嘘が色で見える地味司書の私が、唯一嘘をつけない無色透明な声を持つ人気ミステリー作家様と出会って、呪われた人生が彩られ始めました

久遠翠

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第02話「透明な男の正体」

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 昨夜の出来事は、疲労が見せた幻聴だったのだ。そう自分に言い聞かせ、私は翌日の業務を開始した。色とりどりの嘘の声が飛び交う日常に戻れば、あの異常な体験もすぐに薄れていくだろう。そう思っていた。
 しかし、その脆い自己暗示は昼過ぎにあっけなく打ち砕かれた。
 昨日と同じ、黒いコートの男が再び図書館に現れたのだ。彼はまっすぐにカウンターへ向かってくる。私の心臓が、錆びついた振り子のように不規則に脈打った。

「昨日はありがとうございました。探していた本、見つかりました」

 彼の声は、やはり無色透明だった。
 純粋な感謝の念だけが、まっすぐな音の波となって私に届く。幻聴ではない。この男の声には、本当に色がないのだ。私は混乱しながらも、なんとか平静を装って「お役に立ててよかったです」と返した。自分の声が震えていないか、それだけが心配だった。
 彼はそれだけでは帰らず、少し躊躇うようにカウンターの前で立ち止まった。

「実は、次回作の資料を探しに来ました。しばらくこちらに通わせていただいても?」
「……はい、どうぞ」

 次回作? 彼の職業への興味が、私の警戒心をわずかに上回った。

「差し支えなければ、どのようなジャンルの本を?」
「主に、昭和期の未解決事件に関するものです。警察の捜査方法や、当時の世相がわかるような資料があれば、と」

 ミステリー作家だろうか。彼の声には、もちろん色がない。どんな問いに対しても、彼の返答は無色透明を保ったままだ。来館する他の利用者の声は、昨日までと変わらず様々な色を放っている。この男だけが、特別だった。
 嘘をつかない人間。そんな存在が、本当にいるのだろうか。
 混乱する私の隣で、パートの女性職員が「あっ」と小さな声を上げた。彼女は目を輝かせ、興奮した様子で私にささやく。

「水森さん、あの方、もしかして……」

 彼女は小さな声で目の前の男性に話しかけた。

「失礼ですが、ミステリー作家の海道蓮先生ではありませんか?」

 海道蓮。書店に行けば、必ず平積みになっているベストセラー作家の名前だ。人間の心の闇や嘘が引き起こす悲劇を、鋭利なメスで切り開くような作風で知られている。私も彼の作品を何冊か読んだことがあった。複雑に絡み合った人間関係と、心理描写の巧みさに舌を巻いた記憶がある。
 目の前の男――海道蓮は、少し驚いたように目を見開いたが、すぐに小さくうなずいた。

「はい、そうです」

 その肯定の言葉すら、透明だった。
 同僚は「やっぱり! 大ファンなんです!」と舞い上がっている。しかし、私の抱いた驚きは、彼女のそれとは全く質の違うものだった。
 嘘が色で見える私にとって、この世で最も嘘にまみれていると感じるものの一つが、人間の複雑な心理を描いた物語――フィクションだった。特に、海道蓮の作品は人間の嘘や裏切り、隠された悪意を巧みに暴き出す。そんな、誰よりも人間の「嘘」を知り尽くしているはずの作家が、一切の嘘をつかない「無色の声」の持ち主だなんて。
 それは、あまりにも巨大な矛盾だった。
 最高の皮肉であり、私の理解を超えた現象だった。
 私は目の前でファンサービスに応じる蓮の姿を、ただ呆然と見つめていた。彼の声を聞くたびに、私の脳は「真実」と「異常」のサインを同時に出し、ショート寸前になる。
 人間の心の闇を誰よりも深く描く男が、この世で最も純粋な声を持っている。
 その事実は、私の二十七年間の常識を根底から揺るがし、二重の衝撃として心を貫いた。この日から、私の静かだった避難所は、一人の「透明な男」によって静かに侵食され始める。
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