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Season2
ドS大佐はVチューバー⑥
しおりを挟むある人が言った。
それは『愛』ではない、と。
あなたが笑うと胸が高鳴る。
触れた指先に思考を奪われる。
包み込む優しい声に、心が解けていく……。
この震えるような喜びが、ただの『依存』だと言うのなら。
会えない時間のもどかしささえ『愛』ではないと言うのなら。
私はこの感情を、いったいなんと呼べばいいのだろう。
「他店応援……ですか」
事務所のパイプ椅子に浅く腰掛けた真琴は、その言葉を反芻するように呟いた。
「うん。自店も人手不足だって伝えたんだけど、どうしてもって。パートさんが一人骨折して、しば
らく動けないらしいんだ」
鳴海がキーボードを叩く乾いた音が、静かな事務所に響く。
その提案は、今の彼女にとって、濁った水底に差し込んだ一筋の光のように見えた。
画面に映し出された他店のシフト表。それは、自分のことを誰も知らない、真っ白な空白の地だった。
(……ちょうどいいかも。ここじゃない場所に行けば、少しは気分転換になるかもしれないし)
「それは、大変ですね。ちなみにどの店舗ですか?」
「〇〇店だよ。ここからだと隣町だね。少し勤務時間がばらつくことになるけど……可能ならでいい
よ。あっ、同調圧力とか気にしなくていいから、ほんとに。無理なら遠慮なく断って」
鳴海は苦笑いしながら、真琴に「逃げ道」を作ってみせた。
あの日、彼女の絶望を共有してしまった彼は、腫れ物に触れるような危うさと、彼なりの不器用な誠実さで真琴を守ろうとしている。
「……いいですよ。協力します」
「えっ、ほんとに!?」
鳴海が驚いたように椅子ごと向き直る。
真琴は自嘲気味に口角を上げ、自分の頬を指先で軽くなぞった。
「私の力量じゃ、お役に立てるか怪しいですけどね」
いつもの「小林真琴」を演じるたびに、鏡の向こうの澱が『環境ヲ変エレバ全部上手クイクヨ』と楽しげに囁いていた。
忙しさで思考を塗り潰せば、律の笑顔を思い出して恋しい気持ちに震える夜も、右腕の古傷が疼く恐怖も、すべて忘れられるはずだと自分に言い聞かせる。
「全然問題ないよ。小林さんは勤務態度も申し分ないし、何より仕事が丁寧だ。じゃあ、他店勤務の
申請だしとくね。ありがとう、助かるよ」
鳴海の真っ直ぐな称賛が、今の真琴にはひどく空虚に響いた。
丁寧な仕事をしているのは、「普通」という仮面を維持するための、必死な足掻きに過ぎない。
そうしていないと、今にも崩れてしまいそうだからだった。
「それじゃあ、品出しに戻りますね」
すっと背筋を伸ばして立つ真琴の背に、鳴海の躊躇うような呼び声が張り付いた。
「あっ……小林さん、ちょっと待って!」
「はい?」
「……あれから、……体調はどう?無理、とかしてない?」
一瞬、真琴の指先が冷たく強張った。
向けられたのは、彼女の感情の機微を必死に掬い取ろうとする、湿った善意。
けれど、今の真琴にとって、その優しさは自分を「被害者」という枠に閉じ込める鎖でしかない。
「ふふっ、なんですかそれ?無理だったら出勤してませんよ」
唇の端を吊り上げ、記号のような笑顔を作る。
鳴海が、一瞬だけ表情を曇らせて目を逸らした。
「……そう、だよね。ごめん。余計なお世話だった」
「いえ。気遣ってくれてありがとうございます」
事務的な言葉を置き去りにして、真琴は事務所の重い扉を開いた。
背後で、鳴海が吐き出した重い溜め息が聞こえたが、一度も振り返ることはなかった。
(やっぱり、気を遣わせてるよね……なんで話しちゃったんだろう。こうなることは最初から分かっ
てたのに)
事務所から出た瞬間、ポケットの中でスマホが短く震えた。
その微かな振動に、真琴の心臓が大きく跳ねた。
液晶に浮かび上がったのは、見慣れた、けれど今は直視するのが苦しいほど愛おしい名前だった。
『藤堂 律』
真琴は、震える親指でその名をそっと、壊さないように何度もなぞった。
ガラス越しに彼の体温が伝わってきそうな錯覚に陥り、込み上げるものを奥歯を噛み締めて堪える。
「……藤堂さん」
そこに綴られた、彼らしい飾らない言葉達。
機械的なフォントでさえ凍えた心が解けるように温かくなる。
真琴は一文字一文字を心に刻みつけるように読み耽った。けれど、返信を入力するためのカーソルは、ただ空虚に点滅を繰り返すだけだった。
(……藤堂さん、ごめんね。今は無理なの)
真琴は逃げるようにスマホの電源を落とし、真っ暗になった画面を、冷たい制服のポケットの奥深くへと沈めた。まるで、胸の奥に分厚い鍵をかけるように。
(……早く『普通』に戻りたい。一緒にゲームして、ご飯も食べて、それが当たり前みたいに笑いた
い。……そしたらまた、藤堂さんを好きなただの『小林真琴』でいられる)
その淡い期待を消さないように、真琴はそっと瞳を閉じた。
込み上げる弱さを飲み込み、自覚するように、光の届かない売り場へと足を踏み出した。
藤堂律は、心の中に巣食う得体の知れない胸騒ぎを振り払うように、雨上がりの黄昏の街を走っていた。
アスファルトに残された深い水たまりを、スニーカーが勢いよく踏みつける。
跳ね上がった泥水が黒いスエットパンツを汚したが、今の彼にそれを気にする余裕など微塵もなかった。
(……ありえねぇだろ、なんでこんなに会えないんだよ。すれ違いにもほどがあるだろ……!)
あの日を境に、真琴との連絡が途絶えた。
それは、穏やかな日常の梯子を一段飛ばしで外されるような、あまりに突然の「消失」だった。
いや、前触れはあったのかもしれない。思い返せば、自室の扉の向こうへ消えていく彼女の背中は、いつもより少しだけ小さく、硬く強張っていた気がする。
だが、その確かな兆しを、彼は「彼女の疲れ」という安易な言葉で片付け、不覚にも見落としてしまった。
送っても送っても、返信のないメッセージ。
マンションを訪ねても、返ってくるのは冷たい沈黙か、あるいは「急な仕事で」「外出していて」という、彼女の兄・薫を介した他人行儀な伝言だけだった。
焦りに背中を焼かれるようにして、律は彼女の職場へと足を運んだ。
「和泉君、お疲れ様です」
「あ!律さんっ、お疲れ様です!こんにちは」
レジカウンターにいた和泉は、律の姿を見つけるなり、屈託のない笑みを浮かべた。
相変わらず素直で、毒のないその明るさ。本来なら、張り詰めた律の心を癒してくれるはずのその笑顔さえ、今の彼には「彼女のいない現実」を際立たせる毒に感じられた。
「こんにちは。勤務中にごめんね。今日、真琴さんて……いる?」
「小林さんはここ最近、他店勤務しているらしくて、こちらには出勤してないですね。ずっと会えて
ません……普通に寂しいっす」
和泉の肩が空気が抜けたように、しょぼんと萎れた。
「ははっ、そっか。他店勤務……そんなのあるんだな。店ではよくあることなの?」
「たまにですね。でも、小林さんが行くのは初めてなんじゃないすかね?環境変わるの苦手って言っ
て、いつも断ってましたから」
「……そう、なんだ」
律の胸の奥で、カチリと嫌な音がした。
自分に何も告げず、彼女は自分から離れた場所へと居場所を移した。
それは単なる仕事の都合ではない。
自分から逃げ出すための、明確な「手段」だったのかもしれない。
「ありがとう。バイト、頑張ってね」
努めて冷静な声を絞り出し、自動ドアを抜ける。
店を出てすぐ、足を止めると、祈るような心地でスマホの画面を点灯させた。
「……既読は、つくんだよな」
画面に刻まれた、一対の小さな文字。
ブロックされているわけではない。彼女は確かに、さっき送った自分の言葉を目にしている。
その事実だけが、今の彼を現世に繋ぎ止める唯一の救いだった。
けれど同時に、それは残酷なまでの「無視」でもある。
目に見えない繋がり。それは、お互いが必死に手繰り寄せない限り、今にも霧散してしまいそうなほど空虚で。一度力を込めれば粉々に砕けてしまう、曖昧な硝子細工の糸のようだった。
「……なんでだよ。俺、何かした?」
誰に届くこともない呟きが、けぶるような街の夕景に溶けて消えた。
店を離れ、重い足取りで歩き出そうとしたその時。背後から、聞き覚えのある声が届いた。
「おーいっ、藤堂くーん!」
振り返ると、店舗の従業員出口の重い鉄扉に背を預け、鳴海裕太がひらひらと手を振っていた。
どこか余裕のあるその立ち姿に、律の胸の内に小さく、確かな不快感が広がる。
律は隠そうともせず、眉間に深い皺を寄せる。今の自分には、この男の「すべてを見透かしたような目」を受け流す心の余白なんて残っていない。
「小林さんならいないよ」
「……言われなくても知ってますよ」
あからさまに拒絶を剥き出しにする律の反応に、鳴海は「困ったな」というように眉を下げて苦笑した。その表情には、以前のような計算高い冷たさはなく、むしろ手に負えない後輩を眺めるような、微かな親しみと心配の色が混じっている。
「ははっ、それは失礼。悪いけど、どこの店舗で勤務してるかは教えられないんだ。会社の規則だか
ら」
「そんなの、分かってますよ。別に本人に聞けば済む話っすから」
「……でも、会えてないんじゃ聞けないんじゃないの?」
心臓の奥を直接指先で弾かれたような、鋭い痛みに律が「はぁ?」と低い声で威嚇する。
けれど、鳴海は動じることなく、諭すような穏やかな口調を崩さなかった。
「ていうかさ、少し連絡がないくらいで、大げさじゃない?彼女にだって一人の時間が必要でしょ。
そんなに追いかけ回さないであげたら?」
「……真琴さんが、そう言ったんすか?」
思わず声が震えた。
もし彼女が本当にそう望んでいるのなら、自分のこの疾走はただの醜い執着になってしまう。
「いや?ただ、彼女の全てを知りたがるのはどうかと思う。彼女にだって秘密のひとつやふたつある
でしょ。だから……」
「あのさ、だったら黙っといてもらえませんか」
鳴海の話が終わる前に律は、遮るように言葉を叩きつけた。
「真琴さんに秘密がある?だから何?って感じだわ。そんなの当たり前だろ。恋人だからって、全て
を話すわけない。俺だって、真琴さんに言えないこといっぱいあるよ」
言い切った律の瞳に、迷いはなかった。
たとえ彼女が自分に隠し事をしていても、過去に何を抱えていても、今の自分のこの「衝動」を止める理由にはなり得ない。
その真っ直ぐな青さに、鳴海はどこか眩しそうな、そして安心したような溜息をついた。
「じゃあ、どうしてそんなに必死になるの?言動が矛盾してない?そこまで理解してるんなら、待っ
ててあげればいいじゃない」
「あんた、馬鹿なの?会いたいから探してる。それ以外ねぇだろっ」
剥き出しの、あまりに純粋な本音。
打算も妥協も介在しない律の言葉に、鳴海は一瞬呆気に取られたように目を丸くし、それから喉を鳴らして笑った。
「馬鹿っ!?……ははっ、君って男は、その綺麗な外見と口をつく言葉がまるで比例しないんだね。
……まぁ、嫌いじゃないけど」
その無礼な物言いに、律は「あぁ?」とさらに眉間の皺を深くしたが、鳴海はどこか楽しそうに、心底納得した様子で囁いた。
「なるほどね……。小林さんが、あの状態でも君を離したくないわけだ」
「はい?聞こえねーんだけど、今なんて?」
「なんでもないよ。呼び止めて悪かったね。……まぁ、頑張って!」
鳴海はそれ以上何も語らず、またひらひらと手を振って、店の中へと消えていった。
鉄扉が閉まる直前、その表情に一瞬だけ、真実を伏せ続けることへの苦い罪悪感と、それでもすべてを薙ぎ倒して進もうとする律の背中を、眩しそうに見守る温かな色が混じった。
「……なんだったんだよ、今の時間。まじでダルい」
毒気を抜かれたような苛立ちを、雨の湿り気が含んだ前髪を乱暴にかき上げて誤魔化す。
だが、鳴海の言葉は、消えない棘のように律の心に刺さったままだった。
(こっちは一週間も既読無視されてんだよ。黙って待つなんて普通に無理だろ……!)
律は荒い呼吸を整えながら、すがるような思いでスマホを取り出すと、共通の友人である町田梨子に電話をかけた。
「真琴さんと連絡がつかない!?」
駅前のコンビニのイートインスペースに、梨子の裏返った声が響き渡った。
何事かと周囲の視線が突き刺さる。
「声でけぇから。落ち着けって」
律は顔を伏せ、隣のベンチで勢いよく立ち上がった梨子の袖を引いて座るよう促した。
今の自分には、その注目に耐えるだけの精神的な鎧が残っていない。
「……喧嘩したってこと?」
「してねぇ……と思う。正直、全然分かんない。俺と別れたいとか、自然消滅狙ってるとか……だと
思う?」
言葉にすると、胸の奥が冷たい泥で埋まっていくような感覚に陥る。
梨子は絶句し、力なくベンチに腰を下ろした。
「いや、真琴さんに限って、そんなこと……ないでしょ」
「そんなの、わかんねぇだろっっ!」
思わず声を荒げ、律は自分の膝を拳で叩いた。
確信が持てない。一週間という沈黙は、揺るぎない自信を持っていた彼から余裕を奪い去るには、十分すぎる時間だった。
感情的になる律を、梨子は労るような、それでいてどこか悟ったような眼差しで見つめた。
「ないよ。絶対に。……真琴さんが律を見つめる目って、ただの『好きな人』に向ける眼差しとは、
ちょっと違ってたんだよね」
「は? ……どういう意味だよ」
「目に焼きつけてる感じっていうか。……失うのが怖くて堪らない、世界でたった一つの宝物を必死
に守ろうとするみたいな……。そんな顔をする人が、自分から律を手放すなんて、あり得ない」
その言葉が、律の凍りついた思考を激しく揺さぶった。
瞼の裏に、自分を見つめていた真琴の瞳が鮮明に浮かび上がる。
陽だまりの中で柔らかく微笑む顔、不意の接触に体温を上げ、愛らしく照れて怒る姿。
そこにあったのは、確かに「偽りのない熱」だった。
(……そうだよな。俺が見ていた真琴さんが嘘なわけない)
彼女が離れようとしているのは「嫌いになったから」ではない。
理由は分からない。
けれど、彼女も今、暗闇の中で自分と同じように必死に何かに抗っているのではないか。
その確信に近い予感に突き動かされるように、律は弾かれたように立ち上がった。
「……ありがと、梨子。もうちょい、探してみる」
「私もメッセージ送ってみるから!返信来たらすぐに連絡するよっ」
「頼む!」
短く言葉を残し、律は再び夜の街へと躍り出た。
街路樹の葉は、さっきまでの雨の雫をまだたっぷりと抱えていて、強い風に吹かれるたび、急な青時雨を降らせる。
濡れた歩道に映る街灯も、滲んだ信号機の赤も、今の律の瞳には、水面に描かれた水彩画のように美しく、そして不確かに揺らいで見えた。
その光の中を、彼はただひたすらに、愛する人の名を心の中で呼びながら駆け抜けた。
梅雨どき特有のどんよりとした空から、またポツポツと若葉雨が降り出してきた。
気まぐれに強弱を繰り返すたより雨に翻弄されるように、律は真琴のマンションを見上げた。
見慣れた部屋の灯りだけを唯一の道標に、エントランスへ滑り込む。
到着したエレベーターに飛び込み、閉まるのを待たずに閉ボタンを何度も叩いた。
「……っ、おせぇよ……」
表示される階数の点滅が、自分の心拍数に追いつかない。
扉が開く瞬間、律はそこから溢れ出すように廊下へと飛び出した。
真琴の部屋のドアノブを回し、リビングに入った律は、膝に手をつき、肺を焼くような荒い呼吸を整えながら額の汗を拭った。
「薫さん、真琴さんは……っ?」
リビングでは、薫が冷蔵庫から取り出したスポーツドリンクを喉に流し込んでいた。
律の悲痛な声に、彼は顔を上げることなく淡々と答える。
「仕事じゃねぇか?最近夜遅くに帰って来て、朝も俺が起きる頃にはもういなくなってる。……前に
も何度かあったんだよ、こういうの」
「前にも……って、いつの話?」
「三年くらい前だったかな。もうガキじゃねぇからって特別気にかけなかったけど……あいつ、ちゃ
んと寝て食ってるといいんだけどな」
投げやりなようでいて、そこには妹の「壊れやすさ」を知っている者特有の諦念が混じっていた。
「はぁ!?なにそれ。薫さん、なんで止めねぇの!?普通に体に悪いだろ!」
「知るかよ!てか、俺にあたるな。言って聞くような奴ならとっくに止めてらぁ。メッセージ送って
も返信ねぇし、今のあいつは誰の言葉も聞きゃしねぇ。傍観するしかねぇだろうが!」
乱暴に首筋をさする薫の仕草。それは、妹の異変を察しながらも、その心の深淵に触れられないもどかしさを必死に抑え込んでいる兄の苛立ちだった。
「……ごめん、テンパった……」
「別にいいよ。今のお前に余裕がないのは分かってるつもりだ。だから今日はもう帰れ。待ってても
真琴はいつ帰るかわかんねぇぞ」
「…………わかった。騒がしくして、ごめん」
力なく玄関へ引き返した律の視界に、脱ぎ散らかされた自分のスニーカーが映る。
自分だけが彼女の生活に土足で踏み込み、かき乱して、結局何も掴めないまま追い出されるような惨めさが込み上げた。
律は震える指先で、真琴に何度目かの電話をかける。
だが、無情にも電子的な呼び出し音だけが、遮るもののない静寂の中に延々と鳴り響くだけだった。
「くそっ……何か言ってくれなきゃ、……わかんねぇよっ」
律はその場にしゃがみ込み、熱を持ったスマホをぎゅっと握りしめた。
行き場のない張り裂けそうな想いが、指先から彼女へと流れ込んでいく。
今この瞬間、世界のどこかでこの震動を感じているはずの彼女が、その指先で言葉を奏でてくれるのを、ただ、祈るように。
湿った窓を僅かに叩く暗い夜雨の音が、陽だまりを失ったリビングから、律の空っぽな心へと冷たく響いていた。
その後、さらに一週間が過ぎても、律のスマホに『小林真琴』の名が刻まれることは、一度もなかった。
季節は進み、街を湿らせていた雨の日々は終わりを告げようとしていた。
明るい照明に彩られた店内に、高校生アルバイト・和泉の快活な声が響く。
「ありがとうございました!」
長時間の立ち仕事に一息ついた和泉の耳に、懐かしく、穏やかな声が届いた。
「和泉君、お疲れ様。休憩でしょ?レジ代わるね」
「小林さんっ!お久しぶりです!今日は自店勤務なんですか!? うわっ、一年ぶりくらいの感動っ
す!」
和泉の眩しい笑顔は、今の真琴には少しだけ眩しすぎた。けれど、二週間の「逃避」を経て、ようやく自分を取り戻しかけていた彼女は、穏やかな微笑みを返すことができていた。
「久しぶり。もう、大げさだよ。たった二週間とちょっとでしょ?」
そう言って笑い合った、その時だった。
店の奥から、鼓膜を突き刺し、心臓を直接殴りつけるような、パリンッという高く鋭い衝撃音が響き渡った。
「えっ……なんすか、今の音。派手にやっちゃいましたかね、誰か」
和泉は呑気な声を上げ、音のしたほうへ不思議そうに視線を向けた。
売り場にいた数名の客も一斉に足を止め、「何かしら」と不安げに顔を見合わせている。中には、不穏な気配を察してか、買い物カゴを置いたまま足早に出口へ向かう客の姿も混じり始めていた。
だが、真琴の脳内を支配したのは、それよりもずっと濃密で、どろりとした「嫌な予感」だった。
突如として、右腕の古傷が焼けるように疼き出す。
「………和泉君はここにいて。絶対に奥には来ないで!いいね?」
「え、でも……!」
「いいから!お願いっ」
普段の彼女からは想像もつかない切迫した制止に、和泉は言葉を失って立ち尽くした。
真琴は内側から溢れ出す冷たい汗を拭う余裕もなく、ガラスの砕ける音がした方へと駆け出した。
(……なにこの胸騒ぎ。商品が落下しただけ、だよね?)
一歩踏み出すごとに、スニーカーの底が床の振動を拾う。
祈るような思いでキッチン売り場の角を曲がったその先で、真琴の視界は真っ白な絶望に塗り潰された。そこには、陳列された食器を狂ったように叩き割る中年の男の姿があった。
破片の海の中、その手に握られているのは、鈍く光る酒瓶。
陶器の白い欠片が床に叩きつけられ、鋭利な破片が真琴の足元まで滑ってくる。
その輝きを見た瞬間、視界から色彩が剥がれ落ち、あの日と同じ無機質な絶望の色に塗り潰された。
「……なに、これ」
声にならない悲鳴が喉に張り付く。
男が、獲物を探す獣のような目で、ゆっくりと真琴を振り返った。
男性は意味のなさない怒声を上げ、酒の臭いを撒き散らしていた。
「まずい……っ、警備の人を……!」
踵を返そうとした真琴の視界に、へたり込んだまま震えている同僚の姿が映った。
真琴は反射的に駆け寄り、彼女の肩を抱き起こした。
「……事務所へ!早く避難してくださいっ!」
「は、はいっ……!」
指示を出し、自分もその場を離れようとした、その時。後ろから頭髪を力任せに掴み上げられ、衝撃とともに床へ尻もちをついた。
「痛っ……!」
焼けるような頭皮の痛み。見上げれば、血走った眼球がすぐ傍まで迫っていた。
「お……落ち着いてくださいっ……!」
「うるせぇぇぇっっ!!」
男は獣のような咆哮を上げ、棚に残っていた食器をすべてなぎ払った。
ガシャン!と、真琴のすぐ真横で陶器が砕け散る。
跳ねた破片が鋭く頬をかすめ、熱い血が伝ったが、恐怖のあまり痛みさえ感じない。
「お客様!おやめください!!」
異変に気づいた鳴海が突進し、男の腕を必死に掴んだ。
だが、酒で理性を失った力は凄まじく、鳴海はもみ合った末に激しく床へと倒れ込んでしまう。
「鳴海さん!」
助けようと手を伸ばした真琴の頭上に、巨大な影が落ちた。
見上げれば、男が割れた酒瓶を天高く振り上げている。
「小林さん、危ないっ!!」
倒れ込んだ体勢のまま、鳴海は咄嗟に真琴の頭を抱え込み、覆いかぶさるように自分を盾にした。
真琴は、死神の鎌のように振り下ろされる酒瓶を、奇妙に澄み渡った静寂の中で見つめていた。
(あ……私、今度こそ、死ぬのかも……)
脳裏に、誰よりも恋しい人の顔が浮かぶ。
(なんだ……。こんなことになるなら、藤堂さんに会いに行けばよかった。私、……いつも、遠回り
してばっかりじゃん……)
最悪の幕切れを覚悟し、真琴はたまらず目を閉じた。直後、空気を震わせる衝撃音。
だが、体に痛みは来なかった。
パリン、と頭上で何かが弾け、宝石のような破片が床に雨のように降り注ぐ音が鋭く響いた。
恐る恐る目を開くと、ずっと恋い焦がれ、夢にまで見た「光」が、そこには力強く立っていた。
激しい動きに揺れる、艶やかな黒髪。
その隙間から覗く左耳のリングピアスが、店内の照明を反射して鋭く、誇らしげに煌めいている。
「……まったく、いい大人がッ!物騒なもん振り回してんじゃねぇよ!!」
腹の底まで響く、低く、力強い声。
律は男の腕を容赦なくねじり上げると、そのまま床へと這いつくばらせた。
「いででっ!!」
男の苦悶の声が響くが、律の瞳には一切の容赦はない。
圧倒的な威圧感の前に、男は力なく突っ伏し、沈黙した。
ただ一人、時間が止まったままの真琴が、唇を震わせた。
「……藤、堂……さん?」
消え入りそうな真琴の震える声に、律がゆっくりと振り返る。
男を完全に制圧したことを鋭い眼光で確認すると、律はそのまま、真琴に覆いかぶさっていた鳴海の襟首を力任せに掴んで引き剥がした。
「いつまで、抱きしめてんだよ……ッ!!」
怒気を含んだ声が店内に低く響く。
引き離された鳴海が呆然とする中、真琴の瞳には、律の額に滲む鮮やかな赤が映った。
「藤堂さん……っ!血が出て……」
心配して伸ばしかけた真琴の手を、律の圧倒的な存在感が遮った。
鮮烈に視界を横切った黒髪が、次の瞬間には真琴の視界をすべて覆い尽くしていた。
有無を言わさず肩を強く掴まれ、そのまま世界から二人を切り離すように、律は真琴を胸の中へと引き寄せた。
「…………やっと、会えた……っ」
首筋に、律の熱い吐息と、少しだけ震える頬が押し当てられる。
それこそ真琴の骨が軋むほどに強く、律はすべてをなぎ倒すような勢いで彼女に縋りついた。
積み重なった絶望も、鳴海の前で見せた虚勢も、すべてはこの一瞬のためにあったのだと、その体温が教えてくれる。
「もう……どこにも、行かせない」
ふわりと鼻腔をくすぐる、懐かしい律の匂い。
震える彼の声が、心臓に直接響く。
真琴の目頭は耐えきれないほど熱くなり、零れた雫が、彼女を抱きしめる律の黒いパーカーに静かに吸い込まれていった。
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