稲荷詣で

斐川 帙

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六、猪隈殿

(三)

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 「ご出立を。」と声がかかった。芳野はリュックを背負って部屋を出ると、外で控えていた男が「こちらへ。」と言うので、導かれるまま、中門廊まで歩いた。中門の前には二両の網代車が後部を中門廊の妻戸の方に向けて停車している。一両はもう牛がつながれており、誰かが乗車している気配があった。沓脱くつぬぎには昨日脱いだ靴が用意されており、芳野は、それを履くと、昨日と同じ要領で後ろから乗車した。車の傍らには騎馬の男が二人いた。この二人は近江守の郎等であろう。一人は小振りの立烏帽子を被り、中縹なかはなだ布衣ほいに白い指貫を穿いて、腰には太刀を佩き、もう一人は浅黄の水干姿で括袴くくりばかま草鞋わらじを履いて、烏帽子を髷の辺りで縛っていて、太刀を佩き、弓箭を帯していた。他にかち郎等ろうどうが二人ほど立って待っていた。こちらは萎烏帽子によれよれの直垂ひたたれ姿の括袴で、両人とも太刀を佩き、裸足であった。ちなみに、平安時代は、貴族階級以外は草履ぞうり草鞋わらじを履いている者が多かったようだが、下層の郎等などでは裸足も多く、この郎等二人が裸足であることは珍しい事ではない。
 そして、これに牛飼いが二人もつくので、供の者は合計六人になる。

 芳野が車に乗り込むと、案内した男は簾の脇から小声で芳野に、こう告げた。
「これから猪隈殿に向かいますが、その前に法住寺に立ち寄ります。多少、お時間を頂くことになりますが、御承知おきを。」
 これを聞いて、てっきり伏見稲荷大社に戻るものと思い込んでいた芳野は、驚いて、慌てて確認した。
「伏見稲荷に戻るのではないのですか?」
「伏見稲荷?」
 男は、違和感のある「伏見」という地名に引っ掛かったが、それより「稲荷」と言ったら深草の稲荷神社しかないので、意外なことを聞くものだと言うような顔をして「いえ、猪隈殿に向かいます。」と明言したので、芳野は、それ以上、聞くのは諦めた。

 俄然、不安になった。伏見稲荷に戻るものと思っていた当てが完全に外れた。これじゃ、いつになったら自宅に帰れるんだろう、今週中にアメリカの職場に戻れないかもしれない、牛車の行先が伏見稲荷じゃなかったことで、全ての目論見が御破算になってしまった。芳野は、頭を抱えるしかなかった。
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