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第6話「氷解の兆しと、渦巻く嫉妬」
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あの日を境に、瑛心の眠りは劇的に改善された。
毎夜のように玲花は彼の夢に入り、悪夢の残滓が現れるたびにその温かい手で彼の心を支え、闇を払った。おかげで瑛心は朝までぐっすりと眠れる日が増え、日中の政務にも以前より集中できるようになった。
心身の充実が、彼の表情から険しさを少しずつ取り除いていく。臣下たちは「陛下のご様子が、近頃ずいぶんと穏やかになられた」と囁き合った。誰もがその理由を知りたがったが、まさか後宮の片隅から現れた名もなき針子のおかげだとは、誰も想像だにしなかった。
瑛心自身も、己の変化に気づいていた。
以前はただやり過ごすだけだった食事を、美味いと感じるようになった。庭園の花の色が目に鮮やかに映るようになった。世界から色が失われていたかのような日々が嘘のようだ。
そして何より大きな変化は、玲花という存在に対する感情だった。
昼間、彼女は甲斐甲斐しく瑛心の身の回りの世話を焼いた。書斎で山積みの書簡を整理したり、黙々と茶を淹れたり。その姿は控えめで、決して前に出ようとはしない。だが瑛心は、気づくとその小さな背中を目で追っている自分に気づくのだった。
ある日の午後、執務に疲れた瑛心がふと顔を上げると、玲花が窓辺で居眠りをしているのが目に入った。小さな頭がこくり、こくりと揺れている。夜ごと彼の夢に入り、精神をすり減らしているのだ。疲れているに決まっている。
いつもなら、側近の高順がすぐに起こしに行くだろう。だが、瑛心は無言で手を振り、高順を制した。
そして自ら席を立ち、そっと彼女のそばへ寄る。穏やかな寝顔はひどく無防備で、あどけない。夢の中で見せる芯の強い彼女とはまた違う一面。
(……こいつは、いつも俺のために戦ってくれている)
その寝顔を見つめていると、胸の奥から愛おしいような、守ってやりたいような、そんな温かい感情が湧き上がってくるのを瑛心は止められなかった。
彼は、自分が羽織っていた上着をそっと脱ぐと、眠る玲花の肩に優しくかけてやった。
その瞬間、物音に気づいたのか玲花の瞼がぴくりと震え、ゆっくりと開かれた。目の前に立つ瑛心の姿を認め、彼女は飛び上がるように驚いた。
「へ、陛下!?も、申し訳ございません!わたくし、このような場所で……!」
慌てて立ち上がろうとする玲花を、瑛心は大きな手で制した。
「よい。構わぬ」
「しかし……!」
「お前は疲れているのだろう。夜、俺の悪夢に付き合わせているのだからな。……苦労をかける」
思いがけない労いの言葉に、玲花は目を丸くした。そして肩にかけられた上着の温かさに気づき、頬を赤らめる。そこには、彼の香りがかすかに残っていた。
「そ、そんなこと……私は、陛下の……お役に立てるのが、嬉しい、ですから……」
しどろもどろになりながら答える玲花の姿が、瑛心にはひどく健気に見えた。彼は知らず、口元に微かな笑みを浮かべていた。氷の皇帝が見せた、稀有な笑み。
その光景を、部屋の入り口から見ていた者がいた。
豪華な衣装に身を包んだ、後宮の妃の一人、李貴妃(リきひ)だった。彼女は皇帝への挨拶のために紫宸殿を訪れたのだが、目の前の信じられない光景にその場に釘付けになっていた。
(陛下が……あんな下女に、笑いかけている……?)
いつも自分たちには氷のような無表情しか向けない、あの皇帝が。寵愛の証である上着までかけてやっている。
李貴妃の美しい顔が、嫉妬の炎でみるみるうちに歪んでいった。彼女だけではない。皇帝が名もなき針子を「特別な侍女」として側に置いているという噂は、後宮の妃たちの間で既に燃え盛る嫉妬の種となっていた。そして今、その噂が真実であることを彼女たちは目の当たりにしたのだ。
***
その日の夕刻、玲花が皇帝の夕餉の準備のために厨房へ向かう途中だった。回廊の角を曲がったところで、数人の妃たちに取り囲まれた。中心にいるのは、昼間の李貴妃だ。
「あなた、李玲花とか言ったわね」
扇子で口元を隠し、侮蔑に満ちた目で玲花を見下ろす。
「少し、お話があるのだけど、よろしいかしら?」
その言い方は、拒否を許さない響きを持っていた。玲花は、これから何が起こるのかを悟り、小さく身を震わせた。
彼女たちは玲花を人気のない庭園の奥へと連れて行くと、取り囲んで詰問を始めた。
「陛下に取り入って、一体何を企んでいるの?」
「その不思議な力とやらで、陛下を誑かしているのでしょう!」
「身の程を知りなさい、この卑しい針子が!」
次々と浴びせられる棘のある言葉。玲花はただ、俯いて唇を噛みしめることしかできない。
やがて、李貴妃が玲花の腕を乱暴に掴んだ。
「答えなさい!さもなくば、この場で痛い目にあわせてやるわよ!」
その時だった。
「――何をしている」
凛とした、低い声が響いた。
妃たちがはっとして振り返ると、そこには腕を組み、冷たい怒りをたたえた瞳で彼女たちを睨みつける瑛心の姿があった。背後には、高順も控えている。
「へ、陛下……!?」
妃たちの顔から、さっと血の気が引いた。まさか皇帝本人が現れるとは思ってもみなかったのだ。
瑛心は、妃たちには一瞥もくれず、玲花の元へまっすぐに歩み寄った。そして李貴妃が掴んでいた彼女の腕を、乱暴に振り払わせる。
「……怪我は、ないか?」
玲花にだけ向けられた、案じるような声。その優しさが、妃たちの嫉妬の炎にさらに油を注いだ。
瑛心は、震える玲花を自分の背中にかばうようにして立つと、氷の刃のような視線で妃たちを射抜いた。
「聞いている。こいつに何をした」
「い、いえ、わたくしたちは、ただ少し、この者と親睦を深めようと……」
「嘘をつくな」
瑛心の一喝に、妃たちの肩がびくりと震える。
「こいつは、俺の女だ。俺の許しなく、こいつに指一本でも触れる者は、誰であろうと容赦はせん。……分かったな?」
『俺の女』。
その言葉は、その場にいた全員の耳に雷鳴のように響き渡った。
妃たちは顔面蒼白になり、ただ震えながら平伏するしかなかった。
そして、瑛心の背後でその言葉を聞いていた玲花もまた、心臓が張り裂けそうになるほど大きく鼓動しているのを、止めることができなかった。
毎夜のように玲花は彼の夢に入り、悪夢の残滓が現れるたびにその温かい手で彼の心を支え、闇を払った。おかげで瑛心は朝までぐっすりと眠れる日が増え、日中の政務にも以前より集中できるようになった。
心身の充実が、彼の表情から険しさを少しずつ取り除いていく。臣下たちは「陛下のご様子が、近頃ずいぶんと穏やかになられた」と囁き合った。誰もがその理由を知りたがったが、まさか後宮の片隅から現れた名もなき針子のおかげだとは、誰も想像だにしなかった。
瑛心自身も、己の変化に気づいていた。
以前はただやり過ごすだけだった食事を、美味いと感じるようになった。庭園の花の色が目に鮮やかに映るようになった。世界から色が失われていたかのような日々が嘘のようだ。
そして何より大きな変化は、玲花という存在に対する感情だった。
昼間、彼女は甲斐甲斐しく瑛心の身の回りの世話を焼いた。書斎で山積みの書簡を整理したり、黙々と茶を淹れたり。その姿は控えめで、決して前に出ようとはしない。だが瑛心は、気づくとその小さな背中を目で追っている自分に気づくのだった。
ある日の午後、執務に疲れた瑛心がふと顔を上げると、玲花が窓辺で居眠りをしているのが目に入った。小さな頭がこくり、こくりと揺れている。夜ごと彼の夢に入り、精神をすり減らしているのだ。疲れているに決まっている。
いつもなら、側近の高順がすぐに起こしに行くだろう。だが、瑛心は無言で手を振り、高順を制した。
そして自ら席を立ち、そっと彼女のそばへ寄る。穏やかな寝顔はひどく無防備で、あどけない。夢の中で見せる芯の強い彼女とはまた違う一面。
(……こいつは、いつも俺のために戦ってくれている)
その寝顔を見つめていると、胸の奥から愛おしいような、守ってやりたいような、そんな温かい感情が湧き上がってくるのを瑛心は止められなかった。
彼は、自分が羽織っていた上着をそっと脱ぐと、眠る玲花の肩に優しくかけてやった。
その瞬間、物音に気づいたのか玲花の瞼がぴくりと震え、ゆっくりと開かれた。目の前に立つ瑛心の姿を認め、彼女は飛び上がるように驚いた。
「へ、陛下!?も、申し訳ございません!わたくし、このような場所で……!」
慌てて立ち上がろうとする玲花を、瑛心は大きな手で制した。
「よい。構わぬ」
「しかし……!」
「お前は疲れているのだろう。夜、俺の悪夢に付き合わせているのだからな。……苦労をかける」
思いがけない労いの言葉に、玲花は目を丸くした。そして肩にかけられた上着の温かさに気づき、頬を赤らめる。そこには、彼の香りがかすかに残っていた。
「そ、そんなこと……私は、陛下の……お役に立てるのが、嬉しい、ですから……」
しどろもどろになりながら答える玲花の姿が、瑛心にはひどく健気に見えた。彼は知らず、口元に微かな笑みを浮かべていた。氷の皇帝が見せた、稀有な笑み。
その光景を、部屋の入り口から見ていた者がいた。
豪華な衣装に身を包んだ、後宮の妃の一人、李貴妃(リきひ)だった。彼女は皇帝への挨拶のために紫宸殿を訪れたのだが、目の前の信じられない光景にその場に釘付けになっていた。
(陛下が……あんな下女に、笑いかけている……?)
いつも自分たちには氷のような無表情しか向けない、あの皇帝が。寵愛の証である上着までかけてやっている。
李貴妃の美しい顔が、嫉妬の炎でみるみるうちに歪んでいった。彼女だけではない。皇帝が名もなき針子を「特別な侍女」として側に置いているという噂は、後宮の妃たちの間で既に燃え盛る嫉妬の種となっていた。そして今、その噂が真実であることを彼女たちは目の当たりにしたのだ。
***
その日の夕刻、玲花が皇帝の夕餉の準備のために厨房へ向かう途中だった。回廊の角を曲がったところで、数人の妃たちに取り囲まれた。中心にいるのは、昼間の李貴妃だ。
「あなた、李玲花とか言ったわね」
扇子で口元を隠し、侮蔑に満ちた目で玲花を見下ろす。
「少し、お話があるのだけど、よろしいかしら?」
その言い方は、拒否を許さない響きを持っていた。玲花は、これから何が起こるのかを悟り、小さく身を震わせた。
彼女たちは玲花を人気のない庭園の奥へと連れて行くと、取り囲んで詰問を始めた。
「陛下に取り入って、一体何を企んでいるの?」
「その不思議な力とやらで、陛下を誑かしているのでしょう!」
「身の程を知りなさい、この卑しい針子が!」
次々と浴びせられる棘のある言葉。玲花はただ、俯いて唇を噛みしめることしかできない。
やがて、李貴妃が玲花の腕を乱暴に掴んだ。
「答えなさい!さもなくば、この場で痛い目にあわせてやるわよ!」
その時だった。
「――何をしている」
凛とした、低い声が響いた。
妃たちがはっとして振り返ると、そこには腕を組み、冷たい怒りをたたえた瞳で彼女たちを睨みつける瑛心の姿があった。背後には、高順も控えている。
「へ、陛下……!?」
妃たちの顔から、さっと血の気が引いた。まさか皇帝本人が現れるとは思ってもみなかったのだ。
瑛心は、妃たちには一瞥もくれず、玲花の元へまっすぐに歩み寄った。そして李貴妃が掴んでいた彼女の腕を、乱暴に振り払わせる。
「……怪我は、ないか?」
玲花にだけ向けられた、案じるような声。その優しさが、妃たちの嫉妬の炎にさらに油を注いだ。
瑛心は、震える玲花を自分の背中にかばうようにして立つと、氷の刃のような視線で妃たちを射抜いた。
「聞いている。こいつに何をした」
「い、いえ、わたくしたちは、ただ少し、この者と親睦を深めようと……」
「嘘をつくな」
瑛心の一喝に、妃たちの肩がびくりと震える。
「こいつは、俺の女だ。俺の許しなく、こいつに指一本でも触れる者は、誰であろうと容赦はせん。……分かったな?」
『俺の女』。
その言葉は、その場にいた全員の耳に雷鳴のように響き渡った。
妃たちは顔面蒼白になり、ただ震えながら平伏するしかなかった。
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