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本編
『悪夢を見続ける女』上
しおりを挟む――今となっては詳しい日時までは覚えていないが、確かそれは、いつも通りに憂鬱な、月曜日の事だった気がする。
『昨日、午前9時頃。××駅のホームにて、無職の男性により線路に突き落とされた会社員の女性が死亡する、という事件がありました。――目撃者の情報によりますと、犯人は特急電車がホームに入るタイミングを狙って突き落としたようだった、との事で――』
「え、こわ……」
朝食のパンをかじりながらニュースを見ていた私は、その事件に寒気を覚え、思わずそう呟いた。
― 悪夢を見続ける女 ―
『――でも元気を出して! 今日のラッキカラーは水色! 運気に負けず、水色のアイテムを持って、ハッピーに過ごしてね! 今日も良い一日を!』
「……、はぁ……。占っといて運気に負けずって……そもそもビリなんだからハッピーに過ごせるわけないじゃん」
今朝のイヤなニュースに重なり、番組を締めくくる星座占いではビリ。
既にハッピーなどとは程遠い朝を過ごしているのだから、朝を共にした水色のマグカップが無能だったという事は明白だ。
私はその事実に改めて溜め息をつき、なんとなくの反抗心から真っ白なハンカチを手に取り鞄に入れた。
「ま、所詮占いだし」
自分の星座が絶好調だった日は喜ぶくせに、ビリの日はインチキだと切り捨てる。
そんな自分に少し呆れながらも忘れ物のチェックをし、次いでスマートフォンを手に取り時間を確認した。
そして、いつも通りの余裕さに満足し、よし、と声に出すなり家を出た。
(それにしても、ヤなニュースだったなぁ……殺された女の人も可哀想だし……)
やや早すぎるほどの時期に夏日を迎えたその日も、いつも通り仕事に向かうべく、お気に入りの音楽を聴きながら最寄り駅へと向かっていた。
そしてそんな中、私は今朝のニュースで報道された、あの不穏な事件の事を思い出していた。
なんでもそのニュースによれば、あの事件の犯人と思われる男は、顔も名前も分かっているというのに未だに捕まっていない、との事らしい。
しかも――だ。
(自分の知り合いが犯人とか、めちゃくちゃ気分悪い……)
まさかそんな形で知り合いの名前を見る事になるとは思ってもおらず、星座占いの信憑性が図らずも高まるばかり――といったところであった。
(でもほんと……あの時に縁切っといて良かったな……)
私は、“ある日を境に知人に降格した”その人物との過去のやり取りを思い出し、改めてそんな事を思ったのであった。
その後、まるで真夏のような炎天下を潜り抜けた私は、なんとか辿り着いたホーム内のいつも通りの場所で電車を待っていた。
すると、ちょうどその時イヤホンから聞こえていた曲が終わり、次の曲が聞こえ始めるまでの一瞬の無音の中。
なんだか妙な音が聞こえた気がして、私はさりげなくイヤホンを外した。
(えっ……、何……?)
そうしてイヤホンを外してみると、その妙な音はどうやら自分の左隣にいる男が出しているものらしいと分かった。
いや、音というよりは、声――と言った方が正しいか。
何とも気味が悪いことに、自分の後にそこに並んだその男は、先ほどからずっとぶつぶつぶつぶつと何かを呟き続けていたらしい。
(気持ち悪……)
私は心の中でそう呟くなり、本日の度重なる不運を恨んだ。
そして、なぜか無性に腹が立った為、思いきり睨んでやろうと思い、手始めにその男の顔を盗み見た次の瞬間――私は硬直した。
ただ、そんな私を知ってか知らずか、その男は微動だにしなかった。
だが、私がその男を“彼”だと認識した直後から、その男はぱったりと何かを呟くのをやめた。
そして、今度ははっきりと、
「月が……綺麗ですね……」
と言った。
「……」
私の心は、その声で紡がれたその台詞を聞いた途端、強い拒絶反応を示した。
そして、私の脳内では、“彼”との様々な過去のやりとりがフラッシュバックする。
――逃げなければ
吐き気すら催しそうな恐怖を覚える中、この状況に対し、本能がそう感じたと同時に私はその場から逃げだそうとした。
だが出来なかった。
足が動かなかったのだ。
何故だかは分からない。
分からないが、どうしても動かなかったのだ。
――殺される
本能は次にそう感じた。
だがそれでも体は動いてくれなかった。
そこでついに心がその恐怖に耐えられなくなり、喉元までせり上がってきた悲鳴が音になろうとした時、その男は突然こちらに顔を向けるなり、酷く強い力で勢いよく私の両肩を掴んだ。
そして、口で三日月を描くかのような笑顔を作り、言った。
「やっと見つけた」
私が叫び声を上げる事ができたのは、それから数秒後の事だった。
痛いほど脈打っている胸元を抑え、未だに震える手でスマートフォンを見た。
すると、現在時刻は目覚ましが鳴るには少し早い時間だった。
自分の叫び声で目を覚ますのはいつぶりだろうか。
「夢……」
私は漫画の主人公のような台詞を発し、ここが現実である事を確認する。
どうやら酷い悪夢を見たらしかった。
「最悪……」
月曜日の朝からまったくもって不愉快である。
「はぁ……」
酷い悪夢による恐怖で、未だに呼吸も体も震えているのが分かる。
だが、そんな恐怖心も、外から聞こえる鳥の鳴き声のおかげで少しずつ和らいでいった。
「ご飯食べよ……」
恐怖を和らげたいという気持ちがあるのか、何故だかいちいちと全てを声に出したくなり、その日は独り言の多い朝となった。
そうして朝の時間を過ごした末、忘れ物のチェックをし、スマートフォンで時間を確認すると、いつも通り余裕をもった出勤ができそうな時刻であった。
「よし」
出だしこそは最悪ではあったが、その後は問題のない朝を過ごせた為、私の心は大分晴れやかな状態に戻っていた。
恐らく、ニュース番組などは諸悪の根源と思い、その日は気分を変え、動画サイトでお気に入りの動画を見ながら朝食を済ませたのが功を奏したのだろう。
そんな選択ができた自分にも満足し、私はそのまま鼻歌まじりに家を出た。
その後、まるで真夏のような炎天下を潜り抜け、最寄駅のホームに辿り着いた私は、いつも通りの場所で電車を待っていた。
だが、せっかく朝に持ち直した気分も、なぜかそこに立つと突然勢いを失ってしまった。
当たり前だが、今眼前にあるのは、夢で見た光景とまるきり同じなのだ。
そして不運にも、夢の中の映像は全てはっきりと覚えている。
だからこそ、夢の中の“この場所”で向けられた、あの狂気的な笑顔も、はっきりと思い出せてしまった。
「……」
私はそこで思わず身震いした。
(でも、あれは夢なんだから)
いつまでもそんな夢を引きずっていても仕方がない。
(……早く忘れなきゃね)
そうして、私がそんな自分との問答でそう結論を出し、なんとか気分を持ち直そうとしていると、不意に隣に一人の男が並んだ。
「……」
夢だと分かっていても、一度体で感じた恐怖はそう簡単には拭えないらしい。
私は自分の体が硬直し始めている事に気付き、そう思った。
(まさかね……)
だが、負けるものかと思い、勇気を出してその男の顔を盗み見る。
「……」
すると、その男の顔は、自分にとっては全く見覚えのない顔だった。
その事実に対し、私は酷く安堵した。
(そりゃそうだよね……あれは夢なんだから。私、怖がり過ぎ……)
そして、そんな怯え様に自分でもおかしくなりながら改めてその人を見ると、その人は想像していたよりも年輩だったが、随分と凛々しい印象を受ける男性だった。
背筋もピンと伸びており、スーツも皺ひとつなく、高級感のある身なりをしていた。
(かっこいいおじさんだなぁ……)
私の脳は随分と単純らしく、今まで悪夢の恐怖に支配されていたというのに、今はたまたま見かけた男性の魅力に脳を支配されている。
これは一応、不幸中の幸いといったところかもしれない。
そして私は、そんな魅力的な男性が隣に居る事を誰かに報告したくなり、スマートフォンでSNSを開き、投稿欄に文字を打ち込み始めた。
するとその時、お気に入りの曲が演奏を終え、次の曲が演奏を始めようとするまでの一瞬の無音の中、何者かの声が聞こえたような気がした。
「……」
私は思わずスマートフォンを操作する手を止めた。
(……え? うそでしょ……)
冷静にならなくては。まず、ここは現実だ。
だからあの声が聞こえるはずがない。
そう、聞こえるはずがないのだ。
分かっている。分かっている。
だが、――だが確かに聞こえた。
聞こえてしまったのだ。
聞き覚えのある、あの声が――
「月が……綺麗ですね……」
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