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第8章 明治14年の政変
6 父より娘へ
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私と辰蔵は、正面を向いて揃って一礼し、向き合って最初の構えをとった。
篠笛とササラの摺り音が響き始めた。
と、私は、客の中に理久の姿を見つけて驚いた。
横には柿沼。理久は新富座にいるとばかり思っていた。
私は鞘から刀を抜き、大きく振りかざした。そして腰を低くし、剣を食い入るように見上げる動作をとっている辰蔵に小声で語りかけた。
「理久さんが来てるぞ。地裏席だ」
辰蔵は、ハッと棒立ちになって地裏席を見た。
「太刀掛り」には本来無い動きだ。
私は気転を効かせ、剣先を見せて威嚇したりする所作などを見せながら、辰蔵の周りをクルクルと舞った。
やがて辰蔵は理久のほうに向かって軽く一礼すると、元の舞の所作に戻った。
おぼこ達 吾等が国から文が来た 開いて見たればポイとかち候
おいらの里から文が来た 読んで見たれば一寸こいとの文よ
この獅子は いかなる獅子と思し召す
悪魔を祓う獅子なれば 世国の人に角をもがれそ
私は剣を鞘に戻し、辰蔵は腹に結わえていた締め太鼓を外した。
篠笛とササラが続く中、二人ともバチを握り、長胴太鼓を挟んで向き合った。
これから同心太鼓を打つ。
同心太鼓は、締太鼓、長胴太鼓、銅鑼で構成される組太鼓である。
能舞台の大きさや人数から、銅鑼は鉦、締太鼓はササラの摺り音で代用した。
長胴太鼓も主旋律と伴奏部分に分かれるが、私が伴奏、辰蔵が主旋律を打つことになっている。
シャッシャッシャッというササラの規則正しい音の中で、鉦の音が響き渡った。
二人は太鼓を前にして斜めに足を広げ、深くしゃがみ込んだかと思うと、バチを持った両手を大きく広げた。
円弧を描くようにせり上がっていき、バチを皮スレスレのところまでサッと降ろして止め、さらに一息溜める。
そして大きく振りかぶると、揃って太鼓を打ち始めた。
ダンダンダン ドドン ダダダダダダダ
ダンダンダン ドドン ダダダダダダダ……
最初の三打は左手で打ち、右手は垂直方向にスッと突き出す。
四打から十二打までは左右交互に打つが、十三打目からの連続三打は右手で打つ。
同時に、今度は左手をスッと垂直方向に突き出す。
この時、顔も一緒に、突き出す方向にクイと向ける。
これを二回繰り返す間、私達の動きはピタリと一致していた。
以降は動作が分かれる。
私が小さく敏捷に腕を動かし、ドロドロという低く流れる音を作り出す。
一方の辰蔵は皮中央よりやや下を大きく打って、主旋律の波を生みだしていった。
そして最初の四十八打の旋律が、曲のなかで何回も甦って打たれていく。
辰蔵は時折、私と合わせて小さく連打したかと思えば次の瞬間、両腕を天に突き上げ片膝も大きく上にあげて、踏み出すように一気に下へ打ち下ろした。
その度に獅子の羽は生き物のように動き、白い水引がフワリと舞い上がって辰蔵の横顔が露わになる。
労咳に蝕まれつつあるのではないかという心配は微塵も思い起こさせないほど、辰蔵は精力を傾けて打ち猛った。
慌ただしく走る音が建物裏から聞こえてきた。
貴賓席を取り囲んでいた警官の一人が、重鎮らしき人物に何やら報告している。
外が気になっていた様子の理久が、席を立って外へ出て行った。
どこからか、「太鼓の音が、合図になってるらしいぞ!」と叫ぶ声が聞こえた。
「あの太鼓を止めさせろ!」
「二手に分かれて来やがった!」
「紅葉坂の一部をこちらに戻せ!」
指揮官らしき男が、がむしゃらに命令を発する声が聞こえる。
私と辰蔵は太鼓を打つのを止めた。
振り向くと裏戸が開いており、その向こうから無数の火の玉がこちらに向かって上がってきているのがわかった。
次の瞬間、銃を抱えた兵が貴賓席を取り囲むと同時に筒先を舞台上に向けた。
私達は呆然と両手を上げた。
悲鳴や怒号入り乱れ、観客が出口へと殺到し始めた。
だが警官が走ってきて出口を塞いだ。
「建物全体が暴徒に取り囲まれてます。今出ると危険です」
暴徒? 全体?
すると、たくさんの人間の声でなにやら叫んでいるのが聞こえてきた。
「せ……ひらけー……ある……」
白洲を踏む音がして、警官が後ろ手に縛られた女を引っ張ってきた。理久だった。
「辰蔵! 面を取ってよく見ろ!」
警官の声が会場に響いた。
辰蔵は、ゆっくりと獅子の面を外して、床に置いた。
サーベルの切っ先が、口を塞がれた理久の喉元に向かっている。
「外の連中を扇動しとっとやろ。民権家とつるんで革命でも起こす気か? 動くとこの女も、あの神主と同じ目にあうばい! 狙撃兵! こん男を、よう狙うとってくれよ! 腕が立つっとやからな」
「俺は、丸腰だ!」
「こいつ、お前の女やろ。八王子で見たばい。あん時ゃあ、銃を持っとったとばってん、またなんか企んどるっとやろう⁉」
「人ちがいだ、木崎! その女は関係ない!」
次の刹那、外から微かに連呼の声が聞こえて来た。
「政府は国会を開けー」
「我々は政治に参加する権利があるー」
私はこの時、ようやく状況が呑み込めた。
「待っでくれ! 俺たちは、外の連中とは無関係だっちゃ! 扇動などしてない!」
二三歩前に踏み出して叫ぶと、すぐに威嚇射撃が私の足元へと飛んだ。
木崎と呼ばれた警官は見覚えがあった。
御巡幸のあった日、理久を捜して社務所に乗り込んで来た男だ。
激昂しており、もはや何を言っても通じないようだった。
連呼の声が、徐々に大きくなっていった。
「政府は国会を開け!」
「我々は、政治に参加する権利があるー」
理久の顔が歪んだ。
「間違いなか! こん女は、行幸の列を待ち受けて……」
サーベルを突きつけられた理久の喉元から、血が一筋流れている。
次の瞬間、辰蔵は目にも止まらぬ速さで私が脇に差していた剣を抜き取ると、白洲の木崎に向かって飛びかかった。
木崎は、サーベルで一度は辰蔵の突きを払いのけたが、その動きを予見していた辰蔵の次の一手で胸を一突きされた。
理久は、突き飛ばされた形で白洲の上に倒れた。
辰蔵に向かって、銃が乱射された。
辰蔵は構わず、剣を顔面の高さに持ち上げ切っ先を相手に向けると、貴賓席に虎の如く突進して行った。
岩倉大臣は既に席を立っていたが、井上は呆然と佇んでいた。
辰蔵に対して井上は胸元から護身用拳銃を出して構えたが、引き金に手をかける前に辰蔵は倒れた。
狙撃兵の撃った弾が、何発も辰蔵を貫通した。
理久の悲鳴が響き渡り、井上は護衛に囲まれて貴賓席通用口から外へ出て行った。
残る舞台上の私達には銃口が向けられたままで、動きたくとも動けなかった。
舞台裏側から多くの声に混じって沼間社長の声がはっきりと聞こえてきた。
「政府は国会を開け!」
「我々は、政治に参加する権利がある!」
声は益々大きくなり、能楽堂の中でこだました。
「何をしている! 早く、撃たんかっ!」
「井上様! 申し上げます。民衆たちが手にしているのは提灯だけで、その、武器を携えてはおらぬようです」
「丸腰……と、申すか?」
「はっ!」
「先頭で群を率いておるのは、何者だ?」
「東京横浜毎日新聞の沼間守一と見受けました」
「……新富座から流れてきておるというわけか」
「そのようです」
「わかった! 銃を下ろせ!」
狙撃準備を完了していたらしい兵に向けられた、上官の声がした。
「あの者たちは丸腰だ! 発砲すれば新聞に書きたてられて、かえって向こうの思う壺にはまる」
確かに、白河口で私を見逃してくれた兵の声のような気もする。だが、もうどうでもよかった。
向けられていた銃が下ろされて、辰蔵の元へ駆け寄った。
安らかな死に顔だった。
理久が辰蔵の顔を抱き寄せて泣き続けている。私は見ていられなかった。
とぼとぼと歩いて外へ出て見ると、無数の提灯の灯が能楽堂を取り巻いていた。
最前列に深沢さんや権八、平左衛門の姿が見える。
平左衛門の後ろには、かつて武原村で見た顔がいくつもあった。
「政府は国会を開け!」
「我々は政治に参加する権利がある!」
さらなる灯の列が、東側からこちらへと向かってきている。
「辰蔵……本望だったか?」
私は天を仰いだ。
明治天皇はその年の十月十二日、政府は官有物払下げを中止し十年後に国会を開設するという勅諭をお出しになった。
『……將二明治二十三年ヲ期シ議員ヲ召シ國會ヲ開キ以テ朕カ初志ヲ成サントス
今在廷臣僚二命シ假スニ時日ヲ以テシ經畫ノ責二當タラシム……』
はるぢ殿
今日は明治16年9月20日
私は今、神田にある三河屋という宿でこの手紙を書いている。
今月に入って、ここから龍岡町の病院に通うことになった。
近所には西洋料理屋が軒を連ねているのだが、そこから漂ってくる匂いも、もはや吐き気の原因にしかならない。
激しい腹痛が襲ってきて、文字通りのたうちまわっている。
どうやら結核菌が、腸まで回ったようだ。
腹痛が和らいでくると、どこからか蜩の鳴く声が聞こえてきて五日市のことを思い出す。
今頃はきっと祭の準備で、みな忙しくしているに違いない。
はるぢ殿への手紙を書き始めて、はや二ヶ月。
よくここまで書ける時間が私に残っていたものだ。
つらつらと書くうちに、「父」らしくない事まで書いてしまった。
戯言と見逃して欲しい。
だが、天皇が出された勅諭後のことについては記しておかねばなるまい。
政府は国会開設を国民に約束し、憲法欽定の方針を鮮明に打ち出した。
同時に民間が草案を練ることを固く禁じ、そうした動きに対する取り締まりを一層強化した。
よって、せっかく作り上げた憲法草案だったが取り敢えず公けにせず、事態が国会開設に一歩進んだことを良しとして推移を見守ることになった。
だが皆、これで手を拱いているわけではない。
立ち上げの動きは活発化しているし、機関紙の発刊も加速している。
一部に国会開設の時期を早めるよう主張している者がいるらしいが、私も切にそう思う。
国会が開かれ、どのような憲法が制定されるのか見届けられるまで生きていたかった。
また、痛みが襲ってきたようだ。
これからは恐らく、わざわざ五日市から時折見舞いに来てくれる権八に代筆を頼むことになるだろう。
棄教してもう数年経っているが、今になってすべてのことを運命という神に感謝したい。
そして貴女が、他人に迷惑をかけない限り自分を信じて良いとする世の中で安心して生きていかれることを願っている。
父より
篠笛とササラの摺り音が響き始めた。
と、私は、客の中に理久の姿を見つけて驚いた。
横には柿沼。理久は新富座にいるとばかり思っていた。
私は鞘から刀を抜き、大きく振りかざした。そして腰を低くし、剣を食い入るように見上げる動作をとっている辰蔵に小声で語りかけた。
「理久さんが来てるぞ。地裏席だ」
辰蔵は、ハッと棒立ちになって地裏席を見た。
「太刀掛り」には本来無い動きだ。
私は気転を効かせ、剣先を見せて威嚇したりする所作などを見せながら、辰蔵の周りをクルクルと舞った。
やがて辰蔵は理久のほうに向かって軽く一礼すると、元の舞の所作に戻った。
おぼこ達 吾等が国から文が来た 開いて見たればポイとかち候
おいらの里から文が来た 読んで見たれば一寸こいとの文よ
この獅子は いかなる獅子と思し召す
悪魔を祓う獅子なれば 世国の人に角をもがれそ
私は剣を鞘に戻し、辰蔵は腹に結わえていた締め太鼓を外した。
篠笛とササラが続く中、二人ともバチを握り、長胴太鼓を挟んで向き合った。
これから同心太鼓を打つ。
同心太鼓は、締太鼓、長胴太鼓、銅鑼で構成される組太鼓である。
能舞台の大きさや人数から、銅鑼は鉦、締太鼓はササラの摺り音で代用した。
長胴太鼓も主旋律と伴奏部分に分かれるが、私が伴奏、辰蔵が主旋律を打つことになっている。
シャッシャッシャッというササラの規則正しい音の中で、鉦の音が響き渡った。
二人は太鼓を前にして斜めに足を広げ、深くしゃがみ込んだかと思うと、バチを持った両手を大きく広げた。
円弧を描くようにせり上がっていき、バチを皮スレスレのところまでサッと降ろして止め、さらに一息溜める。
そして大きく振りかぶると、揃って太鼓を打ち始めた。
ダンダンダン ドドン ダダダダダダダ
ダンダンダン ドドン ダダダダダダダ……
最初の三打は左手で打ち、右手は垂直方向にスッと突き出す。
四打から十二打までは左右交互に打つが、十三打目からの連続三打は右手で打つ。
同時に、今度は左手をスッと垂直方向に突き出す。
この時、顔も一緒に、突き出す方向にクイと向ける。
これを二回繰り返す間、私達の動きはピタリと一致していた。
以降は動作が分かれる。
私が小さく敏捷に腕を動かし、ドロドロという低く流れる音を作り出す。
一方の辰蔵は皮中央よりやや下を大きく打って、主旋律の波を生みだしていった。
そして最初の四十八打の旋律が、曲のなかで何回も甦って打たれていく。
辰蔵は時折、私と合わせて小さく連打したかと思えば次の瞬間、両腕を天に突き上げ片膝も大きく上にあげて、踏み出すように一気に下へ打ち下ろした。
その度に獅子の羽は生き物のように動き、白い水引がフワリと舞い上がって辰蔵の横顔が露わになる。
労咳に蝕まれつつあるのではないかという心配は微塵も思い起こさせないほど、辰蔵は精力を傾けて打ち猛った。
慌ただしく走る音が建物裏から聞こえてきた。
貴賓席を取り囲んでいた警官の一人が、重鎮らしき人物に何やら報告している。
外が気になっていた様子の理久が、席を立って外へ出て行った。
どこからか、「太鼓の音が、合図になってるらしいぞ!」と叫ぶ声が聞こえた。
「あの太鼓を止めさせろ!」
「二手に分かれて来やがった!」
「紅葉坂の一部をこちらに戻せ!」
指揮官らしき男が、がむしゃらに命令を発する声が聞こえる。
私と辰蔵は太鼓を打つのを止めた。
振り向くと裏戸が開いており、その向こうから無数の火の玉がこちらに向かって上がってきているのがわかった。
次の瞬間、銃を抱えた兵が貴賓席を取り囲むと同時に筒先を舞台上に向けた。
私達は呆然と両手を上げた。
悲鳴や怒号入り乱れ、観客が出口へと殺到し始めた。
だが警官が走ってきて出口を塞いだ。
「建物全体が暴徒に取り囲まれてます。今出ると危険です」
暴徒? 全体?
すると、たくさんの人間の声でなにやら叫んでいるのが聞こえてきた。
「せ……ひらけー……ある……」
白洲を踏む音がして、警官が後ろ手に縛られた女を引っ張ってきた。理久だった。
「辰蔵! 面を取ってよく見ろ!」
警官の声が会場に響いた。
辰蔵は、ゆっくりと獅子の面を外して、床に置いた。
サーベルの切っ先が、口を塞がれた理久の喉元に向かっている。
「外の連中を扇動しとっとやろ。民権家とつるんで革命でも起こす気か? 動くとこの女も、あの神主と同じ目にあうばい! 狙撃兵! こん男を、よう狙うとってくれよ! 腕が立つっとやからな」
「俺は、丸腰だ!」
「こいつ、お前の女やろ。八王子で見たばい。あん時ゃあ、銃を持っとったとばってん、またなんか企んどるっとやろう⁉」
「人ちがいだ、木崎! その女は関係ない!」
次の刹那、外から微かに連呼の声が聞こえて来た。
「政府は国会を開けー」
「我々は政治に参加する権利があるー」
私はこの時、ようやく状況が呑み込めた。
「待っでくれ! 俺たちは、外の連中とは無関係だっちゃ! 扇動などしてない!」
二三歩前に踏み出して叫ぶと、すぐに威嚇射撃が私の足元へと飛んだ。
木崎と呼ばれた警官は見覚えがあった。
御巡幸のあった日、理久を捜して社務所に乗り込んで来た男だ。
激昂しており、もはや何を言っても通じないようだった。
連呼の声が、徐々に大きくなっていった。
「政府は国会を開け!」
「我々は、政治に参加する権利があるー」
理久の顔が歪んだ。
「間違いなか! こん女は、行幸の列を待ち受けて……」
サーベルを突きつけられた理久の喉元から、血が一筋流れている。
次の瞬間、辰蔵は目にも止まらぬ速さで私が脇に差していた剣を抜き取ると、白洲の木崎に向かって飛びかかった。
木崎は、サーベルで一度は辰蔵の突きを払いのけたが、その動きを予見していた辰蔵の次の一手で胸を一突きされた。
理久は、突き飛ばされた形で白洲の上に倒れた。
辰蔵に向かって、銃が乱射された。
辰蔵は構わず、剣を顔面の高さに持ち上げ切っ先を相手に向けると、貴賓席に虎の如く突進して行った。
岩倉大臣は既に席を立っていたが、井上は呆然と佇んでいた。
辰蔵に対して井上は胸元から護身用拳銃を出して構えたが、引き金に手をかける前に辰蔵は倒れた。
狙撃兵の撃った弾が、何発も辰蔵を貫通した。
理久の悲鳴が響き渡り、井上は護衛に囲まれて貴賓席通用口から外へ出て行った。
残る舞台上の私達には銃口が向けられたままで、動きたくとも動けなかった。
舞台裏側から多くの声に混じって沼間社長の声がはっきりと聞こえてきた。
「政府は国会を開け!」
「我々は、政治に参加する権利がある!」
声は益々大きくなり、能楽堂の中でこだました。
「何をしている! 早く、撃たんかっ!」
「井上様! 申し上げます。民衆たちが手にしているのは提灯だけで、その、武器を携えてはおらぬようです」
「丸腰……と、申すか?」
「はっ!」
「先頭で群を率いておるのは、何者だ?」
「東京横浜毎日新聞の沼間守一と見受けました」
「……新富座から流れてきておるというわけか」
「そのようです」
「わかった! 銃を下ろせ!」
狙撃準備を完了していたらしい兵に向けられた、上官の声がした。
「あの者たちは丸腰だ! 発砲すれば新聞に書きたてられて、かえって向こうの思う壺にはまる」
確かに、白河口で私を見逃してくれた兵の声のような気もする。だが、もうどうでもよかった。
向けられていた銃が下ろされて、辰蔵の元へ駆け寄った。
安らかな死に顔だった。
理久が辰蔵の顔を抱き寄せて泣き続けている。私は見ていられなかった。
とぼとぼと歩いて外へ出て見ると、無数の提灯の灯が能楽堂を取り巻いていた。
最前列に深沢さんや権八、平左衛門の姿が見える。
平左衛門の後ろには、かつて武原村で見た顔がいくつもあった。
「政府は国会を開け!」
「我々は政治に参加する権利がある!」
さらなる灯の列が、東側からこちらへと向かってきている。
「辰蔵……本望だったか?」
私は天を仰いだ。
明治天皇はその年の十月十二日、政府は官有物払下げを中止し十年後に国会を開設するという勅諭をお出しになった。
『……將二明治二十三年ヲ期シ議員ヲ召シ國會ヲ開キ以テ朕カ初志ヲ成サントス
今在廷臣僚二命シ假スニ時日ヲ以テシ經畫ノ責二當タラシム……』
はるぢ殿
今日は明治16年9月20日
私は今、神田にある三河屋という宿でこの手紙を書いている。
今月に入って、ここから龍岡町の病院に通うことになった。
近所には西洋料理屋が軒を連ねているのだが、そこから漂ってくる匂いも、もはや吐き気の原因にしかならない。
激しい腹痛が襲ってきて、文字通りのたうちまわっている。
どうやら結核菌が、腸まで回ったようだ。
腹痛が和らいでくると、どこからか蜩の鳴く声が聞こえてきて五日市のことを思い出す。
今頃はきっと祭の準備で、みな忙しくしているに違いない。
はるぢ殿への手紙を書き始めて、はや二ヶ月。
よくここまで書ける時間が私に残っていたものだ。
つらつらと書くうちに、「父」らしくない事まで書いてしまった。
戯言と見逃して欲しい。
だが、天皇が出された勅諭後のことについては記しておかねばなるまい。
政府は国会開設を国民に約束し、憲法欽定の方針を鮮明に打ち出した。
同時に民間が草案を練ることを固く禁じ、そうした動きに対する取り締まりを一層強化した。
よって、せっかく作り上げた憲法草案だったが取り敢えず公けにせず、事態が国会開設に一歩進んだことを良しとして推移を見守ることになった。
だが皆、これで手を拱いているわけではない。
立ち上げの動きは活発化しているし、機関紙の発刊も加速している。
一部に国会開設の時期を早めるよう主張している者がいるらしいが、私も切にそう思う。
国会が開かれ、どのような憲法が制定されるのか見届けられるまで生きていたかった。
また、痛みが襲ってきたようだ。
これからは恐らく、わざわざ五日市から時折見舞いに来てくれる権八に代筆を頼むことになるだろう。
棄教してもう数年経っているが、今になってすべてのことを運命という神に感謝したい。
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