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第5章 鍛治橋監獄
2 牢獄の貴人 ⑴
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息苦しさで目を覚ました。
深い青色の光が辺りを覆っている。
呼吸するたび、鳩尾のあたりがメリメリと痛んだ。
頬にぴたりとくっついているのは茣蓙だろうか。
仰向けになろうと頭を動かした途端、左耳から右耳へと鈍痛が走った。
左瞼が腫れているようで開き辛い。
咳が続けざまに出て、錐で刺されるような痛みが走った。
全身がむず痒い。この痒みは?……シラミだ! ここはいったい?
次の瞬間、黒くて大きいものが視界の中に入ってきて、その中で二つ光って見えるのが目だとわかった時は度胆を抜かれた。
跳ねるように上半身を起こした。
叫ぶ直前に角張った大きな手に口を塞がれた。
「声を出すな! ここがどこか、わかるな」
明らかに、牢屋の中だった。
辛うじて頷いたが、理由に思い当たって矢も楯もたまらなくなった。
「大原!」
一瞬緩んだ男の手が、再び、ぐいと私の口を押さえ付けた。
「声をあげると、看守が来てシバかれる! 傷を増やしたいか?」
男は刈り上げ頭で眉間狭く、横に広がった大きな白目の中に瞳が浮いていた。
建物のあちこちからは牛蛙のような鼾が聞こえている。
辺りは四畳半ほどの広さの房で他に男が三人、体のあちこちを掻きつつ、ぶつかるようにして寝ていた。
目前の男に再び目をやると、濃い色の作務衣を着ているのがわかった。
自分の体を見ると、同じようなヨレヨレの作務衣を着せられている。
壁に頭をもたれかけると、観念したと見たのか男はゆっくりと手を下ろした。
鍛冶橋監獄の中……か。
警視庁の北側にあり、かつて外堀側から眺めたことがある。
十字型をした二階建で、未決囚を収容する施設だった。
そういえば両脇を抱えられ、引きずられるようにして中に入れられた気がする。
途中で身ぐるみ剥がされ、無理矢理この獄衣を着せられた。
獄衣を着るのはこれで二度目だ。
間に立つ者があった。
コトッと蓋が開いて放尿の音が聞こえてくる。
同時に鼻をつく悪臭が流れてきた。
思わず袖口で鼻を覆う。作務衣の黴臭さのほうが大いにマシに思える。
「ウッキーキキキキャヒィーっ! クェーックェーックェーッ……」
叫び声は数回繰り返され、ゴトンという音がした。
「わっ止めろ! この野郎! ぶっ殺してやる!」
「看守さんよぉっ! みんなクソまみれだぜ!」
声は斜め上の房から聞こえてくる。どうやら奇声の主が、便器の中身を撒き散らしたようだった。
辺りは騒然として暫くの間、看守がバタバタと廊下を行き交う音と怒鳴り声、桶に酌まれた水が斜め上の房の壁や床を流れる音がした。
「この気チガイっ! 手間ぁかけさせやがって!」
看守の怒鳴り声と共に棒鎖のジャラジャラとした音が聞こえると、杖で背中を打つような音が繰り返し聞こえてきた。
ううっ!という声に対し、「猿の呻き声出せよ! おらぁ!」というような冷やかし声が幾度か上がった。
十数回、杖を打つ音が響いた後、看守の「いいから寝ろ!」の怒鳴り声を合図に静寂が戻った。
ヒィヒィという泣き声を除いては……。
目が冴えて眠れなかった。
監獄内の待遇は良くなったと聞いていた。半ば公然と行われていた拷問も廃止されたはずだった。
「椀を出せ!」という大声で、私は閉じかかっていた目を開けた。
辺りはすっかり明るくなって、同房の男達が次々と柵の外へ椀を差し出している。
そこへ取手付きの鍋を片手にした看守が、じゃぶじゃぶと白湯を注ぎ入れていった。
茫然としていると、ギョロ目の男が横にあった椀を取って、私の分まで湯をもらってくれた。
次に出されたのは握り飯だった。
麦と米半々くらいのものを握り固めたように見える。香の物が二切れ添えられていた。
「臭い飯」そのもので白湯にさえ特有の臭気があり、全く食欲が湧かなかった。
去り際に看守は浅黒い紙を五枚、柵の間に差し込んで行った。
ギョロ目の男が抜き取って、うち一枚を私に差し出した。
「紙ってなあ有難いもんだ。これで今日一日、手拭いて鼻かんでケツも拭く。間違っても順番を逆にするなよ」
ニヤリとしながら渡されたが、他三人の囚人は手前に置かれた紙を見向きもせず、あっという間に握り飯を平らげた。
私が飯に手をつけないと見るや、獲物に狙いを定めた肉食獣のように、こちらに視線を投げかけてくる。
「湯だけでも飲んどかないと、体にさわるぞ」
ギョロ目男からの忠告に、やっとの思いで湯を喉から流し込んだ。
握り飯のほうは他三人の前に差し出すと、瞬く間に消えた。
「ありっとござんす」と言ってニッと笑った男には、前歯が殆ど無かった。
深い青色の光が辺りを覆っている。
呼吸するたび、鳩尾のあたりがメリメリと痛んだ。
頬にぴたりとくっついているのは茣蓙だろうか。
仰向けになろうと頭を動かした途端、左耳から右耳へと鈍痛が走った。
左瞼が腫れているようで開き辛い。
咳が続けざまに出て、錐で刺されるような痛みが走った。
全身がむず痒い。この痒みは?……シラミだ! ここはいったい?
次の瞬間、黒くて大きいものが視界の中に入ってきて、その中で二つ光って見えるのが目だとわかった時は度胆を抜かれた。
跳ねるように上半身を起こした。
叫ぶ直前に角張った大きな手に口を塞がれた。
「声を出すな! ここがどこか、わかるな」
明らかに、牢屋の中だった。
辛うじて頷いたが、理由に思い当たって矢も楯もたまらなくなった。
「大原!」
一瞬緩んだ男の手が、再び、ぐいと私の口を押さえ付けた。
「声をあげると、看守が来てシバかれる! 傷を増やしたいか?」
男は刈り上げ頭で眉間狭く、横に広がった大きな白目の中に瞳が浮いていた。
建物のあちこちからは牛蛙のような鼾が聞こえている。
辺りは四畳半ほどの広さの房で他に男が三人、体のあちこちを掻きつつ、ぶつかるようにして寝ていた。
目前の男に再び目をやると、濃い色の作務衣を着ているのがわかった。
自分の体を見ると、同じようなヨレヨレの作務衣を着せられている。
壁に頭をもたれかけると、観念したと見たのか男はゆっくりと手を下ろした。
鍛冶橋監獄の中……か。
警視庁の北側にあり、かつて外堀側から眺めたことがある。
十字型をした二階建で、未決囚を収容する施設だった。
そういえば両脇を抱えられ、引きずられるようにして中に入れられた気がする。
途中で身ぐるみ剥がされ、無理矢理この獄衣を着せられた。
獄衣を着るのはこれで二度目だ。
間に立つ者があった。
コトッと蓋が開いて放尿の音が聞こえてくる。
同時に鼻をつく悪臭が流れてきた。
思わず袖口で鼻を覆う。作務衣の黴臭さのほうが大いにマシに思える。
「ウッキーキキキキャヒィーっ! クェーックェーックェーッ……」
叫び声は数回繰り返され、ゴトンという音がした。
「わっ止めろ! この野郎! ぶっ殺してやる!」
「看守さんよぉっ! みんなクソまみれだぜ!」
声は斜め上の房から聞こえてくる。どうやら奇声の主が、便器の中身を撒き散らしたようだった。
辺りは騒然として暫くの間、看守がバタバタと廊下を行き交う音と怒鳴り声、桶に酌まれた水が斜め上の房の壁や床を流れる音がした。
「この気チガイっ! 手間ぁかけさせやがって!」
看守の怒鳴り声と共に棒鎖のジャラジャラとした音が聞こえると、杖で背中を打つような音が繰り返し聞こえてきた。
ううっ!という声に対し、「猿の呻き声出せよ! おらぁ!」というような冷やかし声が幾度か上がった。
十数回、杖を打つ音が響いた後、看守の「いいから寝ろ!」の怒鳴り声を合図に静寂が戻った。
ヒィヒィという泣き声を除いては……。
目が冴えて眠れなかった。
監獄内の待遇は良くなったと聞いていた。半ば公然と行われていた拷問も廃止されたはずだった。
「椀を出せ!」という大声で、私は閉じかかっていた目を開けた。
辺りはすっかり明るくなって、同房の男達が次々と柵の外へ椀を差し出している。
そこへ取手付きの鍋を片手にした看守が、じゃぶじゃぶと白湯を注ぎ入れていった。
茫然としていると、ギョロ目の男が横にあった椀を取って、私の分まで湯をもらってくれた。
次に出されたのは握り飯だった。
麦と米半々くらいのものを握り固めたように見える。香の物が二切れ添えられていた。
「臭い飯」そのもので白湯にさえ特有の臭気があり、全く食欲が湧かなかった。
去り際に看守は浅黒い紙を五枚、柵の間に差し込んで行った。
ギョロ目の男が抜き取って、うち一枚を私に差し出した。
「紙ってなあ有難いもんだ。これで今日一日、手拭いて鼻かんでケツも拭く。間違っても順番を逆にするなよ」
ニヤリとしながら渡されたが、他三人の囚人は手前に置かれた紙を見向きもせず、あっという間に握り飯を平らげた。
私が飯に手をつけないと見るや、獲物に狙いを定めた肉食獣のように、こちらに視線を投げかけてくる。
「湯だけでも飲んどかないと、体にさわるぞ」
ギョロ目男からの忠告に、やっとの思いで湯を喉から流し込んだ。
握り飯のほうは他三人の前に差し出すと、瞬く間に消えた。
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