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Season2
ドS大佐はVチューバー⑦
しおりを挟む現場はまたたく間に、刺すような赤色灯と耳障りなサイレンに包まれた。
駆けつけた警備員と警察官によって、酒の臭いを撒き散らす男は手際よく連行されていく。
夜の空気を切り裂いていた意味をなさない怒声が遠ざかると、代わりに店の入り口には黄色い規制線が張られ、凄惨な事件の余韻を色濃く残していた。
鳴海は警察官の問いかけに淡々と応じ、合間にエリア上司への報告に追われるなど、多忙を極めている様子だった。
幸い、和泉たち他の従業員に大きな怪我はなかった。
彼らは引きつった顔をしながらも、散乱した食器やガラスの破片をせっせと片付け始めている。
真琴はその輪に加わることもできず、冷たい床に座り込んだまま、ただ呆然とその光景を見守っていた。
「あの……藤堂さん。片付けとか、手伝わないといけないから……」
「嫌だ。無理」
律は床に膝をつき、真琴を腕の中に閉じ込めたまま、頑なに動こうとしなかった。
正直、真琴は困り果てていた。忙しなく動く同僚たちの好奇の目や、警察官たちの「お熱いことで」と言わんばかりの生温かい視線が突き刺さり、穴があったら入りたいほどの羞恥に顔が火照る。
そんな彼女を見かねたのか、事情聴取の合間を縫って鳴海が歩み寄ってきた。
「小林さん、今日はもう帰って大丈夫だよ。あとはこっちで引き受けるから」
「や、でも……」
鳴海は、真琴にぴったりと吸い付いたまま、こちらを向きもしない律の背中に困惑の視線を送り、眉を下げて苦笑した。
「今日の営業はもう無理だし、ある程度片付いたら他の皆も帰すよ。……だから、ね」
促すように鳴海が目配せを送る。
今の彼女に必要なのは、この戦場のような現場の片付けではなく、隣で子供のように固執している男との対話なのだと、言外に告げられた気がした。
帰宅ラッシュを終えた閑散とした駅。
アスファルトから立ち上る雨上がりの匂いが漂うホームのベンチで、真琴は自身の頬に簡易の絆創膏を貼り、引き続き困り果てていた。
店舗を出てからもずっと、律が真琴を抱きしめ続けているからだ。
階段を上る時も、改札を通る時も、進行方向によって向きや角度は変わるものの、とにかく一秒たりとも離れてくれない。
「藤堂さん、額の傷見せて? 応急処置するから」
「……」
「これじゃ……電車にも乗れないよ。一瞬だけ離して?」
「やだ。乗らない。ここで寝る」
子供のような無茶を言う律に、真琴は何度目かの深い溜め息をついた。
二人の間を、湿った夜風が通り抜けていく。
しばらく沈黙していると、『まもなく〇番線に列車が到着します』という無機質なアナウンスが響き、遠くからレールの軋む音が聞こえてきた。
「……何も聞かないんだね」
言葉を選ぶように静かに尋ねても、律は答えなかった。
「連絡しなかったこと……怒ってるの?」
その問いに応えるように、背中に回された腕に、ぎゅっと強い力が込められた。
真琴は彼の今の表情を確認せずにはいられなかった。強引に、けれど壊れ物を扱うような優しさで律の体を引き離すと、真琴は息を呑んだ。
街灯の光を反射して、律の瞳には、今にも零れ落ちそうな涙が滲んでいたからだ。
「見んな……っ」
律は決まり悪そうに顔を背けると、拒絶を許さないほどの強さで再び真琴を抱きしめ、その肩に顔を埋めた。
「……俺のこといらないなら、それでもいいよ。この先、一緒にいられなくても全然いいから。
………無茶、しないでほしい」
震える声。それは、真琴が知っているどの声よりも脆く、消え入りそうだった。
「自分を傷つけないで。……いなくなろうとしないで。俺は……真琴さんが無事なら、それだけでい
い」
それは、まるで祈りのようだった。
神聖で、どこまでも純粋な魂の叫び。
周囲の雑踏も、レールの音も、すべてが真空に吸い込まれたかのように消えていく。
(どうして……。私は、あなたに何も伝えていないのに)
どうしてそんなに温かい言葉を使えるの。
どうして私のために涙まで浮かべてくれるの。
私は、あなたから逃げたんだよ。
「二人の為に」なんて自分に都合のいい解釈をして、一番傷つけたくない人を傷つけた。
結局、私は自分の弱さを守ろうとしていただけだった。
「……ごめんね、ごめん……!お願いだから、泣かないで」
溢れ出したのは、謝罪と、それ以上の愛おしさ。
指に絡む髪の感触を慈しむように、震えるその肩を包み込み、真琴は何度も律の頭を撫でた。
何度も、何度も。
乱れた二人の鼓動が、やがて一つの確かなリズムを刻み始めるまで、彼女は彼を強く、強く抱きしめ続けた。
翌日、真琴は嘘のように寝込んでしまった。
連日の激務と心身の疲弊がたたり、ついに体力が限界値を振り切ったのだ。
リビングで屍のように動けなくなっていたところを兄の薫に見つかり、急遽仕事を半休にした彼に「御託はいいから車に乗れ」と脅され、有無を言わさず病院へと連行された。
「小林さん、中へどうぞ。あ、スマホはマナーモードか、できれば電源オフでお願いしますね」
看護師の言葉に、真琴は「あ、はい!」と肩を跳ねさせた。
慌ててバッグから取り出したスマホは、充電が残り8%を切って瀕死の状態だ。
ふと見ると、通知欄には律からのメッセージ。
『今日の晩飯、一緒に食べない?何か買っていこうか?』
(……あ、藤堂さんから。でも、今返信したら電源落ちるかもしれないし。……後でいいや!)
律からの愛を指先で潔くスワイプし、真琴は電源を落とした。
「うーん、血圧も低いし、かなり脱水気味だね。これじゃフラフラするのも当たり前。自覚ある?」
医者の言葉に、真琴は力なく首を振った。
病院、医者、お説教。真琴はこのセットがどうにも苦手だった。
「栄養不足に睡眠不足。とりあえず一本入れておこうか。終わる頃には楽になるから」
(一本入れる……?どういう意味?課金?それとも何かのフラグ……?)
「……えと、何を、ですか……?」
「点滴のこと。水分とビタミン剤、しっかり補給しようね」
「点滴……!?」
真琴は背後に立つ薫に、救いを求めるような視線を送った。
「に、兄さぁん……」
「お前の自業自得だろ。とっとと打ってもらえよ」
薫はポケットに手を突っ込んだまま、吐き捨てるように言った。
「俺、外のソファにいるから。……あー、律には黙っといてやる。あいつに知れたら面倒くせぇし
な」
「……サーセン」
薫はぶっきらぼうに扉を開けて出ていった。
「小林さん、こっちのベッドへ。緊張しやすいって仰ってましたもんね。横になって打ちましょう
か」
「はい……びっくりするほど、緊張しいです」
カーテンの中で横たわった真琴は、観念したように震える左腕を差し出した。
ふと視線を上げると、枕元には背の高いステンレス製の点滴スタンドが、まるで見張り役のように無機質に立っている。その先端に吊るされた透明な輸液バッグは、蛍光灯の光を反射して怪しく光っていた。
(あぁ……これ、藤堂さんのホラー実況で見た、廃病院の体力回復アイテムに似てる……)
「ちょっとチクッとしますよ。大きく息を吐いててくださーい。ふー、って」
「ふー……っ、ひぅ……!」
針が刺さる瞬間、真琴は固く目を閉じた。
「はい、上手ですよ。……はい、入りました。痺れたりしてないですか?」
「……。あ、……もう、終わったんですか?」
「ええ。あと一時間くらい、ゆっくり休んでてくださいね。何かあったら、そのナースコールのボタ
ン押してください」
看護師が去り、静まり返った空間。
チューブを流れる透明な液体をぼんやり見つめながら、真琴は不意に込み上げた寂しさに耐えかね、ぽつりと呟いた。
「……藤堂さんに、会いたい……」
その頃、待合室の硬いソファに座る薫の端末は、悲鳴を上げんばかりに震えていた。
律からのメッセージが止まらない。
『薫さん、今日半休?病院行くって何!?真琴さんのスマホ、電源入ってねぇんだけど!もしかして真
琴さん、具合悪い?大丈夫なの!?』
「長文ダルっ……。既読つけたら最後、秒で突撃してくるぞ、これ」
心底面倒くさそうに顔をしかめた瞬間、手の中の端末は、返信を待ち切れない律からの「着信」を告げて激しく震え始めた。
液晶に律のアイコンが点滅するたび、薫の眉間の皺が深くなっていく。
さらに画面を埋め尽くす、通知の嵐。
律のメッセージはもはや安否確認の域を超え、獲物を追い詰める執念すら感じさせた。
『薫さん、既読くらいつけろよ』
『いまどこ?病院?どの病院?』
『ほんと、マジで返信ください……』
薫はスマホを顔から遠ざけ、天を仰いで深いため息をついた。
「いやいやいや、普通に怖い。……あいつ、ヤンデレ化しつつあるな」
普段はクールで仕事のできる『ハイスペックの権化』と社内で呼ばれている後輩が、誰よりも頼りにしている配信仲間が。自分の妹に対してこれほどの執着を見せているという事実に、改めて頭が痛くなる。
点滴が終わり、体内の水分が満たされたせいか、真琴の視界は驚くほどクリアになっていた。
病院の自動ドアが左右に開く。
冷房の利いた室内から一歩外へ踏み出した瞬間、真琴の肌を、七月上旬のねっとりとした夏の熱気が包み込んだ。
「……あー、夏だ」
梅雨明けを告げるような、突き抜けるほど青い空。
その眩しさに目を細めた真琴の視界の先に、スーツのジャケットをバサリと片手に抱え、シャツの襟元を緩めた律が立っていた。
「藤堂さん!?なんでいるの!?それより仕事は!?」
「休憩時間いじって、一瞬抜けてきた。……薫さんから、病院にいるって聞いて」
いつもなら隙のない彼が、額に薄っすらと汗を滲ませ、肩を上下させている。
小暑を迎え、湿り気を帯びたまま熱を持ち始めた空気をかき分け、この夏空の下をどれほどの速度で走ってきたのか。その乱れた呼吸が、何よりも雄弁に彼の焦燥を物語っていた。
「兄さん!言ったの!?」
詰め寄る真琴に対し、横で自販機のコーヒーをすすっていた薫が、心底うざったそうにスマホを振ってみせた。
「言わなきゃ、いつまで経っても着信が止まらねぇんだよ。俺のスマホがイカれるわ」
薫の恨み節を余所に、律は真琴のそばに歩み寄る。
そして、左手の甲……先ほどまで点滴の針が刺さっていた場所に貼られた、小さな保護テープに目を止めた。
律の大きな手が、愛おしむように真琴の頬をそっと包み込む。
「……体調は?平気?」
「大丈夫ですっ。点滴でバフ付けてもらって、HP全回復したんで!」
「点滴……!? はぁ、もう、本当に心臓に悪い。真琴さん、まだ顔色悪いよ」
律は深く、深く溜め息をつき、真琴の瞳をまっすぐに見つめた。
「晩飯、帰りに何か買って行くから、今日は何もしないで。大人しく寝ててくれる?」
「いやいや、そんな大げさな……」
「お願いだから。茶化さないで、素直に聞いてよ」
少し強引で、けれど必死な律のトーンに、真琴はたじろぐ。
彼の瞳の奥にある、自分を真剣に心配する切実な熱情に当てられて、真琴はこくりと頷いた。
「……わかり、ました。ありがとう」
真琴は照れ隠しに、点滴の跡が残る手でそっと横髪を耳にかけた。
律の表情が安堵に緩み、二人の間に甘く濃密な空気が流れかけた……その時。
「はいはいはい。ここ、病院の入り口。いちいちイチャコラするな。うぜぇから!」
パンパンと手を鳴らす薫の冷え切った声が、二人の世界を鮮やかにぶち壊した。
「「……ごめん」」
二人は顔を見合わせ、幸せそうに、そして申し訳なさそうに苦笑した。
七月の長い一日がようやく終わりを告げようとする時刻。
律は、自分の疲れなど忘れたかのように高級な紙袋を両手に抱え、脇目も振らずに真琴のマンションへと現れた。
「これ、少しずつ食べて。残りは冷蔵庫に入れとくから」
テーブルの上に整然と並べられたのは、宝石のような輝きを放つ高級フルーツゼリー、とろけるような杏仁豆腐、出汁にこだわったスープ専門店のお粥、そして老舗の茶碗蒸し……。
真琴の弱った胃腸に優しく、かつ栄養価の高い「至高のラインナップ」だった。
「聖杯……聖杯が並んでる……って。えっ、高い!高いですよね!?これ!お金、払いますっ」
「いいよ。俺が好きで買ってきたんだから。別にそんな高くねぇし」
「いや、でも……」
真琴が申し訳なさそうに眉を下げた時、ロングTシャツに袖を通しながら自室から出てきた薫が、律の買い物を見るなり鋭い指摘を飛ばした。
「おまっ、これいつ買いに行ったんだよ?午後に外部からの不正アクセスのログ解析、回してたはず
だろ。あれ結構重かったはずだけど」
律は、まるでお茶でも飲んできたかのような平然とした顔で答える。
「あー。並列処理のコードを効率よく組み直して、秒で終わらせて、残りのタスクは後輩にぶん投げ
てきました」
「エグっ!職権乱用だろ……。秀才の無駄遣いにもほどがあるわ」
薫は呆れ果てたように首を振り、期待を込めて律の手元の紙袋を覗き込んだ。
「おい律、俺の分はねぇのかよ。俺だって昼出勤で残業してきて腹減ってんだよ」
「薫さんには、これです」
律が無造作にテーブルの端へ置いたのは、カサカサと虚しい音を立てるコンビニのレジ袋。
中身は上げ底の弁当と、タコと枝豆のおつまみパック。
「……俺の扱い雑すぎねぇ!?せめてスープの一個くらい分けてくれてもよくね!?」
「真琴さんの分なんで、ダメです。薫さんはタコで我慢して」
「ふざっけんな!てめぇは、ずっと過保護が振り切れてんだよ。出禁にするぞっ!」
三人で冗談を交えながら談笑し、ひと心地ついたところで、ふっと糸が切れたような疲れが真琴を襲った。
「……少し、横になるね」
自室のベッドに腰掛け、重くなった瞼を擦っていた、その時だった。
ピンポーン、と賑やかなインターフォンが鳴り響く。
「真琴ちゃ~ん!!良かったぁ、本当に良かったよぉぉぉ~!!」
部屋に入るなり、桃果は火がついたように泣き出した。昨日の事件の詳細を律から聞いたのだろう。いつにも増して情熱的、かつ力強いハグに、病床の真琴の体は折れそうだった。
「あんな怖い思いして、その上過労で倒れるなんて……!私、真琴ちゃんにもしものことがあったら
って思ったら……生きててくれてありがとうぅ……!」
「あー、ははは。桃果さん、泣かないでくださいってば」
鼻を真っ赤にして泣きじゃくる桃果を、真琴は困り顔で、けれど温かな心地で宥めた。
「……真琴さん。ほっぺた、見せてもらえますか?」
その横で、梨子が静かに真琴の頬へと手を添えた。破片で切ってしまった薄い傷跡を、梨子の冷たい指先が労わるようになぞる。
「……痛かったですね。傷、残らないといいんですけど」
梨子は辛そうに眉を寄せた。その瞳には、友人としての純粋な心配と、大切な人たちを理不尽に脅かした存在への静かな憤りが滲んでいる。
(……一番悔しくて、辛いのは、ご家族だよね)
梨子はふと、リビングで不機嫌そうに、律からもらったコンビニのタコを肴に酒を飲む薫に視線を送った。
妹が傷つき、倒れた。何もできなかったと自分を責めているかもしれない薫の背中が、梨子には少しだけ寂しそうに見えたのだ。
「真琴さん、ちょっとごめん。薫さんと少し話してきてもいいですか?」
「へっ?あっ、はい。どうぞどうぞ」
「ありがとう」
ニッコリと、梨子の綺麗な顔が柔らかくほころんだ。それは、傷ついた真琴を安心させるため。
そして、今から向き合う「意中の人」の心を少しでも軽くするための、彼女なりの武装だった。
「薫さん、大変でしたね。……その、大丈夫ですか?」
キッチンカウンターで缶ビールを開けていた薫が、面倒そうに視線を上げた。
「別に俺はなんともねぇけど。てか、わざわざ見舞いに来るとか大げさだろ。お前、仕事帰りじゃね
ぇの?」
「あー、いえ。真琴さんの様子も見たかったので、全然問題ありませんよ」
梨子は努めて冷静に、けれど口角を上げてにこっと笑った。
動悸が激しくなっているのを悟られないよう、いつもの「美しい梨子」を必死に演じる。
「ならいいけど。……真琴の為にありがとうな」
「とんでもないです。なにか困ったことがあれば、いつでも言ってください。全力でお手伝いしま
す!」
梨子は心の中で祈るように両手を握り合わせると(い、言えた~!)と歓喜に震えた。
「ああ。悪りぃな、今度なんか奢るわ」
「えぇっ!?いや、……お、お構いなく!間に合ってますっ!!」
「……は?なにが?」
梨子のあまりの食い気味な拒絶に、薫は不思議そうに眉をひそめた。
(ま、間に合ってるって何!?せっかくのお誘いを断ってどうするの!!もうーっ、せっかくいい感じに
話せてたのにぃ!!ほんっと最悪……!)
赤くなった頬を、梨子は動揺したまま両手で覆うように隠した。
薫を前にすると、言いたいことの三分の一も言えない自分のひよりぶりに、心底がっかりする。
「……梨子?」
心配そうに覗き込んでくる薫の瞳が、今は凶器のように眩しい。
「……と、とにかく!お酒、飲みすぎないでくださいねっ。飲みすぎは体に毒なので!何ごとも程々
に!!」
そう言い残して、梨子は逃げるように真琴の部屋へと戻っていった。
その部屋の片隅で、彼女が頭を抱えてしゃがみ込んでいることなど、彼は知る由もない。
「……どいつもこいつも、挙動不審だな、おい。まともなのは俺だけか?」
残された薫は、手元のタコを見つめながら、どこまでも的外れな呟きを漏らしていた。
ふと入り口に目を向けると、律がドアの隙間からひょこっと顔を出し、何度も真琴の様子を窺っている。
「何やってんの、律。こっち来なよ。ぴょこぴょこ、うっとうしいなぁ」
桃果が笑いながら手招きしても、律は頑なに首を横に振った。
(藤堂さん……私が『入っていいよ』って言うまで、絶対に入ってこないつもりだ……)
律のその、臆病なほどに真っ直ぐな誠実さ。そして、前髪の隙間からのぞく絆創膏の下に、自分を守るために刻まれた小さな傷があることを想う。
それを見つめているうちに、心地よい睡魔が真琴の全身を柔らかく包み込んでいった。
「……ごめんな、さい……ちょっと、……寝ますね……」
不器用なほどにひたむきな彼氏の愛情。
それを見守る兄と友人の、どこまでも噛み合わないやり取り。
そんな賑やかで優しいカオスに包まれながら、真琴は自分が世界で一番安全な場所にいることを確信した。
最後に微かに耳に届いたのは、ドタバタと騒ぐ桃果を「静かにしろ、寝てんだから」とたしなめる律の、低く心地いい声。
そして誰かがそっと、体温を逃さないように毛布をかけ直してくれる、愛おしい気配だった。
彼女の瞼は、そのまま深い、穏やかな眠りの中へと落ちていった。
目が覚めると、カーテンの隙間から細い月が見えた。
部屋の入り口に目を向けると、律が床にあぐらをかいて座り、読書灯の明かりだけで本を読んでいた。体調が悪化したらいつでも駆けつけられるよう、部屋の扉は開け放たれたまま。
廊下の明かりを背負ったそのシルエットに、真琴の胸がじんわりと温かくなる。
「……藤堂さん」
かすれた声で呼ぶと、律は心臓を跳ねさせたかのように本を閉じた。
「起きた? ……なんか飲む? 水、持ってくるけど」
「大丈夫。……それより、こっち来て」
真琴は、ベッドの端をぽんぽんと叩いて手招きした。
「……いいんすか?」
律は一瞬、躊躇うような表情を見せたが、吸い寄せられるように部屋へ入ってきた。
ベッドの縁に腰かけた律が、真琴の頬の傷を心配そうに覗き込む。
「痛くない?膿んだりしてねぇ?」
真琴は毛布を鼻先まで引き上げると、久しぶりの『二人きり』の空気がくすぐったくて、ふふふと喉を鳴らした。
「何?ふふふって」
「なんでもない……。藤堂さんは、おでこ平気?」
律は邪魔な前髪を無造作に上げると、絆創膏の貼られた額をさらして「余裕」と短く笑ってみせた。
「……何、読んでたの?」
「ラノベ」
「面白い?」
「普通。……真琴さんの様子を見るついでだから、あんまり、頭に入ってないし」
正直な告白のあと、しんと静まり返った夜の部屋に濃密な沈黙が流れる。
遠くで冷蔵庫の唸るような音が、二人の心音を際立たせるように響いていた。
真琴は、毛布の中からそっと問いかけた。
「藤堂さん……今日、帰る?」
一度きょとんとした後、律の瞳が柔らかく細められた。
「なんで?」
「…………ここに、いて欲しい」
わがままかな、と思いつつも本音をこぼす。
なかなか聞けない真琴の本音の断片に、律の心は耐えがたい愛おしさで高鳴った。
その溢れ出す熱情をなだめるように、彼女の頬を人差し指の背でそっと撫でる。
「いいよ」
真琴は律の指の体温に頬を預けると、深い安堵とともに再び意識を手放した。
二度目の眠りは、心の深淵に触れるような、とても温かい、二人だけの世界の入り口だった。
そこは、光の概念すら届かないほどに深い、真っ暗な世界。
闇の向こうから、聞き慣れた、けれど酷く無機質な自分の声が響く。
『イクノ?ソチラガワニ。……絶望ニ身ヲユダネテイルホウガ、楽ナンジャナイ?』
「……そうだね。私も、ずっとそう思ってた」
真琴は静かに答えた。
『彼ハ、ホントウニ信用デキルノ?』
「信用って……私は最初から、あの人を疑ってなんていなかったよ。それは、あなたが一番知ってる
でしょ?」
『シッテル?』
「二年前のあの秋の夜。スマホから聞こえてきた藤堂さんの『声』が、私を救ってくれた。いつ終わ
ってもよかった私の世界を照らしてくれたのは、あの人だった」
『……ソンナ理由?ソンナ単純ナ理由デ、絶望ヲ手放スノ?』
「失くしたくないものが、できちゃったの。手放したくない、温かな場所が、たくさん見つかった
よ。私のために泣いたり笑ったりしてくれる人たちに、私は手を伸ばしたい。大切にしたいんだ」
『ソレデモ、陽ノアタル場所ハ、ヤッパリ苦シイト思ウヨ。イママデ以上ニ、君ヲ苦シメルカモシレ
ナイ。ソレデモ、イクノ?』
真琴は迷わず、暗闇を見据えて頷いた。
「……うん。もう、決めたから」
『……ソウ。ジャア、オワカレダネ』
寂しげに遠ざかろうとする気配を、真琴の言葉が強く呼び止めた。
「ううん、行かないで。……一緒に行こう」
『イッショ、ニ……?』
「そう。『あなた』は私で、『私』はあなたでしょ。だから、これからも一緒にいようよ」
『ナニソレ……ドウイウ、意味?』
戸惑う声に、真琴は穏やかに微笑みかけた。
「……私たちはきっと、もう大丈夫だよ」
『……ヤット、ヤっと、やっと受け入れてくれたんだね。ずっと、ずっと待ってた。そう言ってくれ
るのを』
囁きとともに、黒い澱が形を変えていく。
そこに現れたのは、あの日、血まみれで立ち尽くしていた自分自身の姿だった。
『彼女』は瞳に涙を浮かべ、けれど晴れやかな顔で微笑んでいる。
真琴は震える手を伸ばし、『彼女』を優しく、慈しむように強く抱きしめた。
「……嫌ってごめん。ずっと閉じ込めてて、ごめんね」
自分自身の中に残っていた最後の孤独が、光と影に混ざり合い、透明な純粋さに回帰していく。
拒絶していた暗闇は、もはや彼女を苦しめる鎖ではなく、自分という存在を形作る大切な一部となり、長い、長い夜が明けていく予感に満たされていった。
真琴の意識は、深い安眠の向こう側で、確かな「光」へと導かれていく。
それは、明日も、その先も、律が隣で笑ってくれる世界の光だ。
穏やかな寝顔のまま、真琴は心の底から安らかな呼吸を繰り返した。
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二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
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