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六、猪隈殿
(四)
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そうこうしているうちに車が動き出した。
車は深草の別業を出ると鴨川東岸をまっすぐ北上する道に入った。芳野は物見から外の様子を眺めていたが、しばらく進むと右に築地塀が続き、塀の向こうに瓦葺の建物が屋根をのぞかせるところを通っていた。寺院のようだが何という寺なのかは芳野には分らなかった。そのうちに寺の大門が前方に見えてきた。瓦葺で門の構えも大きく館の門と言うよりは寺院の門という印象を受けた芳野は、やはり、ここは寺院なのだと確信した。すると門を前にして車は二両とも停車し、騎馬の郎等たちが何やらひそひそ話を始めた。徒の方の二人の郎等は所在なげに立っていたが、やがて雑談を始めた。芳野の車の近くだったので二人の会話の内容が断片的だが聞こえてきた。
「ところで、いったい、何、話してんだろうな?」
「何って?」
「この寺に何か用事でもあるのかね?」
「ああ、あれか。いや、下車するかどうかだろ。」
「下車?何で?」
「寺の前を通るときは、騎馬の場合は下馬、車の場合は下車しないとうるさいんだよ、僧が。」
「ふうん。…でも、下車させて大丈夫なのか?」
「どういう意味だ?」
「乗車させていい御仁なのか、今、車内におられる方は?」
「…位階の話をしているのか?」
「ああ。確か乗車できるのは五位以上と聞いたことがあるぞ。第一、俺たちみたいなのは車には乗れないだろう?なのに、大丈夫なのか?」
「俺もよく知らないが、駿河守様が乗せて来いと仰られたんだから、乗せていいんだろう。今は昔と違う。ばれなきゃ大丈夫だ。気にするな。」
「まあ、そうだな。しかし、昔、騎馬で寺の門前を通り過ぎたことがあったが下馬しなかったぞ。特に何も言われなかったが。どうして、この寺は下車しないといけないのだ?」
「お前、知らないのか?ここは大殿が住まわれておられる寺だぞ。」
「大殿?」
「前の関白殿下のことだ。」
「前の関白殿下と言うと、知足院さまのことか?洛北の知足院にいらっしゃる前の関白殿下が、こちらにも住まわれておられるということか?確か、前の逆乱で知足院に御蟄居ということではなかったか?」
「いつの話をしてるんだ?お前の思っている関白殿下は、昨年、関白の御位を御嫡男に譲られて大殿となられた。だから前の関白殿下と言うのは知足院さまのことではない。」
「えっ、そうなの?知らなかった。」
「世の中、知らなさすぎだぞ。もう少し、世の中のことを知っとけよ。そんなことだと、失言して下手打つぞ。」
そう言われてかちんと来たのか、
「雲の上の事など、興味が湧くか。」と吐き捨てるように言った。
言われた方の郎等は、その乱暴な物言いに呆れて、ため息をついたが、少し間を置いて補足した。
「ちなみに、ここは法性寺だ。」
「へえ、法性寺ねえ…。俺は、こっちの方はあまり来ないから知らなかったよ。ということは、その前の関白殿下と言う方がいらっしゃるのか?」
「常にいらっしゃるとは限らないが、時々お立ち寄りになっているとは伺っている。」
「じゃあ、この近くにお屋敷でもあるのかね?」
「この近辺に十年位前に作られたそうだ。」
「そうか…」と、少し考える素振りを見せて、
「じゃあ、もし今日いらっしゃっていたら、お屋敷の前を下車せず素通りはまずいな。摂籙の家の侍どもに見つかって絡まれたら厄介だ。」
「何されるかわからん。しかも、こっちは人数が少ない。」
徒の郎等達が私語を交わしているのを無視して、騎馬の方の郎等たちは馬首を前に向けて進み始めた。それに合わせて二両の網代車も前進を始めた。徒の郎等たちは、動き出した車に驚いて、喋るのを止めて、慌てて歩き始めた。下車せず通り過ぎることになったようだ。大丈夫なのだろうか?
法性寺の大門の前を通り過ぎ、物見から見ると門番のような人は見かけなかったが、続いて小路を挟んで築地塀に囲まれた屋敷が見えてきた。しかし、今、通っている道に面して開いている門はあったが小ぶりで、屋敷の正門はこの通りには面していないようであった。下車や下馬をしなかったのは、正門が別の通りに面していたからなのだろうか?
車は深草の別業を出ると鴨川東岸をまっすぐ北上する道に入った。芳野は物見から外の様子を眺めていたが、しばらく進むと右に築地塀が続き、塀の向こうに瓦葺の建物が屋根をのぞかせるところを通っていた。寺院のようだが何という寺なのかは芳野には分らなかった。そのうちに寺の大門が前方に見えてきた。瓦葺で門の構えも大きく館の門と言うよりは寺院の門という印象を受けた芳野は、やはり、ここは寺院なのだと確信した。すると門を前にして車は二両とも停車し、騎馬の郎等たちが何やらひそひそ話を始めた。徒の方の二人の郎等は所在なげに立っていたが、やがて雑談を始めた。芳野の車の近くだったので二人の会話の内容が断片的だが聞こえてきた。
「ところで、いったい、何、話してんだろうな?」
「何って?」
「この寺に何か用事でもあるのかね?」
「ああ、あれか。いや、下車するかどうかだろ。」
「下車?何で?」
「寺の前を通るときは、騎馬の場合は下馬、車の場合は下車しないとうるさいんだよ、僧が。」
「ふうん。…でも、下車させて大丈夫なのか?」
「どういう意味だ?」
「乗車させていい御仁なのか、今、車内におられる方は?」
「…位階の話をしているのか?」
「ああ。確か乗車できるのは五位以上と聞いたことがあるぞ。第一、俺たちみたいなのは車には乗れないだろう?なのに、大丈夫なのか?」
「俺もよく知らないが、駿河守様が乗せて来いと仰られたんだから、乗せていいんだろう。今は昔と違う。ばれなきゃ大丈夫だ。気にするな。」
「まあ、そうだな。しかし、昔、騎馬で寺の門前を通り過ぎたことがあったが下馬しなかったぞ。特に何も言われなかったが。どうして、この寺は下車しないといけないのだ?」
「お前、知らないのか?ここは大殿が住まわれておられる寺だぞ。」
「大殿?」
「前の関白殿下のことだ。」
「前の関白殿下と言うと、知足院さまのことか?洛北の知足院にいらっしゃる前の関白殿下が、こちらにも住まわれておられるということか?確か、前の逆乱で知足院に御蟄居ということではなかったか?」
「いつの話をしてるんだ?お前の思っている関白殿下は、昨年、関白の御位を御嫡男に譲られて大殿となられた。だから前の関白殿下と言うのは知足院さまのことではない。」
「えっ、そうなの?知らなかった。」
「世の中、知らなさすぎだぞ。もう少し、世の中のことを知っとけよ。そんなことだと、失言して下手打つぞ。」
そう言われてかちんと来たのか、
「雲の上の事など、興味が湧くか。」と吐き捨てるように言った。
言われた方の郎等は、その乱暴な物言いに呆れて、ため息をついたが、少し間を置いて補足した。
「ちなみに、ここは法性寺だ。」
「へえ、法性寺ねえ…。俺は、こっちの方はあまり来ないから知らなかったよ。ということは、その前の関白殿下と言う方がいらっしゃるのか?」
「常にいらっしゃるとは限らないが、時々お立ち寄りになっているとは伺っている。」
「じゃあ、この近くにお屋敷でもあるのかね?」
「この近辺に十年位前に作られたそうだ。」
「そうか…」と、少し考える素振りを見せて、
「じゃあ、もし今日いらっしゃっていたら、お屋敷の前を下車せず素通りはまずいな。摂籙の家の侍どもに見つかって絡まれたら厄介だ。」
「何されるかわからん。しかも、こっちは人数が少ない。」
徒の郎等達が私語を交わしているのを無視して、騎馬の方の郎等たちは馬首を前に向けて進み始めた。それに合わせて二両の網代車も前進を始めた。徒の郎等たちは、動き出した車に驚いて、喋るのを止めて、慌てて歩き始めた。下車せず通り過ぎることになったようだ。大丈夫なのだろうか?
法性寺の大門の前を通り過ぎ、物見から見ると門番のような人は見かけなかったが、続いて小路を挟んで築地塀に囲まれた屋敷が見えてきた。しかし、今、通っている道に面して開いている門はあったが小ぶりで、屋敷の正門はこの通りには面していないようであった。下車や下馬をしなかったのは、正門が別の通りに面していたからなのだろうか?
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