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第02話「おばあちゃんの日記」
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「驚くって、どういうことだ?」
翔太の問いに、沙織はカウンターの椅子に腰掛けながら、ゆっくりと話し始めた。その表情には、十年という歳月と、故郷が抱える問題の重みが滲んでいた。
「翔太がいた頃とは、もう全然違うんだよ。駅前のあの商店街、覚えてる? 八百屋のおばちゃんとか、威勢のいい魚屋さんとか……。今じゃ、半分以上がシャッターを下ろしたまま」
沙織の言葉に、翔太は子供の頃の賑やかな光景を思い浮かべた。夕方になれば、買い物客と子供たちの声でごった返していたあの道が、今は静まり返っているという。にわかには信じがたかった。
「漁港も、昔ほど活気はないの。若い人はみんな町を出て行っちゃうし、後を継ぐ人もいない。お年寄りばかりが増えて……。小学校も、隣町の学校と合併する話が出てるくらい」
淡々と語られる現実は、翔太の胸に重くのしかかった。自分が東京で無我夢中に働いている間に、故郷は静かに、しかし確実に衰退の一途をたどっていたのだ。まるで、ゆっくりと潮が引いていくように。
「そんな中で、今、町が真っ二つに割れている大きな問題があって……」
沙織は声を潜め、窓の外に視線を向けた。
「大手デベロッパーが、この町の海岸線を買い取って、巨大なリゾート施設を造る計画を立ててるの」
「リゾート?」
翔太は思わず聞き返した。こんな寂れた町に、そんな大規模な開発計画があるとは、あまりに唐突だった。
「町議会の岩城議員が中心になって、計画を推し進めてる。『このままじゃ町は消えてなくなるだけだ。開発こそが、町が生き残る最後のチャンスなんだ』って。もちろん、仕事を求めて賛成する人も多いわ」
岩城剛。翔太も名前だけは知っていた。羽振りのいい建設会社の社長で、数年前に町議に当選した人物だ。
「でも、反対してる人たちもたくさんいる。特に、潮田さんたち漁師さんは猛反対。『先祖代々守ってきた海を金で売り渡すのか』って。自然を守りたい人たちも声を上げてる。おかげで、小さな町の中で、推進派と反対派が毎日ぎすぎすしてるの」
潮田譲二。漁協の組合長で、昔気質の海の男だ。子供の頃、よく巴の店でコーヒーを飲みながら可愛がってくれた顔を思い出す。あの温厚な人が、声を荒らげて反対している姿は想像しがたかった。
町が二つに割れている。その言葉の響きは、シャッターが下りた商店街の光景よりも、翔太の心をざわつかせた。かつては、誰もが顔見知りで、互いに助け合って暮らしていたはずのこの町で、人々が対立し合っている。
「巴おばあちゃんも、きっと心を痛めてたと思う。この店から、ずっと町のすべてを見てきた人だから……」
沙織はそう言って、寂しそうにカウンターを撫でた。その時、彼女の視線が、翔太の手元にあるノートに留まった。
「それ……もしかして、巴おばあちゃんの日記?」
「ああ、さっき見つけたんだ」
翔太はノートを沙織に見せた。沙織は一ページ一ページ、食い入るように文字を追い始めた。彼女の父親は病気で漁師を辞めたが、かつてはこの店の常連だった。日記の中には、沙織の知らない若い頃の両親の姿も記されていた。
『渚さんのところの若夫婦が、生まれたばかりの娘を連れてきた。沙織ちゃんと名付けたそうだ。海のように広い心の子になりますように、と。本当に愛らしい赤ん坊。』
「お父さん、こんなこと言ってたんだ……」
沙織の目に、うっすらと涙が浮かんでいた。この日記は、巴個人の記録ではない。汐見町で暮らしたすべての人々にとっての、共通のアルバムのようなものなのだ。翔太は、その事実に改めて気づかされた。
しばらく二人で黙って日記を読んでいたが、不意に沙織が顔を上げた。
「ねえ、翔太。この店、どうするつもりなの? 閉めたままにしておくの?」
その問いに、翔太は言葉を詰まらせた。何も考えていなかった。東京に戻る気力も、この町で何かを始める当てもない。自分は空っぽなのだ。
答えに窮する翔太の様子を見て、沙織は何かを察したように、しかし明るい声で言った。
「もし、翔太にその気があるなら、だけど……。この店、もう一度開けてみない?」
「え……?」
あまりに予想外の提案に、翔太は戸惑いの表情を浮かべる。
「僕に? 無理だよ。喫茶店の経営なんて、やったこともないし……」
「大丈夫だよ! 私も手伝うから!」
沙織は身を乗り出して言った。彼女は今、町の観光協会で働いているという。町の魅力を発信し、人を呼び込むのが仕事だ。
「この店は、ただの喫茶店じゃなかった。町の誰もが気軽に立ち寄れる、心の拠り所みたいな場所だったんだよ。今の汐見町に必要なのは、リゾート施設なんかじゃなくて、こういう場所なんじゃないかな。みんなが顔を合わせて、安心して話ができる場所が」
沙織の言葉は、熱を帯びていた。それは、彼女自身が心の底から願っていることなのだろう。その真剣な眼差しに見つめられ、翔太は再び手元の日記に目を落とした。
『対立は、相手を知らないことから生まれる。でも、同じテーブルについて、一杯のコーヒーを飲めば、人は少しだけ分かり合えるものさ。』
祖母が遺した言葉が、迷える翔太の背中を、そっと押した気がした。
東京で失ったもの。情熱、目標、そして人との繋がり。この場所でなら、もう一度、何かを始められるかもしれない。いや、始めたい。
「……やってみるか」
ぽつりと漏れた翔太の言葉に、沙織の顔がぱっと輝いた。
「本当!?」
「ああ。でも、何から始めればいいか、さっぱり分からない。それに、改装するにしても、お金が……」
現実的な問題が、次々と頭に浮かぶ。しかし、沙織は少しも動じなかった。彼女はウェブデザイナーだった経験を活かし、ある提案をした。
「クラウドファンディングで、資金を募ってみようよ」
「クラウドファンディング?」
「うん。『おばあちゃんの喫茶店を、もう一度町の居場所に』って。この店の思い出がある人は、町の中だけじゃなくて、全国にいるはずだよ。この日記が、きっとみんなの心を動かしてくれる」
沙織は自信に満ちた笑顔で言った。翔太は、埃をかぶった店の中を見回した。止まっていた時間が、再び動き出すような予感がした。祖母が守り続けたこの場所で、新しい物語が始まろうとしていた。それは、湊翔太という一人の男の再生の物語であると同時に、汐見町という一つの町の、再生の物語でもあった。
翔太の問いに、沙織はカウンターの椅子に腰掛けながら、ゆっくりと話し始めた。その表情には、十年という歳月と、故郷が抱える問題の重みが滲んでいた。
「翔太がいた頃とは、もう全然違うんだよ。駅前のあの商店街、覚えてる? 八百屋のおばちゃんとか、威勢のいい魚屋さんとか……。今じゃ、半分以上がシャッターを下ろしたまま」
沙織の言葉に、翔太は子供の頃の賑やかな光景を思い浮かべた。夕方になれば、買い物客と子供たちの声でごった返していたあの道が、今は静まり返っているという。にわかには信じがたかった。
「漁港も、昔ほど活気はないの。若い人はみんな町を出て行っちゃうし、後を継ぐ人もいない。お年寄りばかりが増えて……。小学校も、隣町の学校と合併する話が出てるくらい」
淡々と語られる現実は、翔太の胸に重くのしかかった。自分が東京で無我夢中に働いている間に、故郷は静かに、しかし確実に衰退の一途をたどっていたのだ。まるで、ゆっくりと潮が引いていくように。
「そんな中で、今、町が真っ二つに割れている大きな問題があって……」
沙織は声を潜め、窓の外に視線を向けた。
「大手デベロッパーが、この町の海岸線を買い取って、巨大なリゾート施設を造る計画を立ててるの」
「リゾート?」
翔太は思わず聞き返した。こんな寂れた町に、そんな大規模な開発計画があるとは、あまりに唐突だった。
「町議会の岩城議員が中心になって、計画を推し進めてる。『このままじゃ町は消えてなくなるだけだ。開発こそが、町が生き残る最後のチャンスなんだ』って。もちろん、仕事を求めて賛成する人も多いわ」
岩城剛。翔太も名前だけは知っていた。羽振りのいい建設会社の社長で、数年前に町議に当選した人物だ。
「でも、反対してる人たちもたくさんいる。特に、潮田さんたち漁師さんは猛反対。『先祖代々守ってきた海を金で売り渡すのか』って。自然を守りたい人たちも声を上げてる。おかげで、小さな町の中で、推進派と反対派が毎日ぎすぎすしてるの」
潮田譲二。漁協の組合長で、昔気質の海の男だ。子供の頃、よく巴の店でコーヒーを飲みながら可愛がってくれた顔を思い出す。あの温厚な人が、声を荒らげて反対している姿は想像しがたかった。
町が二つに割れている。その言葉の響きは、シャッターが下りた商店街の光景よりも、翔太の心をざわつかせた。かつては、誰もが顔見知りで、互いに助け合って暮らしていたはずのこの町で、人々が対立し合っている。
「巴おばあちゃんも、きっと心を痛めてたと思う。この店から、ずっと町のすべてを見てきた人だから……」
沙織はそう言って、寂しそうにカウンターを撫でた。その時、彼女の視線が、翔太の手元にあるノートに留まった。
「それ……もしかして、巴おばあちゃんの日記?」
「ああ、さっき見つけたんだ」
翔太はノートを沙織に見せた。沙織は一ページ一ページ、食い入るように文字を追い始めた。彼女の父親は病気で漁師を辞めたが、かつてはこの店の常連だった。日記の中には、沙織の知らない若い頃の両親の姿も記されていた。
『渚さんのところの若夫婦が、生まれたばかりの娘を連れてきた。沙織ちゃんと名付けたそうだ。海のように広い心の子になりますように、と。本当に愛らしい赤ん坊。』
「お父さん、こんなこと言ってたんだ……」
沙織の目に、うっすらと涙が浮かんでいた。この日記は、巴個人の記録ではない。汐見町で暮らしたすべての人々にとっての、共通のアルバムのようなものなのだ。翔太は、その事実に改めて気づかされた。
しばらく二人で黙って日記を読んでいたが、不意に沙織が顔を上げた。
「ねえ、翔太。この店、どうするつもりなの? 閉めたままにしておくの?」
その問いに、翔太は言葉を詰まらせた。何も考えていなかった。東京に戻る気力も、この町で何かを始める当てもない。自分は空っぽなのだ。
答えに窮する翔太の様子を見て、沙織は何かを察したように、しかし明るい声で言った。
「もし、翔太にその気があるなら、だけど……。この店、もう一度開けてみない?」
「え……?」
あまりに予想外の提案に、翔太は戸惑いの表情を浮かべる。
「僕に? 無理だよ。喫茶店の経営なんて、やったこともないし……」
「大丈夫だよ! 私も手伝うから!」
沙織は身を乗り出して言った。彼女は今、町の観光協会で働いているという。町の魅力を発信し、人を呼び込むのが仕事だ。
「この店は、ただの喫茶店じゃなかった。町の誰もが気軽に立ち寄れる、心の拠り所みたいな場所だったんだよ。今の汐見町に必要なのは、リゾート施設なんかじゃなくて、こういう場所なんじゃないかな。みんなが顔を合わせて、安心して話ができる場所が」
沙織の言葉は、熱を帯びていた。それは、彼女自身が心の底から願っていることなのだろう。その真剣な眼差しに見つめられ、翔太は再び手元の日記に目を落とした。
『対立は、相手を知らないことから生まれる。でも、同じテーブルについて、一杯のコーヒーを飲めば、人は少しだけ分かり合えるものさ。』
祖母が遺した言葉が、迷える翔太の背中を、そっと押した気がした。
東京で失ったもの。情熱、目標、そして人との繋がり。この場所でなら、もう一度、何かを始められるかもしれない。いや、始めたい。
「……やってみるか」
ぽつりと漏れた翔太の言葉に、沙織の顔がぱっと輝いた。
「本当!?」
「ああ。でも、何から始めればいいか、さっぱり分からない。それに、改装するにしても、お金が……」
現実的な問題が、次々と頭に浮かぶ。しかし、沙織は少しも動じなかった。彼女はウェブデザイナーだった経験を活かし、ある提案をした。
「クラウドファンディングで、資金を募ってみようよ」
「クラウドファンディング?」
「うん。『おばあちゃんの喫茶店を、もう一度町の居場所に』って。この店の思い出がある人は、町の中だけじゃなくて、全国にいるはずだよ。この日記が、きっとみんなの心を動かしてくれる」
沙織は自信に満ちた笑顔で言った。翔太は、埃をかぶった店の中を見回した。止まっていた時間が、再び動き出すような予感がした。祖母が守り続けたこの場所で、新しい物語が始まろうとしていた。それは、湊翔太という一人の男の再生の物語であると同時に、汐見町という一つの町の、再生の物語でもあった。
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