治療と称していただきます

茜菫

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第一部

そばにいるから(7)

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「ちょっ、……嗅ぐなよ……っ」

 レイモンドが小さく抗議の声を上げるが、エレノーラは内心で謝罪しつつも背に顔を埋めて匂いを嗅ぐ。そうすると不思議と恐怖が和らいで、少し落ち着いた。とはいえ、まだ魔女を視界に入れると怖いため、レイモンドの後ろからは出ない。

(この幻の根幹は……恐怖心ね)

 エレノーラがもっとも恐怖している人間の幻が生み出された。レイモンドにも恐怖する対象がいるだろうが、エレノーラの恐怖がそれに勝っていたのだろう。享楽の魔女にはだれかの恐怖の感情は扱いやすく、楽しみやすいものだ。

(であれば、私が幻に恐怖を感じている限りは消えない……逆に恐怖を感じなくなって、ないものとしてしまえば消えるはずよ)

 だが、恐怖というものはそう簡単になくならない。だから、魔女に利用される。

「ここまで精巧な幻を、しかも享楽の魔女とまで呼ばれた男の幻を生み出すには相当の魔力がいるはずだわ」

 魔法を発動させるには魔力が必要だ。単発の現象のみならば発動時の魔力さえあればいいが、幻を生み出しそれを動かすといった継続させる現象には、その間常に魔力が要る。

 享楽の魔女はここに魔法を仕込んだが、所詮は足止め程度のもの。侵入者を排除するためであれば違っただろうが、魔力は足止めができる程度でしか残されてない。であれば、この魔女の幻はそう長く顕現していられないはずだ。

「そうだな。だから、消えるまでの間構ってほしいんだよ。エレノーラ、俺がさみしがり屋なのはよーく知っているだろう?」

 魔女はエレノーラと自分との間のことを匂わすことで、レイモンドをあおっている。案の定、レイモンドは怒っていたが、怒りに任せて行動はしたりはしなかった。

「消えるまでの間、あなたの相手をする必要などありません。閉じ込めておけばいい」

「残念、俺は大人しく閉じ込められてやる性格ではないからな。ま、おまえらが相手してくれないなら、上にいる連中に相手してもらおうか」

「く……っ」

 地上にいる魔道士や兵たちでは魔女の相手にならないだろう。これは幻だが、幻だと知らずに、知っていても幻だと信じきれずに攻撃を受けると、身体へも影響してしまう。自分が死んだと思い込めば、本当に死んでしまうこともある。

「エレノーラ、扉を……」

 直接対峙したことのあるレイモンドはこの魔女がどれほど恐ろしいかを知っている。絶対に上へ通すわけにはいかない、そう考えているのだろう。

 ここで扉を閉めてしまえば、エレノーラとレイモンド、魔女の三人きりで、魔力が尽きるまで待たなければならない。レイモンドはそれを、エレノーラの心を慮って躊躇しているようだ。

「レイモンドがそばにいるから、大丈夫よ」

 エレノーラはレイモンドがいれば大丈夫だと自分に言い聞かせる。レイモンドに背中を任せて扉の方へと向かい、扉を閉めると結界の魔法を張った。これで魔女が二人を越えても、足止め程度にはなる。

「いいねえ、せっかくの密室だ。三人で楽しむか? 複数ってのもいいよな」

「ふざけないで」

 エレノーラはレイモンドの背中をにらみつける。レイモンドはその視線を感じてか、少し居心地が悪そうだ。

「つれないことを言うなよ、エレノーラ。昔はあんなによく……」

「複数って、あなた、なにをするつもりですか」

「ん?」

 警戒しているレイモンドの言葉に魔女が間抜けな声をもらした。はじめて聞くその声に、恐怖より好奇心が勝り、エレノーラはレイモンドの背からちらりとのぞき見る。すると、エレノーラの目に目を丸くしてぽかんと口を開けた、文字通り間抜け面をした魔女が見えた。

「騎士さまってのは、ずいぶんとお子さまなんだな」

「なっ」

 お子さまという言葉にレイモンドが過剰に反応する。肩を震わせて怒りをあらわにしているが、その姿は魔女をよろこばせるだけだ。

「レイモンド、落ち着いて」

「っ、でもなめられて」

「おうおう、なめてやってもいいぜ」

 レイモンドの言葉にかぶせるようにしてそう言い放ち、面白がって舌を出してにやにや笑う魔女に、彼の怒りがさらに上昇していく。まだ怒りに任せて動いてはいないものの、次になにか言われたらぷっつんして動いてしまうかもしれない。エレノーラはなんとかして気をそらそうと、意をけっしてレイモンドの隣に立ち、魔女をにらみつけて声を上げた。

「だめよ、レイモンドをなめていいのは私だけなんだから!」

「違う、エレノーラ、そうじゃない……!」

 どうやらうまくいったようで、怒りの感情から意識が逸れたレイモンドは顔を赤くして首を振った。しかし代わりに魔女の怒りを上げてしまったようで、魔女がレイモンドをにらみつける。

「騎士さまってのは、口はお上品だが躾はなっていないようだな? 人のものに手を出すなんてねえ」

(先に手を出したのは、私なんだけれど……)

 記憶から読み取っているといっても、幻を作り出すための一部の記憶しか読まれていないようだ。魔女にとってレイモンドは自分を殺した騎士、エレノーラは彼の所有物であって、彼の死後のできごとまでは読み取られていないと考えられる。

(こんなところまで再現しなくていいのに……)

 二年も拉致監禁されただけあって、魔女のエレノーラへの執着は非常に強かった。魔女の目はレイモンドに目が向けられているが、その目が自分に向けられるのが怖くてうつむく。するとレイモンドは片腕でエレノーラを引き寄せ、抱きしめた。

「エレノーラはおまえのものじゃない」

 魔女をにらみつけながら静かに言い放ったレイモンドに、魔女は同じようににらみつけ、低い声を出す。

「へえ。じゃあ、おまえのものだってか?」

「違う」

(そこは僕のものだと言ってくれても良かったのだけれど)

 それを言わないのが、エレノーラが好きになったレイモンドだ。

「エレノーラは彼女自身のものだ。だれに心を許すのかは、彼女が決めることだ!」

 ありありと憎しみの念を浮かべた目に怖気づくことなく、レイモンドは言葉を続けた。エレノーラはその言葉に顔を上げ、まっすぐ前を見据えるレイモンドの横顔を見つめる。言いよどむことなくはっきりと言い放ったレイモンドに、彼女の胸が高鳴った。

(レイモンドはいつだって、私の気持ちを優先してくれる)

 エレノーラは強引にされても、なにをされてもレイモンドなら許せるのに、彼はけっしてそんなことをしない。

「エレノーラは僕を選んでくれた」

「はっ、ずっと選ばれ続けるとでも? 女の心なんて、すぐ移り変わるだろ」

「いいや、僕がずっと選ばれ続ける……選ばれ続けるために、僕は心を尽くす。……おまえみたいに、むりに奪ったりしない!」

 エレノーラは少し声を荒らげて魔女を威圧するレイモンドに胸が高鳴り、頬が熱くなるのを感じる。エレノーラの目には、レイモンドしか映っていなかった。エレノーラは魔女の幻がどうでもよくなり、もはや、レイモンドしか見えなくなっている。

「レイモンドぉ……っ」

「ちょっ、エレノーラ……む、胸がっ」

「当てているのよ」

「っ……この状況で!?」

 エレノーラはレイモンドのことしか考えられない、いまはその気持ちにすべて委ねてしまうことにした。

「ね、レイモンド。キスして、キス!」

 エレノーラはレイモンドの胸にしがみつき、甘えた声で見上げる。レイモンドは頬を赤らめてエレノーラを見たが、我に返ったようにすぐ前を向く。

「いや、だめだろいまはっ、魔女の幻が……えっ!?」

 エレノーラは驚いた様子で前を見ているレイモンドの頬に手を伸ばす。視線を前とエレノーラと交互に向けたレイモンドは戸惑っているようだ。

「っ、くそ……おい、エレノーラ!」

「エレノーラ、これはいったい……」

「いま、私の頭はレイモンドのことでいっぱいなの! ね、だから、もっといっぱいにして」

 レイモンドはエレノーラを見て目を見開き、顔を赤くして動揺した。しかしすぐになにか察したようで、エレノーラの唇にキスをする。
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