あらゝぎ

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不器用な人間どうしのラブストーリー

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 みのりが実家を出て一人暮らしを始めたのは、高校卒業とほとんど同時でした。それまで貯め込んでいたアルバイト代で、六畳間に小さな流し台が付いただけのアパートの一室を借りることができたのです。今のバス、トイレ付きの部屋に転居することができたのは、三十路も過ぎ、短大の奨学金を完済してからのことでした。
 早々と自活したのには訳があったのです。彼女が高校生になって間もなく、母との二人暮らしが始まりました。両親が別れた本当の理由は知らされていませんでした。ただ、スナックに勤めだした母は、次々と「新しい父ちゃんだよ~」と言っては男を連れ帰って来たのです。始め、みのりは、冗談だろうとしか思えませんでした。たまさか、父の晩酌に付き合う母を見てはいたものの、正体を無くすほどに酔っ払うなどはありませんでした。それに、知性品性の欠片も見られないその男達を、とても父として家族として受け入れるなどはできませんでした。寝汚く眠る二匹のケモノ達には閉口するしかありませんでした。なにより、翌日、嫌でも顔を合わせてしまったオスの、自分へ向けられる粘ついた視線に堪えられなかったのでした。
(とにかく、こんな所から一刻も早く出なければ。プライバシーの守れる、静かで清潔なところで休みたい)
 十代半ばにして、そう固く決心したものでした。それ故、彼女の高校生活は、授業以外はバイトに明け暮れるだけという、なんとも味気無いものに終わってしまったのです。
 その後、辛うじて短大に進み、卒業後、幼稚園教諭となったみのりですが、勤めは二年しか持ちませんでした。もともと人付き合いは苦手でしたが、大人では無く子供相手なら何とかやっていけそうな気がして選んだ職業だったというのですが。
  在職中、園児からは度々「怖い」と泣かれたし、保護者からは「厳し過ぎる」などとよく言われました。幼な児相手で笑顔が大切な職場であるというのに、どうしてもそれができなかったのでした。努めて笑顔になろうとしては顔が引き攣ってしまい、周りから嗤われ傷付いたことも度々でした。そのうち、顔面が痙攣し始めるなど、次々と不調が起こるようになり、遂には仕事に支障を来し、辞めざるを得なくなってしまったという訳でなのです。
  以来、彼女は人と接することに、以前にも増して苦手意識が残ってしまうのでした。
  症状が落ち着いてからの改めての職探しでは、できるだけ人との関わりが少ない所をと考えたものです。それで、機械製造会社での流れ作業の職を得たみのり。この仕事とは相性が良く、早いもので、勤め出して十数年になろうとしていました。
 仕事振りは真面目だし、身なりも流行りは追わないけれどきちんとしています。しかし、人の輪になかなか入っていけない質からか、誤解をされ易く、中傷されることも少なからずあったのでした。「お澄まし」「行かず後家」などと陰で言われているのも、薄々知っていました。
 そんな噂はともかく、このまま自宅と勤め先との往復だけ、しかも、挨拶以外には誰とも話さない日々ではあまりに物足りない。みのりは漸く最近、そんなことを感じ始めていました。意を決したみのりは、通勤途中の駅近くにある習字教室に通うことにしたのです。電車の吊り広告のモデルの笑顔に惹かれたかのように。元々、字は特にヘタと言う訳ではなかったのですが、(もっときれいに書けたらな)と言う思いはずっとありました。教室では、回を重ねるごとに上達して行くのが自分でも分かり、先生にも褒められるのは素直に嬉しかったものでした。また、生徒どうしでするたわいもない会話は新鮮でもありました。(仕事も趣味も、コツコツとするのが性に合っているな)と、改めて思うみのりなのでした。
 あの日のことはよく覚えています。なにしろ、生まれて初めて異性から誘われた日だったのですから。しかも同じ日に二件もの誘いがあり、何と一件はみのりのほうから断わったという日。それだけでなく、彼女の生き方に大きな影響を及ぼした日でしたから。
 それは、昨年のクリスマスも近いある週末のことでした。街は慌ただしさの中にも、ある種の高揚感に満ち溢れていました。けれども、心躍るプランなどとは一切縁の無い女であるみのりは、いつものように退社後、ひとり、駅までの道のりを急いでいたのでした。会社を出る時、怪しい雲行きだと思ったら案の定、中ほどで雨がぱらついてきました。どうやら間も無く本降りになるような気配でした。
「あのう……」
 後ろからためらい気味の声がしました。振り向くと同僚の風間涼介が立っていたのです。黒い折り畳み傘を手にして。
「これ、よかったら使って下さい。あ、自分は大丈夫です。……あの、もし、お、お急ぎでなければ、一緒にお茶でも……」
 彼女より五つばかり年下の設計部員でした。名前だけを見ると爽やかな青年を想像しがちですが、初対面で実際とのギャップに驚き、次に噴き出してしまう者までいたのです。
(この人が自分で付けた名前じゃあるまいし、風采が上がらないのだって全てが本人のせいでも無し。第一そんなことで嗤うだなんて失礼だし、幼稚だ)
 みのりはそう思うだけでしたが。けれど、他の点では嗤っていたのです。彼が、仕事以外でずっとイヤホンを耳にしているのが、なんだか気に障るのでした。彼女の勝手な想像でしかないのですが、
(一人でも平気なんです。いや、そのほうが音楽を楽しんだり、英会話の勉強に没頭できていいんです)
とかって、やせ我慢しているかのように見えて痛々しいのでした。あとになって思えば、もしかしたら、それは、どこかみのり自身と重なる部分があって、嫌なのかも知れなかったのですが。
(今は、珍しくイヤホンは外しているけれど。それにしても、逸れ者どうしが一緒にいるのを見られでもしたら、社内での格好のネタになるじゃないですか)
「要りません!」
 みのりは、自分でも驚くほどの大きな声で叫んでしまっていたのです。風間は一瞬、
 驚きの表情の後、ばつが悪そうに「す、すみませんでした」と一言発するや、足早にその場から離れて行きました。彼女は、いくら慣れていないことだったとは言え、余りに大人気無い返答に我ながら呆れ、すぐに申し訳無さが込み上げてきたのです。
(追いかけて謝ろうか……)
 ためらいながら、遠ざかる背中を目で追うみのりに、風を伴って激しさを増してきた雨が容赦無く降りつけてきました。
「ご、ごめんなさーいっ」
 振り絞った声にチラと振り返った風間だったのですが、何故かすぐに走り去ってしまったのでした。

 その時、後ろから彼女の腕をしっかと掴んだ者がいたのです。
「ヒーッ!?」
「ごめんなさい。驚かせて」
 そう言って清々しい微笑みと共に傘を差し掛けてくれたのは、やはり同じ勤め先で確か昨年入社したての、営業部の広瀬でした。彼は、先ほどの風間とは対照的で、若い女性社員の憧れの的なのでした。
 高身長、高学歴、彫りの深い顔立ちでスポーツマン、加えて若くして人を逸らさぬ会話術を備えているのだから恐れ入ります。(見てくれや才能は先祖、両親からの贈り物です。あなたはラッキーでしたよね)と、彼のことを手放しで持ち上げる女子社員達のようには素直になれず、どこか捻くれた思いを抱いていたみのりでした。自分の方がかなり年上であるし、仮に若かったにせよ相手になぞされる訳が無いとも承知していましたし。
 なのに、なんと言うことか、たった今、満開の笑顔でもって急接近されると、そんな思いは一陣の風と共に去りぬいてしまったのです。捻くれた想いは、秘かなる憧れの裏返しだったのでしょう。
 今、彼女は仄かなる想い人と、一つ傘に居る! しかも、みのりが濡れないようにと彼女の腰に回された手は、ぐいと彼に引き寄せられて。
「すみません。馴れ馴れしく相合傘だなんて」
 頭上から大らかに話す相手に何かしら気の利いた返事をと思うのだが、情けないかな、喉が渇ききったかのようで、声が出ないのだ。
「あー、残念。もう駅だ。みのりさん、お願いがあるんですっ」
(え? ファーストネーム、知っていてくれただなんて)
 広瀬はビニル傘の雫を切ってざっと畳むと、なおもみのりの腰に手を回し掛け改札口へ歩こうとしたが、さすがに彼女はそれをはぐらかした。    
 彼は何事も無かったかのようにみのりに歩調を合わせ、並んで話を続けた。
「実は今日、俺、誕生日なんです」
「まあ、それは、おめでとうございます」
「それがね、あまりめでたくないって言うか。祝ってくれるはずの悪友が、一人は風邪で、もう一人は急なデート優先って、これ、酷くないですか?」
「まあ、お気の毒に」
「でも却ってラッキーでした。お願いしますっ! 晩飯、可哀想な俺に付き合ってやって下さいっ」
人混みの中、メンズファッション誌から抜け出たかのような若者が、恵まれた体躯を折り曲げ、大声で年増女に言い寄っている図。
 恥ずかしくもあり、嬉しくもあるみのりだった。
 暫くのち、二人は駅の裏通りを歩いていた。
と言ってもなかなかの賑わいで、洒落たカフェやヘアサロン、それに雑貨屋などが立ち並び、若者の街と言った体である。その中に広瀬が時々利用するというイタリアンレストラン「ブレッザ」はあったのです。
「ここ、人気なんですよ。人数変更はあるけど、予約してあるから大丈夫です」
「ごめんなさいね。わたしなんかが相手で」
「あー、言わないで。俺、タイプなんですって。年上の女性。あ、俺、もう酔ってます? いやいや、本気ですって」
 話し上手、勧め上手の青年とワインとにすっかり溺れてしまった初心なアラフォー女。
 広瀬に「送って行くから」と言われ、タクシーに乗ったところまでは覚えているのだが……。
 朝まだき、みのりは顕わな姿で目覚めた。
「わ、わたし……」
「ご馳走さんでしたっ。やっぱ、見たまんま。遊んでる人じゃなかったっすね」
 言うと昨夜の好青年は、その時初めて下卑た含み笑いを見せたのでした。
「大丈夫だから。ナマでなんかしてないって」
「え? あ、あ、ああぁ……。か、帰りますっ」
 彼女が自分の衣服を掻き集め、バスルームに跳び込み、ドアを閉めるや、広瀬はケータイを手にすると窓辺で話し出しました。夜来の風雨で外れ掛けたのでしょう「Windmill」と書かれたこのホテルの看板が、宙ぶらりんとなっているのを見下ろしながら。
「だーかーらっ、俺の独り勝ちだぞ。証拠写真もバッチリだ。約束だぞ。奢れよ」
 背後で、手早く身支度を済ませ戻っていたみのりの、呻きとも叫びとも付かぬ声が部屋中に響いたのでした。併せて、狂女かと紛う血走った眼に圧倒された広瀬は、言われるままにケータイを差し出しました。彼女はそれを重いガラス製の灰皿で打ち砕いたのです。

 みのりは退職しました。
(皆、自分のことを嗤っているに違いない)
 何をする気にもなれず、何も考えることもできぬままに、漫然と時を遣り過ごしていました。いい年をしての醜態に、このまま消え去ってしまいたいと願うばかりだったのです。
 昔から、相手が悪くても自分を責めてしまう癖がありました。今回の件は自分にも非があったのですから、なおのこと自らを責めまくっていたみのりでした。それにしても、広瀬には手柄話のひとつとなるようでも、彼女にとっては真逆だったのでした。
 この先、深い傷として心に身体に付いてまわることでしょう。ずっと。
 広瀬は避妊に留意したかのように言っていたけれど、果たして本当だったのだろうか。最近どうも体調が優れないみのりなのでした。食欲が無く、ムカムカとすっきりしないしだるい。やたらと眠気に襲われもする。暫く様子を見ていたのですが、妊娠検査薬なるものがあると知り、薬局で買い求めたのでした。恐れていた通り、結果は陽性だったのです。それで、いよいよ意を決して、生まれて初めて彼女は産婦人科医院に出向いたのでした。勤めていた時、通勤時の車窓から見るともなしに見ていた、駅のホームに並ぶ一枚の看板を頼りに。(自分には縁の無い所だな)と思っていたそこに、「女医」と書かれていたのが決め手でした。
 想像していたとおり、待合室には若い女性がいっぱいで、彼氏らしい人とのカップルも何組かいたのに驚いたみのりでした。
 場違いなところに来たようで落ち着かない上、長い時間待たされ、すっかり疲れ果ててしまいます。そして、漸く呼ばれた診察室で、みのりは胎児の心拍画面を見せられたのでした。
「おめでとうございます。元気な子ですよ」
 行き来を絶った母と同い年くらいの医者に、にこやかにそう告げられた瞬間、彼女の両の瞳から人目もはばからず溢れ出るものがあったのです。嬉しいのやら悲しいのやら、何で泣いたのだか自分でも訳が分からなかったものです。
 けれど、その、いと小さきものを
(守らねば。守りたい!)
 そう思ったのは確かなのでした。

 涼やかな風が立ち始め、朝夕に虫の音も聞こえ始める頃、みのりは出産し、明日の退院の準備を始めていました。赤ちゃんの為、自分自身の為にも、生まれ変わらねばと決意したみのりなのでした。
 と、遠慮勝ちにドアをノックする音がしたのです。見舞客など来るはずも無し、てっきりナースだと思い、「どうぞ」と応えました。すると、控えめに開いたドアの向こうに風間が立っていたではありませんか。薄紫のリボン飾りのアレンジメントフラワーを手にして。
「……嗤いに、いらした?」
「と、とんでもない。お祝いに」
「何のお祝い? もしかして、あなたもあの賭け事のメンバーだったの?」
「違います! 断じて! 私は、広瀬らがあなたをからかったと知って、我慢ならずにあいつらを殴って。まあ、殴られもしましたが。多勢に無勢だしボコボコに。……で、結局、あいつらは会社を辞めました」
「……」
「入社してからずっと、あなたのことを想ってきました。一度は諦めました。でも、風の噂でここに入院したと聞いて、堪らなくなって……。それより、名前は?」
「まだ、です。恥の子で『チコ』なんてどうかしら?」
「何てことを。そういうの、絶対、絶対にやってはいけません! ……なら、『かおる』なんてどうですか!? さっき、ここに来る途中、風に乗って金木犀のいい薫りがしたんです。……『風間かおる』ってK・Kだし、ダブルイニシャルって幸せになれるとか言いますよね。それに、男女どちらにでも合います」
(この人は、いったい何を……え!?)
 みのりは、その馬鹿々々しいまでの深い愛に漸く気づいた。胸の奥深くに幾年も突き刺さっていた氷の切っ先が、ゆるりと溶け出すような感触を、今、感じ始めていた。

「あ、ありがとう。本当にありがとうございます。でも……これは、わたし自身が全うすべき責任なんです。あなたに、この重さの半分を引き受けてもらうことなどできませんっ」
 みのりに毅然と拒絶され、風間は、酷く苦いものを口にしたかのような顔付きで立ち竦んだ。そう、差し出した傘と誘いとをにべも無く断わられた、あの時と同じ表情で。
 しかしなおもみのりは続けた。震える声で。
「でも、もう、その必要はありません。し、死産だったんです」
「えっ。あーっ、す、すみませんでした。な、何て俺は馬鹿なんだ」
「いえ、いいえ。愚かなのはわたしのほうです」
 空のベビーベッドを挟んで、二つの影が歩み寄ったのでした。ふ
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