嘘が色で見える地味司書の私が、唯一嘘をつけない無色透明な声を持つ人気ミステリー作家様と出会って、呪われた人生が彩られ始めました

久遠翠

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第01話「色のある声、色のない声」

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 私の世界では、音に色がついていた。
 それは比喩でも感傷でもない。人の声が、腐臭を放つ色彩を帯びて鼓膜に流れ込んでくる、紛れもない現実だ。街の雑踏は、無数の嘘が混ざり合ったヘドロの洪水。だから私は、静寂を求めて図書館の司書になった。ここは、私のための避難所のはずだった。

「すみません、この本、少し汚してしまって……」

 カウンターの向こうで、初老の男性が差し出した本のページに、コーヒーの染みが広がっている。彼の声は罪悪感と自己保身が混じり合い、雨の日のアスファルトに滲む油膜のような鈍い灰色をしていた。「これくらい大丈夫だろう」という甘えが、不快な粘度をもって私の聴覚にまとわりつく。

「大丈夫ですよ。弁償の必要はありません。次からお気をつけください」

 私は表情筋を凍らせたまま、事務的に処理をする。私の声に色はない。感情を殺せば、音は無味乾燥な記号になるのだ。

 次にやってきたのは、制服姿の男子高校生だった。

「現代思想に関する、少し難解な本を探しています。レポートの参考に」

 彼の声は、隣の女子生徒に向けた虚栄心が生んだ、安物の蛍光灯のように明滅する黄色だ。目の奥がちかちかと痛くなる。私は黙って哲学入門書の棚を指さした。彼は一瞬不満げに眉をひそめたが、結局一番薄い本を選んで足早に去っていく。

 悪意ある嘘は、ヘドロのように濁ったどす黒い色。罪なき見栄や体裁の嘘は、薄氷のように脆い色。同情を誘う嘘は、涙の塩分で滲んだような青。人々は呼吸をするように嘘をつき、そのたびに、世界は暴力的な色彩で塗りつぶされていく。

 幼い頃、「ずっと親友だよ」と笑ったあの子の言葉が、偽りの虹色ににじんで見えた日から、私の心は壊れてしまった。両親の「あなたのため」という言葉が、支配欲の滲む毒々しい藤色に聞こえて、私は心を閉ざした。
 以来、私は誰にも期待しない。何も求めない。そうやって築き上げた心の壁の内側で、ただ静かに息を潜めて生きてきた。

 閉館を告げる『蛍の光』が流れ始める。今日も一日、どうにか生き延びた。職員たちが帰り支度を始める中、私は最後の貸出処理を終え、張り詰めていた息をそっと吐き出した。
 その時、カラン、と乾いたドアベルの音がした。一人の男性が、閉まりかけた扉の隙間から滑り込んできた。

「すみません、もう閉館ですよね」
「はい、閉館時間です」

 私は努めて平坦な声で答える。早く帰ってほしい、という心の棘が色を持たないことを祈りながら。
 男は長身で、黒いコートがやけに似合っていた。整った顔立ちに、深い疲労の影が落ちている。

「一冊だけ、どうしても探している本がありまして。すぐ済みますから」

 彼がそう口にした言葉に、私は時が止まるのを感じた。
 彼の声には、色がなかった。
 灰色でも、黄色でも、どんな淡い色でもない。それは、どこまでも磨き上げられた水晶の響き。世界から一切の音が消え、その声の振動だけが真空の宇宙に満ちるような、絶対的な静寂。
 何の不純物も混じっていない、純粋な音。

「……あの?」

 私の反応がないことをいぶかしんだのか、彼がもう一度声をかける。

「この本を探しているのですが」

 やはり、色がない。嘘も、見栄も、社交辞令も、下心も、何もない。ただ、事実だけがそこにあった。
 生まれて初めての経験だった。私の知る世界では、真実を語る時でさえ、わずかな感情の揺らぎが淡い色合いを添えるものだ。だが、目の前の男の声は、完全な「無色透明」だった。
 私は凍りついていた。思考が停止し、目の前の男の存在が、世界の法則を根底から覆すエラーのように思えた。ただ、耳に届くその音の純粋さに、全身が痺れるような衝撃を受けていた。
 色のない声。
 そんなものが、この呪われた世界に存在するのだろうか。
 それとも、長年私を蝕んできたこの能力が、ついに狂ってしまったのだろうか。
 閉館後の静寂に包まれた図書館で、私は目の前の透明な男を見つめたまま、立ち尽くすことしかできなかった。
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