8 / 15
第7話「順風満帆な二人と、忍び寄る暗雲」
私がプロジェクトで充実した日々を送る一方、高坂翔太くんと姫川莉奈ちゃんは、順風満帆に見えた。
二人は社内でも交際を隠すことなく、いつも一緒に行動していた。お昼休みには仲良くランチに出かけ、終業後には腕を組んでデートへ向かう。その姿は、いかにも幸せそうなカップルだ。
莉奈ちゃんは、翔太くんの隣でいつも完璧な笑顔を振りまいている。
「翔太さーん、この書類、お願いできますかぁ? 莉奈、一人じゃ分からなくってぇ」
「もー、翔太さんたら、すごーい! こんな難しい仕事、すぐに終わらせちゃうなんて、天才ですねぇ♡」
彼女の猫なで声と、わざとらしい賞賛。以前の私なら、それを見て胸を痛めていただろう。でも、今の私にはどこか滑稽にさえ見えた。
翔太くんは莉奈ちゃんに褒められるたびに、まんざらでもない顔で鼻の下を伸ばしている。彼は、ああやって分かりやすく自分を立ててくれる女性が好きなのだ。
(私には、できなかったことだな)
私はお世辞を言ったり、大げさに相手を褒めたりするのが苦手だった。翔太くんの仕事ぶりを尊敬してはいたが、それをうまく言葉で伝えることができなかった。だから彼は私と一緒にいても、満たされなかったのかもしれない。
(でも、それでいい。私と彼は合わなかった。ただ、それだけのこと)
今はもう、そう思えるようになっていた。
私と翔太くんたちが担当していた業務は、私がプロジェクトチームに異動したことで、後任の担当者が決まるまで二人が引き継ぐことになっていた。特に、私が長年かけて作成し改良を重ねてきた顧客管理データベースの運用は、その業務の根幹をなす重要な仕事だった。
私は異動する際、データベースの詳しい操作方法や注意点をまとめた分厚いマニュアルを翔太くんに渡しておいた。
「これ、読んでおいてください。特に、データのバックアップは毎日必ず取るようにしてくださいね」
そう念を押した私に、彼は面倒くさそうに言った。
「はいはい、分かってるよ。お前がいなくても、俺一人で十分できるっつーの」
その言葉に一抹の不安を覚えたが、それ以上は何も言えなかった。
案の定、私の不安は的中することになる。
ある日、営業三課の課長が血相を変えてプロジェクトルームに駆け込んできた。
「白石さん! 大変だ! 顧客管理データベースの、ここ一ヶ月分のデータが全部消えてしまった!」
「ええっ!?」
その言葉に、私は耳を疑った。
あのデータベースは、営業三課の生命線だ。顧客情報はもちろん、過去の取引履歴や商談の進捗状況など、全ての情報がそこに詰まっている。それが消えたとなれば、業務が完全にストップしてしまう。
「バックアップは……!? 毎日、取るように言ってあったはずですが!」
「それが、ここ一ヶ月、一度も取られていなかったようなんだ……。高坂君に確認したら、『白石さんがやっていたやり方は非効率だから、もっと良い方法を考えていた』なんて言うんだが……」
課長は頭を抱えてうなだれている。
(なんてことを……!)
愕然とした。翔太くんは私のやり方を否定したかっただけなのだ。私がいなくても自分の方がうまくやれると証明したかった。その見栄とプライドが、会社に多大な損害を与える最悪の事態を引き起こしてしまった。
「とにかく、急いでデータの復旧をしないと……!」
私はすぐに自分のデスクに戻り、データベースの復旧作業に取り掛かった。幸い、私が個人的に取っていた一ヶ月前のバックアップが残っていたため、それを元に他の書類と突き合わせながら地道にデータを手入力で復元していくしかない。
それは、途方もなく時間のかかる根気のいる作業だった。
プロジェクトの仕事も中断するわけにはいかない。私はその日から連日深夜まで残業し、データベースの復旧作業に追われることになった。
「すまない、白石さん……。君にばかり、負担をかけてしまって……」
課長が申し訳なさそうに頭を下げる。
「いえ、元は私が担当していた業務ですから。最後まで責任は取らせてください」
私がそう言うと、隣で話を聞いていた莉奈ちゃんが、わざとらしく大きな声で言った。
「もー、大変そーですねぇ、紬せんぱい。でも、翔太さんも悪気があってやったわけじゃないんですよぉ? ちょっと、やり方を変えようとしただけなんですぅ。先輩のマニュアルが、分かりにくかったんじゃないですかぁ?」
その言葉に、カチンときた。
(私の、せい……?)
翔太くんのミスを、私のマニュアルのせいにするなんて、あまりにも身勝手だ。
私が何か言い返そうとする前に、冷たく静かな声がフロアに響いた。
「……それは、どういう意味かな。姫川さん」
声の主は、いつの間にかそこに立っていた蓮さんだった。
彼の表情は、見たこともないほど冷え切っていた。その瞳は凍てつくような光を宿し、まっすぐに莉奈ちゃんを射抜いている。
「い、一条……専務……」
莉奈ちゃんは怯えたように顔を青くした。
「君は今、高坂君の重大な過失を、白石さんの責任であるかのように言った。違うかな?」
「そ、そんなつもりじゃ……」
「言い訳は聞きたくない。自分のミスの責任も取れず、他人に擦り付けようとする。そんな人間がこの会社に必要だと思うかね?」
蓮さんの言葉は、氷のように鋭く容赦がなかった。
フロア全体が、水を打ったように静まり返る。
翔太くんは顔面蒼白で立ち尽くしていた。
蓮さんは、震える莉奈ちゃんから私へと視線を移すと、今度は一転して優しい声で言った。
「白石さん。この件は、もう君が関わる必要はない。営業三課の問題は、営業三課で解決させる。君は、プロジェクトの仕事に集中してくれ」
「で、でも……」
「これは、総責任者としての命令だ」
彼の有無を言わせない口調。その目には、「君にこれ以上、辛い思いはさせない」という強い意志がこもっているように見えた。
私は、ただ「……分かりました」と答えるしかなかった。
蓮さんは最後に翔太くんと莉奈ちゃんを冷たく一瞥すると、静かにその場を立ち去った。
残された二人を、周囲の冷ややかな視線が突き刺す。
彼らの順風満帆に見えた日々に、確実に暗い雲が垂れ込めてきている。
それは、これから始まる嵐のほんの序章に過ぎなかった。
二人は社内でも交際を隠すことなく、いつも一緒に行動していた。お昼休みには仲良くランチに出かけ、終業後には腕を組んでデートへ向かう。その姿は、いかにも幸せそうなカップルだ。
莉奈ちゃんは、翔太くんの隣でいつも完璧な笑顔を振りまいている。
「翔太さーん、この書類、お願いできますかぁ? 莉奈、一人じゃ分からなくってぇ」
「もー、翔太さんたら、すごーい! こんな難しい仕事、すぐに終わらせちゃうなんて、天才ですねぇ♡」
彼女の猫なで声と、わざとらしい賞賛。以前の私なら、それを見て胸を痛めていただろう。でも、今の私にはどこか滑稽にさえ見えた。
翔太くんは莉奈ちゃんに褒められるたびに、まんざらでもない顔で鼻の下を伸ばしている。彼は、ああやって分かりやすく自分を立ててくれる女性が好きなのだ。
(私には、できなかったことだな)
私はお世辞を言ったり、大げさに相手を褒めたりするのが苦手だった。翔太くんの仕事ぶりを尊敬してはいたが、それをうまく言葉で伝えることができなかった。だから彼は私と一緒にいても、満たされなかったのかもしれない。
(でも、それでいい。私と彼は合わなかった。ただ、それだけのこと)
今はもう、そう思えるようになっていた。
私と翔太くんたちが担当していた業務は、私がプロジェクトチームに異動したことで、後任の担当者が決まるまで二人が引き継ぐことになっていた。特に、私が長年かけて作成し改良を重ねてきた顧客管理データベースの運用は、その業務の根幹をなす重要な仕事だった。
私は異動する際、データベースの詳しい操作方法や注意点をまとめた分厚いマニュアルを翔太くんに渡しておいた。
「これ、読んでおいてください。特に、データのバックアップは毎日必ず取るようにしてくださいね」
そう念を押した私に、彼は面倒くさそうに言った。
「はいはい、分かってるよ。お前がいなくても、俺一人で十分できるっつーの」
その言葉に一抹の不安を覚えたが、それ以上は何も言えなかった。
案の定、私の不安は的中することになる。
ある日、営業三課の課長が血相を変えてプロジェクトルームに駆け込んできた。
「白石さん! 大変だ! 顧客管理データベースの、ここ一ヶ月分のデータが全部消えてしまった!」
「ええっ!?」
その言葉に、私は耳を疑った。
あのデータベースは、営業三課の生命線だ。顧客情報はもちろん、過去の取引履歴や商談の進捗状況など、全ての情報がそこに詰まっている。それが消えたとなれば、業務が完全にストップしてしまう。
「バックアップは……!? 毎日、取るように言ってあったはずですが!」
「それが、ここ一ヶ月、一度も取られていなかったようなんだ……。高坂君に確認したら、『白石さんがやっていたやり方は非効率だから、もっと良い方法を考えていた』なんて言うんだが……」
課長は頭を抱えてうなだれている。
(なんてことを……!)
愕然とした。翔太くんは私のやり方を否定したかっただけなのだ。私がいなくても自分の方がうまくやれると証明したかった。その見栄とプライドが、会社に多大な損害を与える最悪の事態を引き起こしてしまった。
「とにかく、急いでデータの復旧をしないと……!」
私はすぐに自分のデスクに戻り、データベースの復旧作業に取り掛かった。幸い、私が個人的に取っていた一ヶ月前のバックアップが残っていたため、それを元に他の書類と突き合わせながら地道にデータを手入力で復元していくしかない。
それは、途方もなく時間のかかる根気のいる作業だった。
プロジェクトの仕事も中断するわけにはいかない。私はその日から連日深夜まで残業し、データベースの復旧作業に追われることになった。
「すまない、白石さん……。君にばかり、負担をかけてしまって……」
課長が申し訳なさそうに頭を下げる。
「いえ、元は私が担当していた業務ですから。最後まで責任は取らせてください」
私がそう言うと、隣で話を聞いていた莉奈ちゃんが、わざとらしく大きな声で言った。
「もー、大変そーですねぇ、紬せんぱい。でも、翔太さんも悪気があってやったわけじゃないんですよぉ? ちょっと、やり方を変えようとしただけなんですぅ。先輩のマニュアルが、分かりにくかったんじゃないですかぁ?」
その言葉に、カチンときた。
(私の、せい……?)
翔太くんのミスを、私のマニュアルのせいにするなんて、あまりにも身勝手だ。
私が何か言い返そうとする前に、冷たく静かな声がフロアに響いた。
「……それは、どういう意味かな。姫川さん」
声の主は、いつの間にかそこに立っていた蓮さんだった。
彼の表情は、見たこともないほど冷え切っていた。その瞳は凍てつくような光を宿し、まっすぐに莉奈ちゃんを射抜いている。
「い、一条……専務……」
莉奈ちゃんは怯えたように顔を青くした。
「君は今、高坂君の重大な過失を、白石さんの責任であるかのように言った。違うかな?」
「そ、そんなつもりじゃ……」
「言い訳は聞きたくない。自分のミスの責任も取れず、他人に擦り付けようとする。そんな人間がこの会社に必要だと思うかね?」
蓮さんの言葉は、氷のように鋭く容赦がなかった。
フロア全体が、水を打ったように静まり返る。
翔太くんは顔面蒼白で立ち尽くしていた。
蓮さんは、震える莉奈ちゃんから私へと視線を移すと、今度は一転して優しい声で言った。
「白石さん。この件は、もう君が関わる必要はない。営業三課の問題は、営業三課で解決させる。君は、プロジェクトの仕事に集中してくれ」
「で、でも……」
「これは、総責任者としての命令だ」
彼の有無を言わせない口調。その目には、「君にこれ以上、辛い思いはさせない」という強い意志がこもっているように見えた。
私は、ただ「……分かりました」と答えるしかなかった。
蓮さんは最後に翔太くんと莉奈ちゃんを冷たく一瞥すると、静かにその場を立ち去った。
残された二人を、周囲の冷ややかな視線が突き刺す。
彼らの順風満帆に見えた日々に、確実に暗い雲が垂れ込めてきている。
それは、これから始まる嵐のほんの序章に過ぎなかった。
あなたにおすすめの小説
誘拐された公爵令嬢ですが、なぜか皇帝に溺愛されています』
富士山麓
恋愛
舞踏会で王太子から婚約破棄を告げられそうになった瞬間――
目の前に現れたのは、馬に乗った仮面の皇帝だった。
そのまま攫われた公爵令嬢ビアンキーナは、誘拐されたはずなのに超VIP待遇。
一方、助けようともしなかった王太子は「無能」と嘲笑され、静かに失墜していく。
選ばれる側から、選ぶ側へ。
これは、誰も断罪せず、すべてを終わらせた令嬢の物語。
地味令嬢の私が婚約破棄された結果、なぜか最強王子に溺愛されてます
白米
恋愛
侯爵家の三女・ミレイアは、控えめで目立たない“地味令嬢”。
特に取り柄もなく、華やかな社交界ではいつも壁の花。だが幼いころに交わされた約束で、彼女は王弟・レオンハルト殿下との婚約者となっていた。
だがある日、突然の婚約破棄通告――。
「やはり君とは釣り合わない」
そう言い放ったのは、表向きには完璧な王弟殿下。そしてその横には、社交界の華と呼ばれる公爵令嬢の姿が。
悲しみも怒りも感じる間もなく、あっさりと手放されたミレイア。
しかしその瞬間を見ていたのが、王家随一の武闘派にして“最強”と噂される第一王子・ユリウスだった。
「……くだらん。お前を手放すなんて、あいつは見る目がないな」
「よければ、俺が貰ってやろうか?」
冗談かと思いきや、なぜか本気のご様子!?
次の日には「俺の婚約者として紹介する」と言われ、さらには
「笑った顔が見たい」「他の男の前で泣くな」
――溺愛モードが止まらない!
兄妹じゃないとわかったのでお兄様と結婚したら、全部仕込みでした
こじまき
恋愛
【20260401読みやすいように話を分割しました】
伯爵令嬢ヘイゼルは、兄アリステアに恋をしている。叶わないと知りながら、それでも諦めきれなかった。
しかし子ども時代の「取り違え」が発覚し、子爵令嬢ロレッタとして“正しい場所”で生き直すことに。
そして妹ではなくなった彼女に、アリステアは求婚する。
運命のねじれは正されて、望んだとおりに最愛の人と結ばれた――
けれど――その「正しい運命」は、兄アリステアによって用意されたものだった――
※「小説家になろう」にも投稿しています。
妹に初恋を奪われ追放された王女、私を捨てた騎士がなぜか二度恋してきます〜迷宮の通信機で再会したら執着が重すぎる〜
唯崎りいち
恋愛
妹を刺した――。
身に覚えのない罪で、迷宮へ捨てられた王女の私。
絶望の中で拾ったのは、スマホに似た『未知の魔導具』だった。
繋がった相手は、見知らぬ「名もなき騎士」。
孤独を癒やしてくれる彼に、私は正体を知らないまま惹かれていく。
「君のためなら、国にだって逆らう」
けれど、再会した彼の正体は……?
「国だって滅ぼす。それくらいの覚悟でここに来たんだ」
通信機から始まる、二度目の初恋と逆転ざまぁ。
偽りの婚約者は、幼馴染の仮面を脱いだら甘くて執着深い
由香
恋愛
家の借金を理由に政略結婚を迫られる伯爵令嬢エリシアは、幼馴染のノアに「婚約者のふり」を頼む。
だが無邪気な年下と思っていた彼は、実は腹黒で一途な天才。
“偽装婚約”は甘さと執着に満ち、本物より本物らしくなっていく。
政敵との対立、同居生活、すれ違う想い——
そして二人はついに、嘘だったはずの婚約を本物に変えていく。
男に間違えられる私は女嫌いの冷徹若社長に溺愛される
山口三
恋愛
「俺と結婚してほしい」
出会ってまだ何時間も経っていない相手から沙耶(さや)は告白された・・・のでは無く契約結婚の提案だった。旅先で危ない所を助けられた沙耶は契約結婚を申し出られたのだ。相手は五瀬馨(いつせかおる)彼は国内でも有数の巨大企業、五瀬グループの若き社長だった。沙耶は自分の夢を追いかける資金を得る為、養女として窮屈な暮らしを強いられている今の家から脱出する為にもこの提案を受ける事にする。
冷酷で女嫌いの社長とお人好しの沙耶。二人の契約結婚の行方は?
腹黒外科医に唆された件~恋人(仮)のはずが迫られています~
有木珠乃@『ヒロ弟』コミカライズ配信中
恋愛
両親を亡くし、二人だけの姉妹になった一ノ瀬栞と琴美。
ある日、栞は轢き逃げ事故に遭い、姉の琴美が務める病院に入院することになる。
そこで初めて知る、琴美の婚約者の存在。
彼らの逢引きを確保するために利用される栞と外科医の岡。
「二人で自由にならないか?」を囁かれて……。
世継ぎは他の妃が産めばいい——子を産めない私ですが、帝の寵愛を独占して皇后になりました
由香
恋愛
後宮に入る女の価値は、ただ一つ。
——皇子を産めるかどうか。
けれど私は、産めない。
ならば——
「世継ぎは他の妃に任せます。私は、陛下に愛される女になります」
そう言い放ったその日から、すべてが狂い始めた。
毒を盛られても、捨てられず。
皇子が生まれても、選ばれたのは私だった。
「お前は、ここにいろ」
これは、子を産めない女が
ただ一つの武器“寵愛”だけで頂点に立つ物語。
そして——
その寵愛は、やがて狂気に変わる。