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六、猪隈殿
(十二)
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「深草の兄上のお屋敷はどうであった?」と正面の男が几帳の向こうに向かって話しかけた。芳野が正面に座ったにも拘らず、軽く無視した感じで、中断した会話を再開した雰囲気であった。
「お元気そうでございました。叔母上様もお元気そうでございました。」
あさつゆの声であった。
「そうか。それで、稲荷詣ではどうであった?稲荷のお山に登るのは難儀であったろう?」
「それについては、こちらの方の案内を受けて、迷うことなく三峰を巡ることができました。」
芳野の事のようであった。正面の男は、芳野に一瞥したが、すぐに几帳の方に視線を戻して、「それはよかった。」とだけ言った。
すると、簾の奥の方から、女性の落ち着いた声がした。声の感じから、年配の女性の印象を受けた。
「昔、一度だけ、稲荷詣でに参ったことがありましたが、お山を登るのは大変でございました。上る途中で、降りる者から、行き違いに、今日三度目の参拝と自慢気に申す者もおりまして、驚きました。」
「まあ、日に三度も…」と驚嘆の声が几帳の向こうから聞こえた。
少しの間、沈黙の時が流れた。
ここでやっと、正面の男は芳野に視線を向けると、「駿河守為実である。案内をしてくれたようで、娘も助かったと申しておる。礼を言う。」と、自己紹介をした。あさつゆの父の駿河守であった。その時に吉野が感じたのは、自分を軽く無視した態度と屋敷の広さ、着ているものの豪華さなどから、かなりの資産家なのかということだった。
「いえ、こちらこそ、一人で参拝していたので、供ができて旅の慰みになりました。」と気を使って答えたのだが、駿河守は「そうか。」とだけ言って、すぐにあさつゆとの会話に戻った。芳野は軽視されてるのを感じてもやもやした。
「ところで、次は、いつ御所に参るのか?」
「まだ、日取りは決まってはございませんが、今度は局してお仕え申し上げることになっております。しばらくは里に下がることもなければ。」
「支度はどうだ?」
「できております。」
「そうか。女院の方様には、くれぐれも粗相のないように、よくよくお仕え申し上げるのだぞ。三条烏丸の御所には、院も居を同じゅうしていらっしゃる上に、御仲は、大変、睦まじいと伺っておる。わかっているな?」
「承知しております。」
「院に近しい方々とも顔を合わすこともあろう。くれぐれも抜かりなく仕えよ。」
少ししつこい感じもしたが、それだけ駿河守にとっては娘の出仕は大事なことなのであろうと芳野は解釈した。しかし、そこまで念を押すのはどうしてなのだろうとも怪訝に思った。芳野には、この時代の受領階級の処世など知る由もないので、娘が女院、この場合の女院とは上西門院統子のことであるが、この女院のもとに出仕することが、父の官職獲得にどれだけ重要な意味を持つのか、理解できるわけもなかった。特に保元の逆乱を経て、世の中は院政派と天皇親政派の二つに別れ、それとは別に、故鳥羽院の寵臣の一人で天下に学生を誇る少納言入道が急速に存在感を増している状況であった。このような情勢の中で、これまで美福門院に接近して官職を得てきた駿河守だが、それだけでなく上西門院にも近づいておくのは、彼の将来にとって悪い事ではないと考えたのである。と言うのも、上西門院は、同母弟の後白河院と同居しており、その上、二人は非常に仲が良いとの噂で、もし、院政派が力を増すようなことがあれば、娘が上西門院のもとに出仕していることは、駿河守にとって良い方向に働くことは間違いないと睨んだからである。
ただ、一点、懸念することがあるとすれば、駿河守の北の方が前の権中納言伊実の乳母を務めた経緯もあって、大宮左大臣家とも近しい間柄を構築できているのだが、伊実の父である左大臣伊通は帝に重用されており、親政派とも近いので、娘が上西門院のもとに出仕することは、大宮左大臣家から警戒されかねない危ない橋でもあった。
「お元気そうでございました。叔母上様もお元気そうでございました。」
あさつゆの声であった。
「そうか。それで、稲荷詣ではどうであった?稲荷のお山に登るのは難儀であったろう?」
「それについては、こちらの方の案内を受けて、迷うことなく三峰を巡ることができました。」
芳野の事のようであった。正面の男は、芳野に一瞥したが、すぐに几帳の方に視線を戻して、「それはよかった。」とだけ言った。
すると、簾の奥の方から、女性の落ち着いた声がした。声の感じから、年配の女性の印象を受けた。
「昔、一度だけ、稲荷詣でに参ったことがありましたが、お山を登るのは大変でございました。上る途中で、降りる者から、行き違いに、今日三度目の参拝と自慢気に申す者もおりまして、驚きました。」
「まあ、日に三度も…」と驚嘆の声が几帳の向こうから聞こえた。
少しの間、沈黙の時が流れた。
ここでやっと、正面の男は芳野に視線を向けると、「駿河守為実である。案内をしてくれたようで、娘も助かったと申しておる。礼を言う。」と、自己紹介をした。あさつゆの父の駿河守であった。その時に吉野が感じたのは、自分を軽く無視した態度と屋敷の広さ、着ているものの豪華さなどから、かなりの資産家なのかということだった。
「いえ、こちらこそ、一人で参拝していたので、供ができて旅の慰みになりました。」と気を使って答えたのだが、駿河守は「そうか。」とだけ言って、すぐにあさつゆとの会話に戻った。芳野は軽視されてるのを感じてもやもやした。
「ところで、次は、いつ御所に参るのか?」
「まだ、日取りは決まってはございませんが、今度は局してお仕え申し上げることになっております。しばらくは里に下がることもなければ。」
「支度はどうだ?」
「できております。」
「そうか。女院の方様には、くれぐれも粗相のないように、よくよくお仕え申し上げるのだぞ。三条烏丸の御所には、院も居を同じゅうしていらっしゃる上に、御仲は、大変、睦まじいと伺っておる。わかっているな?」
「承知しております。」
「院に近しい方々とも顔を合わすこともあろう。くれぐれも抜かりなく仕えよ。」
少ししつこい感じもしたが、それだけ駿河守にとっては娘の出仕は大事なことなのであろうと芳野は解釈した。しかし、そこまで念を押すのはどうしてなのだろうとも怪訝に思った。芳野には、この時代の受領階級の処世など知る由もないので、娘が女院、この場合の女院とは上西門院統子のことであるが、この女院のもとに出仕することが、父の官職獲得にどれだけ重要な意味を持つのか、理解できるわけもなかった。特に保元の逆乱を経て、世の中は院政派と天皇親政派の二つに別れ、それとは別に、故鳥羽院の寵臣の一人で天下に学生を誇る少納言入道が急速に存在感を増している状況であった。このような情勢の中で、これまで美福門院に接近して官職を得てきた駿河守だが、それだけでなく上西門院にも近づいておくのは、彼の将来にとって悪い事ではないと考えたのである。と言うのも、上西門院は、同母弟の後白河院と同居しており、その上、二人は非常に仲が良いとの噂で、もし、院政派が力を増すようなことがあれば、娘が上西門院のもとに出仕していることは、駿河守にとって良い方向に働くことは間違いないと睨んだからである。
ただ、一点、懸念することがあるとすれば、駿河守の北の方が前の権中納言伊実の乳母を務めた経緯もあって、大宮左大臣家とも近しい間柄を構築できているのだが、伊実の父である左大臣伊通は帝に重用されており、親政派とも近いので、娘が上西門院のもとに出仕することは、大宮左大臣家から警戒されかねない危ない橋でもあった。
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