの光が横顔を縁取る。
「制度を使う以上、止める理由はない」
それだけだった。
机へ戻り、ペンを取る。
さらり、と音を立てて署名が走る。
その筆致に迷いはない。
オーレリアは深く一礼した。
彼は引き止めなかった。
その静かな終わりだけが、そこにあった。
⸻
数ヶ月後。
町の一角に、小さな仕立て屋が生まれる。
――オーレリア・テイラーズ。
“元公爵夫人”。
その肩書きは、最初の客を連れてきた。
好奇心。
噂。
物珍しさ。
だが、二度目の来店は違った。
彼女が仕立てたのは、男性の正装を思わせる端正な上衣だった。
直線的な裁断に、女性の身体に沿う柔らかな曲線を加えた一着。
硬すぎず、だが格式は失わない。
王国の礼節に馴染む、洗練された仕立て。
「動きやすい」
「疲れない」
「長時間着ても苦しくない」
声が、静かに広がっていく。
やがて彼女が本当に作りたかった服が、認知され始める。
教師のための上衣。
女性書記のための実務服。
式典に立てるが、動ける衣装。
“女性が立てる服”。
それは、ただの流行ではなかった。
売上は伸び、注文は増え、
夜遅くまで店の灯りは消えない。
針を動かすたび、胸に確かな誇りが満ちていった。
⸻
その夜、雨が降っていた。
激しく、重く、途切れることなく。
店の奥で仕上げをしていると、卓上の通信機が鳴った。
オーレリアは手を止め、受話器を取る。
「オーレリア・テイラーズです」
「依頼していた服だが、急遽、明日の式典に必要になった。今夜中に届けてほしい」
低く切迫した声。
それは王女が着る正装だった。
王族の式典。
オーレリアの名が、正式な記録に刻まれる日になるかもしれない。
雨脚はさらに強くなっていた。
窓を打つ水滴が夜を歪ませる。
胸の奥に不安がわずかに生まれる。
けれど。
(気をつければ大丈夫)
丁寧に布を包み、マントを羽織る。
外に出ると、石畳は黒く光り、街灯が滲んでいた。
雨は冷たく、視界を曇らせる。
式典会場へ向かう近道の路地へ入った、そのときだった。
振り向く間もなく、視界の端に巨大な影が揺れた。
馬車だ。
濡れた石畳に車輪が取られ、制御を失った馬車がオーレリアに向かってきた。
次の瞬間、強烈な衝撃が全身を貫いた。
視界がぐるりと反転し、空と石畳が入れ替わる。
息が、できない。
開いた唇に、容赦なく雨が打ちつける。
(まだ、届けていない)
震える指先が、わずかに動く。
だが身体は重く、石畳に縫い止められたように動かない。
雨音が、ゆっくりと遠ざかっていく。
世界の輪郭が滲む。
冷たい闇が確実に覆いかぶさってくる。
オーレリアの意識は静かに遠のいていった。
⸻
――目を開けると、見慣れた天井が視界いっぱいに広がっていた。
木の梁。
薄いカーテン越しに差し込む朝の光。
廊下から、足音が近づいてくる。
そして。
「オーレリア、起きてる?」
その声を聞いた瞬間、心臓が強く跳ねた。
母の声。
亡くなったはずの母の声。
喉の奥がひくりと震える。
呼吸が浅くなる。
ゆっくりと自分の頬に触れる。
温かい。
確かな体温。
鼓動が胸の奥で刻まれている。
夢ではない。
生きている。
(どういうこと……? 私……生きているの?)
二度目の人生。
物語はもう一度始まる。
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