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本編
『悪夢を見続ける女』下
しおりを挟むほら、やっぱり聞こえる。
(うそ……)
でもそんなはずはない。あれは夢なのだから。
(もしかして……心配しすぎて幻聴聞こえてるとか……?)
確かに昨晩は眠りにつくのが遅かった。
もしかしたら寝不足や疲れのせいであんな悪夢を見た挙句、こんな幻聴まで聞こえているのかもしれない。
(そうだよ。そういう事もあるってネットに書いて――)
「月が綺麗ですね」
「……」
繰り返されるその言葉に、己の心が徐々に蝕まれていくのが分かる。
私はその緊迫感に耐えられなくなり、震える手でそっと、誰にも悟られないように、さりげなくイヤホンを外した。
「月が綺麗ですね」
そうして直にその声を聞いた瞬間、私の心臓は痛いほどに大きく脈打った。
幻聴などではない。
これは幻聴などではない。
本当に聞こえているのだ。
(後ろにいる……)
この声は、真後ろから聞こえている。
男は真後ろから私に語り掛けてきているのだ。
「月が綺麗ですね」
(やめてよ……)
私の拒絶の念も虚しく、男はただひたすらに何度も何度もそう語り掛けてくる。
(なんで……? なんでいるの……?)
もしかするとあの悪夢は警告夢――いや、正夢だったのか。
まずい。
もしもそうだとすれば、このままでいると私も夢の中の女の人のように殺されてしまう。
だが、下手に動く事はできない。
あれが本当に正夢ならば、ここで逃げ出そうとするときっとこの男に捕まってしまうのだ。
(どうしよう……どうしたら……)
誰か――誰かに助けてもらわないと――。
そう思った私は目だけを動かし、周囲に視線をやる。
しかし、そんな努力も虚しく、その場にいる誰一人として自分の方を気にかけてはくれなかった。
(………………なんで? なんで誰も気付いてくれないの……? そもそも、コイツはずっと一人で喋ってるのに……なんで誰も何も言わないの? どう考えても危な奴なのに……! どうして!?)
私はそこで恐怖からの憤りを感じ、先ほどから隣にいる、頼りがいのありそうなあのスーツの男にさりげなく視線を向けた。
そして、その人を横目で確認するなり、とある事実に気付いた私は愕然とした。
その人の耳には、イヤホンがあった。
(もしかして……聞こえて、ない……?)
そうだ……この真後ろにいる男の声は今、私以外の誰にも聞こえていないのだ。
今の時代、通勤時間はほとんどの人がイヤホンをして過ごしている。
だから、私の心の声どころか、そもそも他人の声など聞こえやしないのだ。
それが、現代では“当たり前のこと”なのだ。
(……どうしよう……どうしよう……)
そんな事実に絶望した私は、気が狂いそうなほどの恐怖の中、必死に考えた。
そして、とにかくその状況から逃れたい一心で、まずはその男の声を遮断する事にした。
――私も“聞かなければいい”。
私はそう考えた。
無視してしまえばいい。
無視していれば、いずれ電車が来る。
きっと電車に乗ってしまえば助かる。
電車に乗ってしまえば大丈夫だ。
私はその時、――そんなはずがない――という事を考えられないほどに気が動転していた。
この男は自分の真後ろにいるのだから、同じ車両に乗らないわけがない。
更には電車内では逃げ場もない。
それなのに、私はもう、そんな事も考えられなくなっていたのだ。
(電車にさえ乗っちゃえば……)
自分の乗る電車が来るのは、次の特急電車が通過した後だ。
それまでの時間さえなんとか耐えられれば大丈夫だ。
(お願い早く……早く来て)
私はそう祈りながら、震える手でイヤホンを耳につけようとした。
だがその次の瞬間。
「また俺を無視するのか!!!!!!」
突如そんな怒鳴り声を浴びせられた私は、後ろから異常なほどに強い力で両肩を掴まれ、そのまま物凄い勢いで前へと押し出された。
そして、後ろからのしかかってくるようなその男の力に耐え切れず、私は押し出されるままに線路へと飛び出した。
そうして私は、何も理解できぬままに、左手から迫っていた特急電車の轟音とライトの光を全身に浴びて――
私は、体が大きく痙攣したのであろう余韻を感じながら飛び起きた。
「夢……」
そして、漫画の主人公のような台詞を発し、ここが現実である事を確認する。
どうやら私は、またあの悪夢を見てしまったようだった。
「最悪……またなの……?」
これで一体何度目だろうか。
その答えはとうに分からなくなってしまったが、それであっても、夢の最後に受ける衝撃には未だに慣れる事はない。
毎度毎度、月曜の朝からまったくもって不愉快である。
「はぁ……もういいや。とりあえずご飯食べよ……」
そんな不愉快な気持ちを払拭すべく、私はまた独り言の多い朝を始める事となった。
「う~ん……また埃だらけになってるなぁ」
その後、朝食を終えた私は、家の中を見回してそう言った。
実は、あの酷く不快な悪夢を繰り返し見ては飛び起きるようになってから、この家の中では妙な事が起こっていた。
なぜかここ最近、朝目覚めると、家中が埃だらけになっているのだ。
早いうちに両親を亡くした私は、大人になってからも実家であるこの家で一人暮らしをしているのだが、掃除好きというのもあり、家の中はこまめに掃除していた。
だから、一晩でこんなにも埃まみれになる事はあり得ないはずなのだ。
だが、現状はこの有様である。
まったく困ったものだ。
「ま、考えても仕方ないよね。仕事から帰ってきたらまた――……あれ?」
そういえば、私は何の仕事をしていたんだったか。
どうやら私はまたひとつ、大切な事を忘れてしまったらしい。
まだ老化が始まるような年齢でもないはずなのに。
実のところ、あの悪夢を見るようになってから私自身にも妙な事が起こっており、どうにもあれから徐々に物忘れが激しくなっているようなのだ。
(てか、私って何歳だっけ……)
幼い頃は自分の年齢を忘れる事などなかったのに、大人になると自分の年齢すら曖昧になる。
「ま、いっか。……でも、あの夢の後、私ってどうなったんだろ」
私は多くの疑問を抱える中、改めてそんな事を思った。
夢の中の出来事だから、誰に訊こうとも真実など分からないのだが、よく分からないままに夢が終わってしまうのもなんだか気持ちが悪い。
確か、自分が死ぬ夢というのは何かと意味があるらしいのだが、死んだかどうかが分からないのでは調べようもない。
また、夢というのは自分の意志で続きを見る事もできると聞いて、それも試してみようと思ったが、それも失敗に終わっている。
それゆえに、どうしてもいつも電車に衝突した瞬間に夢が終わってしまい、衝撃を受けた瞬間に目を覚ます、という毎日を繰り返している――というのが現状だ。
(意地悪な夢……なんで続き見れないんだろ)
私はそんな悪夢に不満を抱きながらも仕事に出る為の支度にとりかかる。
「えっと……」
だがその時、またひとつ思い出せなくなった事があり、首を傾げる。
「私って誰だっけ……」
また新しく大切な事を忘れてしまったらしい。
まったく困ったものだ。
「ま、いっか。そのうち思い出すよね」
これまでの経験上、思い出せない事を無理に思い出そうとしても無駄なのだ。
だから無理に思い出すより時間に任せる方が良い。
「きっと私、疲れてるんだろうなぁ」
やはり寝不足というのはよくないのだ。
(明日からは早く寝よ……)
私はそう思い、いつの間にか済んでいた支度に満足し、いつも通りイヤホンをして、いつも通りに家を出た。
そして、お気に入りの音楽を聴きながら最寄り駅に着くなり、いつも通りの場所で電車を待った。
(……またぁ?)
ところでここ最近、私には新たな悩みができてしまった。
それは、ホーム上のマナーが非常に悪くなったという事だ。
これも、あの悪夢を見るようになってからなのだが、私が先頭に並んでいるというのに後ろに並んだ人間が酷く前に詰めてくるのだ。
(ほんっと気持ち悪いし迷惑……)
だから毎朝、私は黄色い線の前に出て電車を待つようになった。
まったく困ったものだ。
まぁ一応の事、幸いにもそれを駅員に注意されるような事はこれまでで一度たりともない。
だから私は、それならいいかと、悪夢を見るようになってからも、いつも通りに毎日を過ごしている。
「月が……綺麗ですね……」
その声が聞こえるまでは――。
(なんだ、またこの夢か……。誰だか知らないけど、毎回毎回うるさいなぁ……)
今度こそ起きたと思ったのだが、どうやら私は、まだ夢の中にいるらしい。
「月が綺麗ですね」
(うるさいなぁ……コイツ、私となんの関係があるの……?)
私はそう思い、見ず知らずの男の声を遮断すべくイヤホンをしようとする。
すると後ろの男はいつも通り、また怒鳴り声を浴びせてくる。
「また俺を無視するのか!!!!!!」
そして、両肩を強く掴まれ、そのまま線路へと押し出される。
(痛いなぁ……またって何なの……?)
その男の力に抵抗する事ができない私は、そんな不満を抱きながら、また、男と共に線路へと飛び出す。
(早く起きなきゃ)
そうして私は左手から迫りくる特急電車の轟音とライトを全身に浴びて――
体が大きく痙攣したらしい余韻を感じながら、私は目を覚ました。
「夢……、またこの夢かぁ……」
私はスマートフォンで現在時刻を確認するなり、部屋を見回して溜め息をついた。
「はぁ……もうなんなの……? なんか更に埃積もってんじゃん……」
終
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