東京で燃え尽きた僕が、海辺の喫茶店で人生を淹れなおす物語

久遠翠

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第01話「燃え殻の帰郷」

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 アスファルトに溶けたネオンが、雨のように降り注ぐ。湊翔太の意識は、その光の洪水の中で途切れかけていた。鳴り響くサイレンの音は、まるで遠い世界の出来事のようだ。薄れゆく視界の端で、心配そうに自分を覗き込む同僚の顔が見えた、気がした。それが、翔太の東京での最後の記憶だった。

「このまま今の生活を続ければ、次は本当に命に関わりますよ」

 白い天井を見つめる翔太の耳に、医師の静かだが有無を言わせぬ声が突き刺さった。過労とストレスによる心因性の失神。診断は簡潔で、それゆえに絶望的だった。
 広告代理店の激務。連日の徹夜、胃に流し込むだけの食事、鳴り止まないスマートフォンの通知音。すべてが翔太の心と体を蝕んでいた。クリエイティブという名の摩耗。情熱は燃え尽き、後には空っぽの燃え殻だけが残った。
 退職届は、あっさりと受理された。あれほどしがみついていた世界から、こんなにも簡単に弾き出されるのかと、翔太は自嘲した。

 がらんとしたワンルームマンションで、荷物をまとめるでもなく、ただ窓の外を眺める日々が続いた。そんな無為な時間の中に一本の電話が差し込んだのは、梅雨の晴れ間の蒸し暑い午後だった。故郷の母親からだった。

「巴おばあちゃんが、亡くなったの。今朝、眠るようにして……」

 受話器の向こうで聞こえる母のすすり泣きが、やけに非現実的に響いた。祖母、巴。父方の祖母で、汐見町という海辺の町で、たった一人で小さな喫茶店を営んでいた。
 最後に会ったのはいつだっただろうか。大学進学で上京してから十年、盆と正月に数回顔を見せただけだった。優しい笑顔としわくちゃの手。いつもコーヒーの香りをまとっていた、温かい人だった。しかし、不思議と涙は出なかった。あまりにも長い間、故郷から、家族から、心を遠ざけすぎていたのかもしれない。

 十年ぶりに降り立った汐見町の駅は、記憶の中よりもずっと小さく、寂れて見えた。潮の香りが微かに鼻をかすめる。錆びついた駅名表示板が、ぎい、と風に鳴った。
 葬儀は、町の小さな斎場でしめやかに行われた。参列者のほとんどは、翔太の知らない顔だった。けれど、誰もが巴の名前を口にし、その死を心から悼んでいるのが伝わってきた。多くの人に愛されていたのだと、今更ながらに知る。

 葬儀を終えた翌日、翔太は母に頼まれ、祖母が暮らしていた店に向かった。海へと続く坂道の途中にある、喫茶店「海猫」。蔦の絡まる木造の小さな建物は、翔太が子供の頃から何も変わっていなかった。ただ、入り口に掛けられた「CLOSED」の札と、固く閉ざされたシャッターが、主の不在を物語っていた。

 鍵を開けて中に入ると、ひんやりとした空気と、埃っぽい匂いが翔太を迎えた。陽の光が差し込まない店内は薄暗く、時間が止まっているかのようだ。カウンターに並んだサイフォン、壁に掛けられた色褪せた絵画、使い込まれたテーブルと椅子。すべてが懐かしく、そして切なかった。三か月前、体調を崩して入院するまで、祖母はこの場所に立ち続けていたという。

 遺品を整理するという名目だったが、何から手をつけていいのか分からない。ただ茫然とカウンターの内側に立ち、客席を眺める。子供の頃、ここでよくミルクを飲ませてもらった。学校帰りに友達と入り浸ったこともあった。町の漁師たちが、大きな声で自慢話をするのを、カウンターの隅で聞きながら宿題をしていた記憶が蘇る。あの頃、この場所はいつも人で溢れ、笑い声とコーヒーの香りに満ちていた。

 ふと、カウンターの引き出しが少しだけ開いているのに気がついた。手をかけると、ぎ、と音を立てて開いた。中には、店の帳簿や古い伝票と一緒に、一冊の分厚いノートが収められていた。表紙には、祖母の丸い字で『海猫日記』と記されている。

 何気なくページをめくった翔太は、息を飲んだ。そこには、震えるような、それでいて力強い筆跡で、喫茶店を訪れた人々や町の出来事が、何十年にもわたりびっしりと綴られていたのだ。

『昭和五十一年四月三日。港に新しい船が入った。若い漁師の明雄さんが、恋人のことで相談に来る。男は黙って海を見つめていればいい、なんて時代はもう終わりだねぇ。』

『平成二年十一月二十九日。バブルとかいうもので、町も少し浮かれている。でも、こういう時こそ、地に足をつけないと。コーヒーの豆は、今まで通り一番いいものを。』

 翔太は、ページをめくる手を止められなくなった。これはただの日記ではない。祖母が生きた証そのものであり、この喫茶店が紡いできた、汐見町のささやかな歴史そのものだった。

 読み進めるうちに、最近のページにたどり着く。そこには、見慣れない言葉が増えていた。「シャッター通り」「後継者不足」「人口減少」。そして、ある一節に、翔太の目は釘付けになった。

『この店に人が集まらなくなったら、この町も本当に終わりなんだろうね。だから私は、最後の一人になったって、ここの灯りを守り続けるよ。』

 その言葉が、空っぽだった翔太の胸の奥に、小さな火を灯した気がした。
 カラン、と背後でドアベルが鳴った。驚いて振り返ると、そこに一人の女性が立っていた。逆光で見えにくいが、見覚えのある快活な笑顔だった。

「翔太……? やっぱり、翔太だよね?」

 その声に、翔太の記憶の扉が開かれた。
「沙織……か?」
 幼なじみの渚沙織だった。彼女は東京の大学に進学したはずだ。なぜ、こんな場所に。翔太の疑問に答えるように、沙織は少し寂しそうに笑った。
「久しぶり。私も、一昨年こっちに帰ってきたの。色々あってね」
 再会の挨拶もそこそこに、沙織は店内を見回し、深いため息をついた。
「巴おばあちゃん、本当に残念だったね。この店も、閉まったままだし……。今の汐見町、翔太が見たら、きっと驚くと思うよ」
 沙織が語る町の現状は、翔太の想像をはるかに超えていた。
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