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四話 小説は何よりも心の薬に成り得る
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翌週になると、私はより一層、本の世界を彷徨うようになった。
昔を思い出したのがいけなかったのかもしれない。
朝子と話したのが、同級生の甘い香りが、飲み会の笑い声が、夜のざわめきが。
大した問題がないことが問題だった。
何もないのにどうにも動けない心は甘えの象徴のように思えて、
また自分を責める理由が深まっていくようだ。心が絡まってほどけなくなってしまったようで、とにかく違う世界へ逃げ込みたかった。
大学の講義は試験が終わったばかりで、しばらく登校の必要はない。
本当は試験の後は語学のクラスでお菓子を食べながら教授と話すパーティのようなものがあるのだが、成績に関係ないのと、そういう気分ではないので、サボってしまった。
さておき、大学生の春は長いのだ。
携帯の電源を切って、適当に放り、近所のスーパーで水や、お茶、カップヌードル、チョコレートなどを買ってきて、後は朝から晩まで本を読む。
大学の図書館で限度まで借りた本をベッドの横に積んで、ひたすら読み続けた。
足りなくなれば、最寄りの図書館、隣町の図書館に足をのばし、さらに本の山を作り上げる。
行き帰りの時間がもったいなくて、歩きながらも本を読んだ。
読んで既読の山を作ることに安心感を覚えていた。
何かを確実に成し遂げているような気がしていた。
ありとあらゆるジャンルの中でも、小説は何よりも心の薬に成りえるものだ。
指先が、薄い紙の端を摘まんで、捲る。
それだけの動作で、私は誰にでもなれる。
黙っていれば、彼らがすべてを解決してくれる。
一旦携帯電話をオフにしてしまえば、一人暮らしの部屋は、物音をたてることもなく、何も私を責めるものはなかった。不思議なことに、いつも部屋に敷き詰められていた不安の種は、本を読んでいる際にかかる一種のもやのようなもので見えなくなっている。
朝か昼か夜か、男か女か、幸せか不幸か。
全てその時の物語の中の時間で決まってゆく。
現実の前にきっとあるはずの太陽も月も、頼りなく細い白い両手も、いまは何の意味も持たなかった。
腹立たしかった。何もかもが。上手く思い描けない未来が。友人たちの笑顔が。
輝くような日々はどうやって、受け取る人間を選ぶのだろう。
必死で勉強したら。
地元のみんながうらやましがるような有名な大学に入れたら。
東京の街に来たら。
ひとりきり、この大きなからくりの街に辿り着いた時、
自動的に手に入れたはずだった輝く未来行きの切符は、
春の風に流され、いつのまにか、幼く温めてきた希望すら姿を消してしまっていた。
からくりの街に、ひとりきり。
ある日、長編を読み終えて、ぱたりと閉じ、次の本の山に手を伸ばすと、本と本との間に、本のようで本でないものが挟まっていることに気付いた。
ひっぱって手元に寄せると、本が雪崩のように崩れ落ちていったが、さして気に留めなかった。取り出してみれば、それは私が使用している手帳で、物語の世界から急に呼び戻されたような、虚をつかれた気持ちにさせられた。
大人ぶって買ったベージュのA5サイズの手帳は、ハードカバーの本と並ぶほど重くて、その重みがむしろ気に行って手に入れた一品だったのだ。ぱらりと頁をめくってみると、前期に張りきって記入した時間割がびっしりと書き込まれている。
「ん・・・?今日、何曜日だっけ。」
一言言葉を発して、そして自分の声が異様にガラガラであることに気付く。
喉が渇いた・・・そう思って立ち上がり、台所のシンクに水を汲みに行く。
身体がとてもだるい。コップに水を汲み、一口で飲み干すと、壁にかかったカレンダーに目をやる。1月・・・。2月か・・・?いや、1月??
たしかこの間の飲み会は1月末にあったので、もしかしたらもう2月なのかもしれない。
なにしろここには一人しかいなかった。時間の管理者は自動では現れない。
「そうだ、携帯・・・。」
部屋の方に振り向いて、そして愕然とする。
本、本、本、いたるところに積み上げられた本の山で、
7畳のワンルームは埋め尽くされていた。
ベッドの上にも本が散らばっており、合間合間に、カップラーメンの容器やペットボトル、菓子パンの袋が散乱している。改めてみた光景に、半ば唖然としてから、少し怖くなって携帯を探す。現金なことに、早く外の世界と繋がりたかった。
やっとの思いで探しだした携帯はすでに電池が切れ、真っ黒な画面がこちらを見つめている。
充電コードをひっぱってきて、プラグを差し込むと、少ししてからようやく画面が立ち上がった。齧りかけの林檎のマーク。連動したように、ぎゅるぎゅると鳴りだした腹の虫を、どうにか抑えつけながら、完全な起動を待つ。
起動した、と思った途端に、ブルブルと振動が続き、数百件のメールと、数十件の着信履歴が示される。画面上段に映し出された日時には、3月2日、とあった。
「3月・・・?え?・・・・3月・・・・?」
立ち上がって窓を開けると、以前より確実に暖かくなった風が、どんよりとした部屋の空気をさらっていった。アパートの目の前に植えられた桜の木たちの中で、気の早い一本の枝に咲いた一輪の桜が、こちらを見て、くすりと笑った。
昔を思い出したのがいけなかったのかもしれない。
朝子と話したのが、同級生の甘い香りが、飲み会の笑い声が、夜のざわめきが。
大した問題がないことが問題だった。
何もないのにどうにも動けない心は甘えの象徴のように思えて、
また自分を責める理由が深まっていくようだ。心が絡まってほどけなくなってしまったようで、とにかく違う世界へ逃げ込みたかった。
大学の講義は試験が終わったばかりで、しばらく登校の必要はない。
本当は試験の後は語学のクラスでお菓子を食べながら教授と話すパーティのようなものがあるのだが、成績に関係ないのと、そういう気分ではないので、サボってしまった。
さておき、大学生の春は長いのだ。
携帯の電源を切って、適当に放り、近所のスーパーで水や、お茶、カップヌードル、チョコレートなどを買ってきて、後は朝から晩まで本を読む。
大学の図書館で限度まで借りた本をベッドの横に積んで、ひたすら読み続けた。
足りなくなれば、最寄りの図書館、隣町の図書館に足をのばし、さらに本の山を作り上げる。
行き帰りの時間がもったいなくて、歩きながらも本を読んだ。
読んで既読の山を作ることに安心感を覚えていた。
何かを確実に成し遂げているような気がしていた。
ありとあらゆるジャンルの中でも、小説は何よりも心の薬に成りえるものだ。
指先が、薄い紙の端を摘まんで、捲る。
それだけの動作で、私は誰にでもなれる。
黙っていれば、彼らがすべてを解決してくれる。
一旦携帯電話をオフにしてしまえば、一人暮らしの部屋は、物音をたてることもなく、何も私を責めるものはなかった。不思議なことに、いつも部屋に敷き詰められていた不安の種は、本を読んでいる際にかかる一種のもやのようなもので見えなくなっている。
朝か昼か夜か、男か女か、幸せか不幸か。
全てその時の物語の中の時間で決まってゆく。
現実の前にきっとあるはずの太陽も月も、頼りなく細い白い両手も、いまは何の意味も持たなかった。
腹立たしかった。何もかもが。上手く思い描けない未来が。友人たちの笑顔が。
輝くような日々はどうやって、受け取る人間を選ぶのだろう。
必死で勉強したら。
地元のみんながうらやましがるような有名な大学に入れたら。
東京の街に来たら。
ひとりきり、この大きなからくりの街に辿り着いた時、
自動的に手に入れたはずだった輝く未来行きの切符は、
春の風に流され、いつのまにか、幼く温めてきた希望すら姿を消してしまっていた。
からくりの街に、ひとりきり。
ある日、長編を読み終えて、ぱたりと閉じ、次の本の山に手を伸ばすと、本と本との間に、本のようで本でないものが挟まっていることに気付いた。
ひっぱって手元に寄せると、本が雪崩のように崩れ落ちていったが、さして気に留めなかった。取り出してみれば、それは私が使用している手帳で、物語の世界から急に呼び戻されたような、虚をつかれた気持ちにさせられた。
大人ぶって買ったベージュのA5サイズの手帳は、ハードカバーの本と並ぶほど重くて、その重みがむしろ気に行って手に入れた一品だったのだ。ぱらりと頁をめくってみると、前期に張りきって記入した時間割がびっしりと書き込まれている。
「ん・・・?今日、何曜日だっけ。」
一言言葉を発して、そして自分の声が異様にガラガラであることに気付く。
喉が渇いた・・・そう思って立ち上がり、台所のシンクに水を汲みに行く。
身体がとてもだるい。コップに水を汲み、一口で飲み干すと、壁にかかったカレンダーに目をやる。1月・・・。2月か・・・?いや、1月??
たしかこの間の飲み会は1月末にあったので、もしかしたらもう2月なのかもしれない。
なにしろここには一人しかいなかった。時間の管理者は自動では現れない。
「そうだ、携帯・・・。」
部屋の方に振り向いて、そして愕然とする。
本、本、本、いたるところに積み上げられた本の山で、
7畳のワンルームは埋め尽くされていた。
ベッドの上にも本が散らばっており、合間合間に、カップラーメンの容器やペットボトル、菓子パンの袋が散乱している。改めてみた光景に、半ば唖然としてから、少し怖くなって携帯を探す。現金なことに、早く外の世界と繋がりたかった。
やっとの思いで探しだした携帯はすでに電池が切れ、真っ黒な画面がこちらを見つめている。
充電コードをひっぱってきて、プラグを差し込むと、少ししてからようやく画面が立ち上がった。齧りかけの林檎のマーク。連動したように、ぎゅるぎゅると鳴りだした腹の虫を、どうにか抑えつけながら、完全な起動を待つ。
起動した、と思った途端に、ブルブルと振動が続き、数百件のメールと、数十件の着信履歴が示される。画面上段に映し出された日時には、3月2日、とあった。
「3月・・・?え?・・・・3月・・・・?」
立ち上がって窓を開けると、以前より確実に暖かくなった風が、どんよりとした部屋の空気をさらっていった。アパートの目の前に植えられた桜の木たちの中で、気の早い一本の枝に咲いた一輪の桜が、こちらを見て、くすりと笑った。
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