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一章
弐話
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気がつけば眠りについていた。
弁財天の眷属は発情すると香りを発する。
自分には香りというものを感じたことがない。
番を得られてはいないのだから当然だろうーー。
本来、蛇の神霊は贄を捉えるために、独自の香りを放つことができるはずなのだが、瑪瑙は何も発することはなかった。
一度だけ贄を捧げられた時も、何も香りを放たなかったと思う。
他の仲間たちは確かに独自の香りを持っていた。
自分にはそんな力は備わっていないというのか。
薄れゆく意識の中で、そんな思考が頭を過っていた。
しばらくして、鳥の囀りが聞こえはじめ、空が明るくなってくるのがわかった。
『朝か……』
ゆっくりと目を覚まし、顔を空に向けた。
顔を上げた瞬間ーこの社の御祭神の声が響いてきた。
『瑪瑙よ、最近すっかり浮かない顔をしているな』
大神の声を聞き、瑪瑙はすぐさま蛇の自身の身体を地にひれ伏した。
『大物主様、おはようございます。目覚めが遅く、申し訳ございません』
『お前は未だに、琥珀のようになりたいと思っているのか?』
その問いに、瑪瑙は言葉を詰まらせた。
あの二人のように、種族を超えお互いの心を通わせれるような者に巡り合うことなどできるのかーー。
『お前はこのところ、この神域から出て、人間界に紛れているようだな』
『それは……』
大物主の眷属になり、もう幾度という年月が過ぎていた。
この地に留まっているというのも、退屈を感じだしたため、人の暮らしに混ざる生活をしている。
昼間は時折この神社で奉仕をして、夜は人の街のライブハウスで音を奏でている。
『で、お前の贄、いや番となる者は見つかりそうか?』
『……わかりません』
静かな社の中、瑪瑙は視線を落としたまま、身を強く震わせた。
『お前の一族は番を見つけるために香りを放つと言っていたな』
その一言に、静かに答えた。
『……私は……香りを、一度も発したことがありません。だから……』
番など、自分にはもう見つかるはずがない。そう言い切ってしまえば楽だった。だが、それは自分自身への嘘になる気がして、言葉を飲み込んだ。
「……それに、私にはそんな資格はないのかもしれません」
『資格……?』
大物主神の声は、決して咎めるようなものではなかった。けれど、深く、揺るがぬ力を宿していた。
『お前をあの時生かしたのは、間違いだったかーー?瑪瑙、我が眷属を降りて、自由に生きるも、死ぬも構わないぞ』
その言葉に、瑪瑙は何も答えられなかった。
眷属を降れば、そのまま野生の蛇として過ごすことになる。
おまけに、この顕現できる力も無くなってしまうかもしれない。しまいには普通の蛇ではない化け物だと撮られ、人のメディアに晒されるかもしれない。
それに今、気に入っている音を奏でられなくなる。それだけは嫌だった。
『いえ、もう少しこのままでいさせてください。主……人の世を守る神霊として』
『ふっ、好きにするがいい……』
大神の声はそこで途絶え、消えた。心地よい涼風が吹き抜けていった。
『聖域にいた時は何とも思わなかったのに、今ではこんな空虚な感情を抱くなど……』
かつて、好意を抱いていた柘榴様ーーあの方のためなら悪いこともできた。多くの雄蛇たちに群がられ、自分は入る隙もなかった。
番とは一体なんだろうかーー?あの時に抱いていた感情と似たものではないのだろうか。
『柘榴様の香りは甘美なものだった…翡翠殿は棘のある香り、珊瑚殿は……』
仲間たちにあった香り、自分は神霊としても落ちぶれていたのかと、一人悲観する。
人の世界に浸れば、様々なものに触れることができ、学びがある。この暮らしが少しの楽しみとなっている。
『琥珀殿、私は少しですが、人になりたいと思えてきましたよ……』
瑪瑙はそう言葉を吐くと、再び夕方までその場で眠りにつくことにした。
***
夕方、目が覚めると、人に顕現し街へと繰り出す。
今日は別のアーティストの補佐をすることになっている。自分が奏でる音がどれだけその場で表現できるのか、日々それを試している。
最初は夜に一人、路上でギターを爪弾いていた。かつて聞いたことある聖域での音をーー。
そんな日々を過ごしていたある日、「演奏しないか?」と声をかけられた。
それから、音のある生活に集中し始めた。
今日も幕が上がるーーステージの明かりが灯れば、観客の熱い声が場内を包む。
名を呼ばれステージの位置に立ち、静かに演奏を始める。
ここが唯一、自分を表現できる場所。迷いを何もかも忘れられる瞬間ーー
今この場所にいる者たちの心を晴らせるように。音を届ける。
「瑪瑙ー!!」
名を呼ばれるたびに、ここに存在すると実感する。
ここにある一瞬の時間を、瑪瑙は観客を見ることなく演奏に集中した。
ライブが終わり、会場の熱がまだ残る中。
ステージ袖から出たばかりの瑪瑙は、ギターを背負ったまま、夜風に当たりに外へと出ると、外の空気を静かに吸い込んだ。赤い髪が汗で貼り付いているが、彼はそれを気に留める様子もなかった。
「あの、瑪瑙さん!!サポートお疲れ様でした。今日も最高でした」
一際明るい声に、彼はそっと顔を向けた。
前に立つ女性は頬を紅潮させ、握りしめているチケットにサインを求めている。
「……ありがとうございます。来ていただけて、嬉しいです」
瑪瑙はそう言って、丁寧にチケットを受け取り、簡素にサインを書く。
だが、その手はどこか機械的で、目も笑ってはいない。
「瑪瑙さんのサインて蛇が入ってるんですね?好きなんですか?あ、普段どんな音楽聴くんですか?よかったらまた今度ーー」
「すみません。今日は少し疲れていまして」
言葉を遮るわけではなく、あくまで丁寧に静かに。だが、その声音には距離がはっきりと滲んでいた。
女性が少し戸惑ったように口籠もると、瑪瑙は浅く頭を下げる。
「また、ライブでお会いできたら嬉しいです」
そのまま彼は視線を逸らし、楽屋へと入っていった。
彼にとって、ライブは伝えるための場であり、繋がる場ではなかったのだ。
その後、関係者たちと別れ、夜空に浮かぶ月を見ながら、瑪瑙は自分のいる神社へと戻っていった。
ーーかの場所から地を這うような濃い霧が、立ち込めていた。
虫の音もない。あるのは湿った土と腐葉(ふよう)の匂い、そして血に似た甘い香り。
淀んだ沼の祠の奥で何かが蠢いた。
『ざ、柘榴様……』
呻くような声がする。
それはかつて、琥珀と戦い、命を散らした翡翠の声だった。
彼の身体はかつての面影はなく、赤黒く爛(ただ)れた鱗と、緑の瞳がかつての名残を物語っていた。
ー柘榴の私念。
それは翡翠が最後に取り込んだ、狂気と愛の残り香
彼の魂を滅びから引き戻し、肉体を再構築させたのは、柘榴が死の間際に呟いた一言だった。
(……お前だけは、最後まで私を見ていた)
それは、愛にも似た呪詛ーー。
「……人など、愚かで脆い……精気を持って、我が身を満たすまで」
やがて、その場所から出た翡翠は、街の影に紛れ姿を変え、人の世に潜むのだった。
「っ…!翡翠殿…?」
一瞬かつての仲間の気を感じたが、もう過ぎ去ったこと。今また再会する事はない。
「気のせいだ。終わった事なのだから……」
神社の境内へと足を踏み入れた瑪瑙は、顕現を解き闇に消えたのだった。
弁財天の眷属は発情すると香りを発する。
自分には香りというものを感じたことがない。
番を得られてはいないのだから当然だろうーー。
本来、蛇の神霊は贄を捉えるために、独自の香りを放つことができるはずなのだが、瑪瑙は何も発することはなかった。
一度だけ贄を捧げられた時も、何も香りを放たなかったと思う。
他の仲間たちは確かに独自の香りを持っていた。
自分にはそんな力は備わっていないというのか。
薄れゆく意識の中で、そんな思考が頭を過っていた。
しばらくして、鳥の囀りが聞こえはじめ、空が明るくなってくるのがわかった。
『朝か……』
ゆっくりと目を覚まし、顔を空に向けた。
顔を上げた瞬間ーこの社の御祭神の声が響いてきた。
『瑪瑙よ、最近すっかり浮かない顔をしているな』
大神の声を聞き、瑪瑙はすぐさま蛇の自身の身体を地にひれ伏した。
『大物主様、おはようございます。目覚めが遅く、申し訳ございません』
『お前は未だに、琥珀のようになりたいと思っているのか?』
その問いに、瑪瑙は言葉を詰まらせた。
あの二人のように、種族を超えお互いの心を通わせれるような者に巡り合うことなどできるのかーー。
『お前はこのところ、この神域から出て、人間界に紛れているようだな』
『それは……』
大物主の眷属になり、もう幾度という年月が過ぎていた。
この地に留まっているというのも、退屈を感じだしたため、人の暮らしに混ざる生活をしている。
昼間は時折この神社で奉仕をして、夜は人の街のライブハウスで音を奏でている。
『で、お前の贄、いや番となる者は見つかりそうか?』
『……わかりません』
静かな社の中、瑪瑙は視線を落としたまま、身を強く震わせた。
『お前の一族は番を見つけるために香りを放つと言っていたな』
その一言に、静かに答えた。
『……私は……香りを、一度も発したことがありません。だから……』
番など、自分にはもう見つかるはずがない。そう言い切ってしまえば楽だった。だが、それは自分自身への嘘になる気がして、言葉を飲み込んだ。
「……それに、私にはそんな資格はないのかもしれません」
『資格……?』
大物主神の声は、決して咎めるようなものではなかった。けれど、深く、揺るがぬ力を宿していた。
『お前をあの時生かしたのは、間違いだったかーー?瑪瑙、我が眷属を降りて、自由に生きるも、死ぬも構わないぞ』
その言葉に、瑪瑙は何も答えられなかった。
眷属を降れば、そのまま野生の蛇として過ごすことになる。
おまけに、この顕現できる力も無くなってしまうかもしれない。しまいには普通の蛇ではない化け物だと撮られ、人のメディアに晒されるかもしれない。
それに今、気に入っている音を奏でられなくなる。それだけは嫌だった。
『いえ、もう少しこのままでいさせてください。主……人の世を守る神霊として』
『ふっ、好きにするがいい……』
大神の声はそこで途絶え、消えた。心地よい涼風が吹き抜けていった。
『聖域にいた時は何とも思わなかったのに、今ではこんな空虚な感情を抱くなど……』
かつて、好意を抱いていた柘榴様ーーあの方のためなら悪いこともできた。多くの雄蛇たちに群がられ、自分は入る隙もなかった。
番とは一体なんだろうかーー?あの時に抱いていた感情と似たものではないのだろうか。
『柘榴様の香りは甘美なものだった…翡翠殿は棘のある香り、珊瑚殿は……』
仲間たちにあった香り、自分は神霊としても落ちぶれていたのかと、一人悲観する。
人の世界に浸れば、様々なものに触れることができ、学びがある。この暮らしが少しの楽しみとなっている。
『琥珀殿、私は少しですが、人になりたいと思えてきましたよ……』
瑪瑙はそう言葉を吐くと、再び夕方までその場で眠りにつくことにした。
***
夕方、目が覚めると、人に顕現し街へと繰り出す。
今日は別のアーティストの補佐をすることになっている。自分が奏でる音がどれだけその場で表現できるのか、日々それを試している。
最初は夜に一人、路上でギターを爪弾いていた。かつて聞いたことある聖域での音をーー。
そんな日々を過ごしていたある日、「演奏しないか?」と声をかけられた。
それから、音のある生活に集中し始めた。
今日も幕が上がるーーステージの明かりが灯れば、観客の熱い声が場内を包む。
名を呼ばれステージの位置に立ち、静かに演奏を始める。
ここが唯一、自分を表現できる場所。迷いを何もかも忘れられる瞬間ーー
今この場所にいる者たちの心を晴らせるように。音を届ける。
「瑪瑙ー!!」
名を呼ばれるたびに、ここに存在すると実感する。
ここにある一瞬の時間を、瑪瑙は観客を見ることなく演奏に集中した。
ライブが終わり、会場の熱がまだ残る中。
ステージ袖から出たばかりの瑪瑙は、ギターを背負ったまま、夜風に当たりに外へと出ると、外の空気を静かに吸い込んだ。赤い髪が汗で貼り付いているが、彼はそれを気に留める様子もなかった。
「あの、瑪瑙さん!!サポートお疲れ様でした。今日も最高でした」
一際明るい声に、彼はそっと顔を向けた。
前に立つ女性は頬を紅潮させ、握りしめているチケットにサインを求めている。
「……ありがとうございます。来ていただけて、嬉しいです」
瑪瑙はそう言って、丁寧にチケットを受け取り、簡素にサインを書く。
だが、その手はどこか機械的で、目も笑ってはいない。
「瑪瑙さんのサインて蛇が入ってるんですね?好きなんですか?あ、普段どんな音楽聴くんですか?よかったらまた今度ーー」
「すみません。今日は少し疲れていまして」
言葉を遮るわけではなく、あくまで丁寧に静かに。だが、その声音には距離がはっきりと滲んでいた。
女性が少し戸惑ったように口籠もると、瑪瑙は浅く頭を下げる。
「また、ライブでお会いできたら嬉しいです」
そのまま彼は視線を逸らし、楽屋へと入っていった。
彼にとって、ライブは伝えるための場であり、繋がる場ではなかったのだ。
その後、関係者たちと別れ、夜空に浮かぶ月を見ながら、瑪瑙は自分のいる神社へと戻っていった。
ーーかの場所から地を這うような濃い霧が、立ち込めていた。
虫の音もない。あるのは湿った土と腐葉(ふよう)の匂い、そして血に似た甘い香り。
淀んだ沼の祠の奥で何かが蠢いた。
『ざ、柘榴様……』
呻くような声がする。
それはかつて、琥珀と戦い、命を散らした翡翠の声だった。
彼の身体はかつての面影はなく、赤黒く爛(ただ)れた鱗と、緑の瞳がかつての名残を物語っていた。
ー柘榴の私念。
それは翡翠が最後に取り込んだ、狂気と愛の残り香
彼の魂を滅びから引き戻し、肉体を再構築させたのは、柘榴が死の間際に呟いた一言だった。
(……お前だけは、最後まで私を見ていた)
それは、愛にも似た呪詛ーー。
「……人など、愚かで脆い……精気を持って、我が身を満たすまで」
やがて、その場所から出た翡翠は、街の影に紛れ姿を変え、人の世に潜むのだった。
「っ…!翡翠殿…?」
一瞬かつての仲間の気を感じたが、もう過ぎ去ったこと。今また再会する事はない。
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