東京で燃え尽きた僕が、海辺の喫茶店で人生を淹れなおす物語

久遠翠

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第03話「潮風のクラウドファンディング」

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 沙織が口にした「クラウドファンディング」という言葉は、翔太にとって遠い世界の響きを持っていた。東京にいた頃、仕事で関わったことはあったが、それはあくまで巨大な資本が動くプロジェクトの話だ。こんな海辺の町の、古びた喫茶店を再生するために、どれだけの人が心を寄せてくれるというのだろうか。翔太の胸を、拭いがたい不安がよぎった。

「本当に、うまくいくと思うか?」
「やってみなくちゃ分からないよ! でも、何もしなければ、何も始まらない」
 沙織の瞳には、迷いの色がなかった。彼女のその真っ直ぐな強さが、翔太の背中を押した。二人だけのプロジェクトが、その日の午後、埃っぽい喫茶店のテーブルで始まった。

 沙織は観光協会の仕事の合間を縫って、ノートパソコンを巧みに操り、プロジェクトページの骨子を組み立てていく。翔太は、祖母の日記を何度も読み返し、人々の心を動かす言葉を探した。ただ「お金が必要です」と訴えるだけではダメだ。このプロジェクトが、単なる喫茶店の再建ではなく、この町の未来に繋がる一歩なのだと、伝えなければならない。

 プロジェクトのタイトルは、沙織の提案で『汐見町の灯りをもう一度。おばあちゃんの喫茶店「海猫」再生プロジェクト』に決まった。そして、翔太は日記の中から、町の誰もが知る出来事や、今は町を離れた人々が懐かしむであろうエピソードを慎重に選び出し、文章に織り込んでいった。

『昭和六十年、夏。記録的な不漁で町全体が沈んでいた日。私の店では、有り金全部をはたいて仕入れた豆で、一番うまいコーヒーを淹れた。漁師の男たちが『こんな時だからこそだ』と笑って飲んでくれた顔を、私は忘れない。』

『平成十年、春。この町から東京の大学へ旅立つ青年が、出発の朝、最後に私の店に寄ってくれた。『必ず、でっかくなって帰ってくる』と、彼はナポリタンを頬張りながら言った。その頬を、涙が伝っていた。』

 日記の言葉は、不思議な力を持っていた。それは、翔太が東京で必死にひねり出していた広告コピーとは全く違う、人の体温が感じられる生きた言葉だった。この言葉たちなら、きっと届く。翔太は、そう信じ始めていた。

 プロジェクトの準備を進める噂は、小さな町をすぐに駆け巡った。ある日、店の前を通りかかった漁協組合長の潮田が、心配そうな顔で中を覗き込んできた。
「翔太、なんだか大変なことを始めたらしいじゃねえか」
 翔太が事情を説明すると、潮田は腕を組み、深く頷いた。
「巴さんの店がなくなるのは、わしらも寂しい。だがな、若造が思いつきでやれるほど、甘いもんじゃねえぞ」
 厳しい口調だったが、その目には心配の色が浮かんでいた。そして、彼はポケットからくしゃくしゃの一万円札を数枚取り出し、カウンターに置いた。
「クラウドファンディングってのはよく分からんが、足しにしな。これは、巴さんに世話になった皆からの気持ちだ」
 ぶっきらぼうな優しさが、翔太の胸を熱くした。

 一方で、冷ややかな視線も感じていた。町議会議員の岩城が、車の中から値踏みするようにこちらを見ていることがあった。彼の周りにいる推進派の商店主たちからは、「どうせ道楽だろう」「一軒の喫茶店で、町の何が変わるんだ」という囁き声が聞こえてきた。そのたびに、翔太の心は揺らいだ。しかし、隣で沙織が「気にしない! 私たちは、私たちの信じることをやろう」と励ましてくれるのが、何よりの支えだった。

 数週間の準備を経て、ついにプロジェクトページを公開する日が来た。公開ボタンをクリックする翔太の指は、わずかに震えていた。沙織と二人、固唾をのんでパソコンの画面を見つめる。一時間、二時間……。支援額の数字は、ほとんど動かなかった。
「やっぱり、無理だったのか……」
 翔太が弱音を吐いたその時、沙織が叫んだ。
「見て! メッセージが来てる!」

 画面には、最初の支援者からのコメントが表示されていた。『東京在住、汐見町出身です。高校時代、進路のことで悩んでいた時、巴おばあちゃんのコーヒーを飲みながら話を聞いてもらいました。あの味が、僕の原点です。ささやかですが、応援しています。』
 それを皮切りに、ぽつり、ぽつりと、しかし途切れることなく支援とメッセージが届き始めた。大阪の主婦から、福岡のサラリーマンから、遠くは海外に住む元町民から。誰もが「海猫」と巴にまつわる、それぞれの温かい思い出を綴っていた。

『子供の頃、この店で食べたプリンアラモードが、世界で一番のごちそうでした。』
『父の葬式の日、店を閉めた後なのに、黙ってコーヒーを淹れてくれたおばあちゃんの優しさが忘れられません。』

 画面に次々と表示される言葉を追いながら、翔太の視界は滲んでいた。祖母は、こんなにも多くの人々の心の中に生き続けていたのだ。そして、この喫茶店は、ただの建物ではない。人々の記憶と感情が染み込んだ、かけがえのない場所なのだ。
 その夜、目標金額の三分の一が、あっという間に集まった。それは、単なる資金ではなかった。遠く離れた場所から寄せられた、たくさんの温かい「灯り」だった。翔太は、窓の外の静かな夜の海を見つめながら、この灯りを、絶対に絶やしてはいけないと、強く心に誓った。
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