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第07話「嵐の前の静けさ」
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住民投票の日が、一週間後に迫っていた。汐見町の空気は、まるで張り詰めた弦のように、ぴりぴりとした緊張感に包まれていた。町の掲示板には、リゾート開発の完成予想図を華々しく載せた推進派のポスターと、「美しい海を未来へ」と訴える反対派のポスターが、互いを睨みつけるように並んで貼られている。早朝から、両陣営の宣伝カーが、それぞれの主張を大音量で流しながら町中を走り回り、人々の心をさらに掻き乱した。
長年の付き合いだったはずの漁師と商店主が、道で会っても目を合わせずに通り過ぎる。井戸端会議に興じていた主婦たちの輪からも、いつしか笑顔が消えた。学校では、子供たちが親の意見を代弁するように口論になり、教師たちが頭を悩ませていた。町全体が、見えない壁で分断されてしまったかのようだった。
その中で、喫茶店「海猫」だけが、かろうじて嵐の中の避難所のような役割を果たしていた。翔太は、店の方針として、政治的な話題を客に振ることをせず、また、客同士が議論を始めても、それとなく話題を変えるように努めた。彼はただ黙々とカウンターに立ち、一杯一杯、心を込めてコーヒーを淹れ、訪れる人々の話に静かに耳を傾けた。ここだけは、誰もが「推進派」でも「反対派」でもなく、ただの一人の客として過ごせる場所でありたかった。それでも、店に流れる空気はどこか重く、人々の表情も硬いままだった。
そんな息の詰まるような日々が続いていた、投票日を四日後に控えた火曜日の午後。店のテレビが、臨時ニュースを告げた。気象予報士が、緊迫した面持ちで天気図を指し示している。
「……南の海上で発生した大型で非常に強い台風14号は、勢力を保ったまま北上を続けています。現在の予報円の中心を進んだ場合、今週の金曜日の夜から土曜日の未明にかけて、この地域に最も接近、あるいは上陸する恐れがあります」
季節外れの、しかも記録的な強さを持つ台風。その予報進路は、まるで狙いを定めたかのように、汐見町のある半島をまっすぐに貫いていた。
店内にいた客たちが、一斉にテレビに顔を向けた。窓の外の空は、まだ青く澄み渡っている。しかし、その穏やかさが、これから訪れるであろう猛威を前にした、不気味な静けさのように感じられた。
そのニュースを境に、町の関心は住民投票から台風対策へと一気にシフトした。岩城議員は、自身の建設会社が請け負う公共事業の現場を回り、従業員たちに厳しく指示を飛ばしている。潮田組合長をはじめとする漁師たちは、港に集まり、大切な船をロープで幾重にも固く係留し、陸に引き揚げる作業に追われていた。推進派も反対派も、今はそれどころではない。目前に迫った自然の脅威の前では、人間の対立などあまりに些細なものに思えた。
翔太と沙織も、店の台風対策に追われた。海に面した大きな窓には、拓也が手伝いに来てくれて、分厚い板を打ち付けた。店の周りにある植木鉢や看板など、風で飛ばされそうなものは全て店内にしまい込む。美月は、停電に備えて、カセットコンロで調理できる食材を確認し、保存食の準備を始めた。
金曜日の昼過ぎから、空は急速に鉛色の雲に覆われ、風が唸りを上げ始めた。町の防災無線が、繰り返し避難の準備を呼びかけている。高台にある公民館が、避難所として開設された。人々は、不安な表情で空を見上げながら、家路を急ぐ。
店の営業を早々に切り上げ、最後の戸締まりをしていた翔太の元に、沙織が駆け込んできた。
「翔太! 避難所、もう満員に近いみたい! 特に、海沿いに住んでるお年寄りが多くて、スペースが足りないって!」
その言葉に、翔太は店の奥にある小さな発電機と、備蓄してあったカセットコンロ、そして大量のコーヒー豆に目をやった。祖母が、昔から災害に備えて用意していたものだ。
翔太は、決意を固めた。
「沙織、この店を開けよう。臨時の避難所として」
彼の言葉に、沙織は一瞬驚いたが、すぐに力強く頷いた。
風雨が、窓ガラスを激しく叩き始めた。遠くで、雷鳴が轟いた。これから訪れる長い夜に、自分たちに何ができるのか。それは、ただ、この場所に灯りをともし続けることだけだった。町を二分するもう一つの「嵐」がすぐそこまで迫る中、汐見町は、抗うことのできない巨大な嵐の腕の中に、静かに飲み込まれようとしていた。
長年の付き合いだったはずの漁師と商店主が、道で会っても目を合わせずに通り過ぎる。井戸端会議に興じていた主婦たちの輪からも、いつしか笑顔が消えた。学校では、子供たちが親の意見を代弁するように口論になり、教師たちが頭を悩ませていた。町全体が、見えない壁で分断されてしまったかのようだった。
その中で、喫茶店「海猫」だけが、かろうじて嵐の中の避難所のような役割を果たしていた。翔太は、店の方針として、政治的な話題を客に振ることをせず、また、客同士が議論を始めても、それとなく話題を変えるように努めた。彼はただ黙々とカウンターに立ち、一杯一杯、心を込めてコーヒーを淹れ、訪れる人々の話に静かに耳を傾けた。ここだけは、誰もが「推進派」でも「反対派」でもなく、ただの一人の客として過ごせる場所でありたかった。それでも、店に流れる空気はどこか重く、人々の表情も硬いままだった。
そんな息の詰まるような日々が続いていた、投票日を四日後に控えた火曜日の午後。店のテレビが、臨時ニュースを告げた。気象予報士が、緊迫した面持ちで天気図を指し示している。
「……南の海上で発生した大型で非常に強い台風14号は、勢力を保ったまま北上を続けています。現在の予報円の中心を進んだ場合、今週の金曜日の夜から土曜日の未明にかけて、この地域に最も接近、あるいは上陸する恐れがあります」
季節外れの、しかも記録的な強さを持つ台風。その予報進路は、まるで狙いを定めたかのように、汐見町のある半島をまっすぐに貫いていた。
店内にいた客たちが、一斉にテレビに顔を向けた。窓の外の空は、まだ青く澄み渡っている。しかし、その穏やかさが、これから訪れるであろう猛威を前にした、不気味な静けさのように感じられた。
そのニュースを境に、町の関心は住民投票から台風対策へと一気にシフトした。岩城議員は、自身の建設会社が請け負う公共事業の現場を回り、従業員たちに厳しく指示を飛ばしている。潮田組合長をはじめとする漁師たちは、港に集まり、大切な船をロープで幾重にも固く係留し、陸に引き揚げる作業に追われていた。推進派も反対派も、今はそれどころではない。目前に迫った自然の脅威の前では、人間の対立などあまりに些細なものに思えた。
翔太と沙織も、店の台風対策に追われた。海に面した大きな窓には、拓也が手伝いに来てくれて、分厚い板を打ち付けた。店の周りにある植木鉢や看板など、風で飛ばされそうなものは全て店内にしまい込む。美月は、停電に備えて、カセットコンロで調理できる食材を確認し、保存食の準備を始めた。
金曜日の昼過ぎから、空は急速に鉛色の雲に覆われ、風が唸りを上げ始めた。町の防災無線が、繰り返し避難の準備を呼びかけている。高台にある公民館が、避難所として開設された。人々は、不安な表情で空を見上げながら、家路を急ぐ。
店の営業を早々に切り上げ、最後の戸締まりをしていた翔太の元に、沙織が駆け込んできた。
「翔太! 避難所、もう満員に近いみたい! 特に、海沿いに住んでるお年寄りが多くて、スペースが足りないって!」
その言葉に、翔太は店の奥にある小さな発電機と、備蓄してあったカセットコンロ、そして大量のコーヒー豆に目をやった。祖母が、昔から災害に備えて用意していたものだ。
翔太は、決意を固めた。
「沙織、この店を開けよう。臨時の避難所として」
彼の言葉に、沙織は一瞬驚いたが、すぐに力強く頷いた。
風雨が、窓ガラスを激しく叩き始めた。遠くで、雷鳴が轟いた。これから訪れる長い夜に、自分たちに何ができるのか。それは、ただ、この場所に灯りをともし続けることだけだった。町を二分するもう一つの「嵐」がすぐそこまで迫る中、汐見町は、抗うことのできない巨大な嵐の腕の中に、静かに飲み込まれようとしていた。
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