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第三話『 成 』 - 01 /08

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「話はわかったよ。家賃についてはとりあえず君の体が回復してからで構わない。それと、いつの時期から支払いを再開するかは、君が元気に働けるようになったら話そう。だから今は、自分の事だけを考えなさい」
 そのアパートの大家である牧村まきむらがそう言うと、203号室の住人である青年は深く深く頭を下げた。
「本当に……すみません……」
 今にも声を失ってしまうのではないかと思うほどか細い声でそう謝罪した彼は、頭を下げる動作ですらも体に響くのか、壁にもたれながらゆっくりと頭を上げる。
「い、いいから。謝罪ももう十分受け取った。だからもういいんだよ。家賃はいいが、そんな状態で食事はできているのかい。まさか、水分もとってないんじゃあないだろうね……」
「あ、はい……だいじょ、ぶです……水は……」
 水は、という事はおそらく食事はできていないという事なのだろう。
 牧村は直感的にそう思った。
 本来ならば、体が弱っているからと言ってこのように特定の住人を特別扱いするなどするべきではない。だが、牧村という男は、それができぬ人間であった。
「……雪平ゆきひら君。君、ここのところ医者にも行けていないんだろう? 良ければ明日、私と一緒に行こう。な。なぁに、私もそれなりに人助けできるくらいの所得はある。君の心が許さないなら一時的にでもいいから、それで適切な治療を受けて、一度心身ともにゆっくり休みなさい。どうだい?」
「…………い」
「ん?」
「ごめん、なさい……」
「あぁ。もういいんだよ。辛かったね。君はもう十分頑張った、大丈夫だ。」
 2015年の春にこの203号室にやってきた彼は、年齢に比べやや童顔で、可愛らしい笑顔が特徴的な青年だった。
 彼は入居日、ふわりと柔らかそうなクセッ毛を揺らしては、牧村に、これから宜しくお願いしますと元気に頭を下げていたのだ。
 そんな彼は今、まるで花弁をすべて散らせてしまった桜の木と同じく、枯れ枝のように痩せこけた手足を震わせている。地毛だと言っていた、金色の愛らしいクセッ毛すらも傷ませ、その髪で顔を隠すようにしてうずくまり、小さな小さな嗚咽と謝罪の葉を落とす。
 12月の寒空の下、玄関口で少年のように泣く彼の背を、牧村はただただゆっくりとさすってやった。
「……すみませんでした」
「いや、いいんだよ。それじゃあ明日、また迎えに来るから」
「あの、その事なんですが。大丈夫です」
「え?」
「ちゃんと明日、自分で病院に行きます。ダメだったら救急車を呼びます。なので、今はそのお気持ちだけで」
「……そうか」
「はい」
 牧村は、彼がこれまでのやりとりで少し気が楽になったのかと思い、心持ち元気そうに話してくれるその様子に安心した。
 彼は、まだそのおぼつかない足で立ち上がり、今一度、牧村に深くお辞儀をした。
「はは、もう礼も詫びも十分だよ。それじゃ、電気代の事も気にせず、ちゃんと暖房で暖まるんだよ。それと、風呂上がりは湯冷めに気を付けるんだぞ。この時期はそれも命取りになるからな」
「はい」
「うん。それじゃあ、また来るから」
「はい。……あ、あの!」
 そう言って踵を返そうとした牧村を、少し大きな声で彼が呼び止める。
「うん? なんだね?」
「あの……本当に本当に、ありがとうございました」
「あぁ」
 再び頭を下げるのかと思えば、弱々しくはあったが入居当時の面影を思わせるような笑顔で礼を言った彼に、牧村は少し嬉しくなり、笑顔を返した。
 そして、寒空の中いそいそと車に戻り、母が腹を空かせているだろうと思い、急ぎ足で自宅に戻ったのだった。
 
 
 
――私が離れていても、もう一人の私がずっとここに居るからね
  寂しくないよ、ずっとそばに居るから
  ねぇ……私の事、一生愛してくれるのよね
  ねぇ……私の事、一生幸せにしてくれるのよね
  ねぇ……私とずっと一緒に居てくれるのよね
 いつもの時間。いつもと同じ物音がし出して、その音が落ち着いたかと思うと、いつも通り髪の長い女が押入の床板をすり抜けて顔を出す。
 次いで、体が重たいのか、両肘を一度ずつ痛々しい程の強さで板に打ち付けながら、上半身を持ち上げる。そのようにして器用に床板の下から這いずり出て来た女は、そのままずるずるとこちらへ向かってくる。
 そしていつも、こちらの耳元まで辿り着くと甘くねっとりとした声で囁いてくるのだ。
 いや違う。
 確認してくるのだ。
 私を愛してくれるのか、幸せにしてくれるのか、ずっと一緒に居てくれるのかと。
 ひたすら繰り返してくる。
 それは、耳元でなのか、もう耳の中に入りこまれてるのかわからないくらいの距離で、女は確認を繰り返すのだ。
 喘ぐように絞り出す声が、金切声のような音となって脳内に響く。
 そして、それがどんどんと耳の中で増殖し、まるで音割れした音声を大音量で聞かされているかのような状態が続く。その不快感には、徐々に吐き気すら込み上げてくる。
 でも今日は、いつもより音が遠い気がする。やはり這いずる事しかできないのか、ここまでは上がって来られないらしい。
 足首が痛いほど強く掴まれているのがわかる。いつもは寝たまま金縛りにかかってしまうから、耳を占領されてしまうのだが、今の状況では、彼女は椅子に乗せているこの足を掴むのが限界らしい。
 彼女が自分を見上げている。異様なほど首を仰け反らせながら。
 怒っているのだろうか。今日は少し動きが荒々しい気がする。
「ごめんね。俺は君を幸せにはできないよ。だって俺も、君と同じように、ずっと好きな人がいるんだもの。君も君の好きな人と一緒になれなかったんだよね。辛いよね。わかるよ。でも、それでも俺は、君を愛する事もできないし、ずっと一緒に居てあげる事もできないんだ。俺も君と同じで、その人の事しか考えられないから。悪いけど、別の人をあたって。ごめんね。それじゃ、ばいばい」
 彼が彼女にそう言葉を紡ぐ間も、彼の足首を締め上げながら、彼女は延々と確認という呪詛を繰り返し続けていた。
 
 
 
「何してるんだ、まったく……」
 牧村はその日、深夜に再び車を走らせていた。
 たまたまその日は、牧村の妹も母の顔を見る為に実家へ来ていた。
 そんな事もあり、牧村は、アパートから帰宅した後、母と妹と食事をとりながらその時間を楽しんでいた。
 だが、時刻が深夜に近付くにつれ、203号室の青年が最後に見せた笑顔と言葉を思い出し、なぜだか徐々に妙な胸騒ぎを覚え始めたのだった。
 別れ際にはあたたかな気持ちにさせてくれたあの笑顔は、その時にはもう、鮮明に思い出せば思い出すほど、ただただ牧村の胸騒ぎをより強くさせるだけのものとなっていた。
 どうするべきかと悩み抜いている内に、時刻は深夜3時にまでなってしまい、焦燥感に背を押されるまま車に乗り込み、アパートへと向かった。 
 そうして、嫌な汗と共に203号室前に辿り着いた牧村は、目の前のドアを軽くノックをする。
「流石に寝ているか……」
 腕時計を見てみれば、時刻は深夜三時半を回っていた。
 馬鹿な事をしたものだと思い、牧村が踵を返そうとした時、部屋の中から妙な物音が聞こえた気がして足を止める。
「ん?」
 不思議に思い、ドア越しに耳を澄ませてみると、何かが這いずるような音と、板がガタガタと軽くぶつかり合う様な音が聞き取れた。
 牧村はその音で、雪平がついには歩く事すらできなくなってしまったのではないかという考えに至り、無礼を承知で咄嗟にドアノブに手をかけてみる。
 すると、ドアノブはいとも簡単に回転し、鍵がかかっていると思っていた牧村はやや体勢を崩し、半ば倒れ込むような形で203号室へと入った。
「……いたた。す、すまない雪平君……これはその………………え」
 勝手に部屋に立ち入った事を謝罪しつつ、前方に居るであろう雪平を確認した牧村は、その一音を最後に、言葉を失った。

 とある日の明け方。
 そのアパートの大家である牧村は、首を吊って間もない203号室の住人。
 雪平眞世まなせの遺体を発見した。

 それが、2015年12月の事である。


― 言ノ葉ノ綿-想人の聲❖第三話『成』 ―


「珈琲で良かったですか?」
「あぁ、悪いな。ありがとう」
「いえ」
 礼を言うその男ににこりと笑んだ禰琥壱ねこいちは、冷えた珈琲のグラスをことりと男の手元に置いた。
 そのグラスの中では、溶け出したばかりの氷が、喉の渇きを誘う様な心地よい音を響かせる。
「それにしても、まさかこんな形でお仲間と巡り合うとはね。これも何かの縁かな」
「そうかもしれませんね」
 男の言葉に楽しそうにそう答えた禰琥壱は、テーブルを挟んだ男の正面の椅子に座る。
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