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3 王都への旅立ち
第12話 ケイエ 領主の館にて 1
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リアナは走っている。腕も足も重たくて、まるで水の中のようだったが、必死に動かした。逃げなければ。たくさんの人に追われている。肩をつかまれて、悲鳴をあげて振り返った。どこか見覚えのある顔の男だが、夢の中でいつもそうであるように、思いだすことができない。そのうち男はリアナを掴んだままずるりと皮が落ちはじめ、鉄鍋のなかでバターが溶けるように赤く泡立ちながら崩れていく。唇が開いて、「助けて」と言っているようだった。恐怖に襲われながらも、手をのばそうとするが、今度は足首を掴まれる。ぎょっとして見下ろすと、やはり爛れた赤い手の子どもだった。口もとがまた、何かを訴えるようにぱくぱくと開く。身をよじろうとすると腕も掴まれて、身動きが取れなくなった恐怖でリアナは悲鳴をあげた。
「リアナ」
肩が押さえつけられているのを感じる。赤い死体のような人間に囲まれ、顔がしだいに近づいてきた。どうして、どうして、と言っているように聞こえた。どうしてこんな目に、と。
――そんなのわたしにだってわからない、怖い、離して!
自分のものとは思えないほど、声は長く大きく響いた。炎が迫ってくる。暗闇の中で、踊るように広がっていく。息が苦しいのに、叫ぶのをやめられない。「リアナ」。やめて、わたしの名前を呼ばないで……
「起きてください、リアナ!」
頬をぴしゃりと打たれて、リアナはびくりとした。叫び声は、始まったときと同じようにぴたりと止まった。見上げると、青年の顔があった。気づかわしげに眉を寄せた顔がとても近い。寝台の上にいて、リアナの両脇にそれぞれ手をついていた。面長の優しそうな顔、里にもいそうなふつうの青年に見える――彼は、フィルと言ったっけ。フィル。フィルバート・スターバウ。
「大丈夫ですか? ひどくうなされていたから……。叩いてしまって、すみません」寝台の上から降りながら、そう声をかける。
まだ心臓がどきどきしていたが、悪夢の名残はしだいに引いていくようだった。一度、深く呼吸をしてから、口を開く。
「……夢が怖くて。……わたし、叫んでた? ごめんなさい」
がちゃっと音がして、もう一人の青年、デイミオンが入ってきた。手には剣を持っている。「どうした?」
「悪い夢を見ていたらしい。……大丈夫。怖いことは、もうありませんよ」前半をデイミオンに、後半をリアナに向かって言う。
「ここは……」
部屋をぐるりと見まわす。大きなガラス窓から、オレンジ色の光がいっぱいに差し込んできている。夢で炎を見たのは、この夕陽のせいかもしれないと思った。高価なガラス窓に、柱つきの立派な寝台。壁にかかったタペストリー。里では見たこともないような豪華な部屋だ。「お城?」と思わず呟くと、青年が笑った。
「あなたの城は、もっと立派ですよ」
どういう意味か尋ねようとすると、別の方から声がした。「ケイエの領主の館だ」
「今夜はここに泊まる。二日後に出発する予定だ」
決定事項だと言わんばかりの青年の声に、リアナは思わず胸の中で復唱してしまった。今夜はここに泊まる。二日後に出発する。でも、どうして?
里に戻りたい。そう口に出そうとして、目の前が一瞬、真っ暗になった。戻れるはずがない。焼かれた家。折り重なった死体。
うつむいて、シーツをぎゅっと握りこむ。恐怖は波のように、引いたと思ってはまた押し寄せてくる。心中を見通したように、フィルが肩に手を置き、落ち着かせるようにそっとつかんだ。
「起きられますか? なにか食べたほうがいい。温かいお茶も淹れますから」
華奢なティーテーブルに二脚しかない椅子をリアナとデイミオンに勧めて、フィルはお茶の準備をはじめた。お湯と茶葉を別々に持ってこさせ、それぞれを味見して、ポットを温める。その手つきは優雅で、とても半日前に剣を振るっていたとは思えない。
森の中で兵士らしき男たちに襲われかけたときに、助けてくれたフィルのことを思いだす。
正面のリアナにさえほとんど気取らせないほど静かに背後の男の喉を掻っ切り、かと思うともう一人の男とは、子どもでも相手にしているかのようにやすやすと斬り捨てた。その身のこなしは明らかに兵士として厳しい訓練を積んできたことを思わせるものだった。
「よければ、フィルと呼んでください」蜂蜜のように甘いテノールでそう頼まれては、リアナもうなずくしかなかった。
短めに整えられた茶色の髪にハシバミ色の瞳、人間とも竜族ともつかない容姿だが、どこにでもいそうな、優しげな「隣のお兄さん」といった雰囲気が漂う。こんな人が兵士だなんてリアナには信じがたいことだった。
翻って、もう一人の旅の仲間はというと――
デイミオン・エクハリトスと名乗った男は、椅子に腰を下ろして先に茶を飲みはじめている。華奢なティーセットと不釣合いなほど、威圧的で、男性的な長身の美男子だ。飾りボタンのついた詰襟の白いシャツ、細身のロングブーツ、短剣を下げる金具のついた飾り帯、なにより特徴的なのは、濃紺のルクヴァ――竜族の男の正装に欠かせない長衣――だ。竜に乗って戦うために、上半身はすっきりと細く、腰から下はたっぷりと広がる。
格好からして貴族の跡取り息子といった感じだし、怒ったように眉を寄せているので、なかなか話しかけづらい。
今日あったことを説明してほしい、と思い切って頼むと、フィルは「何か食べてからにしましょう」と主張した。
「じゃあその前に……屋敷の中を簡単に案内してもらえますか?」
「貴族の屋敷に興味があるのか?」
デイミオンが珍しく口を開いた。表情はうまく読み取れないが、少し皮肉げに見える。
「自分がどんなところに連れてこられたのか把握するまでは、知らない場所で落ち着いたらいけないと……養い親に習ってるんです」
「賢明だ」青年はわずかに口端を緩めた。「退路を確認するのは、良い兵士の条件だからな」
会ってたった半日だけれど、この人がこんなにしゃべるのは初めてだ。良い兵士、と言ったが、この人も兵士なのだろうか? 覚えておこう、とリアナは思った。里から出れば、自分は身寄りもない子どもに過ぎない。何が役立つかわからないのだから。
「リアナ」
肩が押さえつけられているのを感じる。赤い死体のような人間に囲まれ、顔がしだいに近づいてきた。どうして、どうして、と言っているように聞こえた。どうしてこんな目に、と。
――そんなのわたしにだってわからない、怖い、離して!
自分のものとは思えないほど、声は長く大きく響いた。炎が迫ってくる。暗闇の中で、踊るように広がっていく。息が苦しいのに、叫ぶのをやめられない。「リアナ」。やめて、わたしの名前を呼ばないで……
「起きてください、リアナ!」
頬をぴしゃりと打たれて、リアナはびくりとした。叫び声は、始まったときと同じようにぴたりと止まった。見上げると、青年の顔があった。気づかわしげに眉を寄せた顔がとても近い。寝台の上にいて、リアナの両脇にそれぞれ手をついていた。面長の優しそうな顔、里にもいそうなふつうの青年に見える――彼は、フィルと言ったっけ。フィル。フィルバート・スターバウ。
「大丈夫ですか? ひどくうなされていたから……。叩いてしまって、すみません」寝台の上から降りながら、そう声をかける。
まだ心臓がどきどきしていたが、悪夢の名残はしだいに引いていくようだった。一度、深く呼吸をしてから、口を開く。
「……夢が怖くて。……わたし、叫んでた? ごめんなさい」
がちゃっと音がして、もう一人の青年、デイミオンが入ってきた。手には剣を持っている。「どうした?」
「悪い夢を見ていたらしい。……大丈夫。怖いことは、もうありませんよ」前半をデイミオンに、後半をリアナに向かって言う。
「ここは……」
部屋をぐるりと見まわす。大きなガラス窓から、オレンジ色の光がいっぱいに差し込んできている。夢で炎を見たのは、この夕陽のせいかもしれないと思った。高価なガラス窓に、柱つきの立派な寝台。壁にかかったタペストリー。里では見たこともないような豪華な部屋だ。「お城?」と思わず呟くと、青年が笑った。
「あなたの城は、もっと立派ですよ」
どういう意味か尋ねようとすると、別の方から声がした。「ケイエの領主の館だ」
「今夜はここに泊まる。二日後に出発する予定だ」
決定事項だと言わんばかりの青年の声に、リアナは思わず胸の中で復唱してしまった。今夜はここに泊まる。二日後に出発する。でも、どうして?
里に戻りたい。そう口に出そうとして、目の前が一瞬、真っ暗になった。戻れるはずがない。焼かれた家。折り重なった死体。
うつむいて、シーツをぎゅっと握りこむ。恐怖は波のように、引いたと思ってはまた押し寄せてくる。心中を見通したように、フィルが肩に手を置き、落ち着かせるようにそっとつかんだ。
「起きられますか? なにか食べたほうがいい。温かいお茶も淹れますから」
華奢なティーテーブルに二脚しかない椅子をリアナとデイミオンに勧めて、フィルはお茶の準備をはじめた。お湯と茶葉を別々に持ってこさせ、それぞれを味見して、ポットを温める。その手つきは優雅で、とても半日前に剣を振るっていたとは思えない。
森の中で兵士らしき男たちに襲われかけたときに、助けてくれたフィルのことを思いだす。
正面のリアナにさえほとんど気取らせないほど静かに背後の男の喉を掻っ切り、かと思うともう一人の男とは、子どもでも相手にしているかのようにやすやすと斬り捨てた。その身のこなしは明らかに兵士として厳しい訓練を積んできたことを思わせるものだった。
「よければ、フィルと呼んでください」蜂蜜のように甘いテノールでそう頼まれては、リアナもうなずくしかなかった。
短めに整えられた茶色の髪にハシバミ色の瞳、人間とも竜族ともつかない容姿だが、どこにでもいそうな、優しげな「隣のお兄さん」といった雰囲気が漂う。こんな人が兵士だなんてリアナには信じがたいことだった。
翻って、もう一人の旅の仲間はというと――
デイミオン・エクハリトスと名乗った男は、椅子に腰を下ろして先に茶を飲みはじめている。華奢なティーセットと不釣合いなほど、威圧的で、男性的な長身の美男子だ。飾りボタンのついた詰襟の白いシャツ、細身のロングブーツ、短剣を下げる金具のついた飾り帯、なにより特徴的なのは、濃紺のルクヴァ――竜族の男の正装に欠かせない長衣――だ。竜に乗って戦うために、上半身はすっきりと細く、腰から下はたっぷりと広がる。
格好からして貴族の跡取り息子といった感じだし、怒ったように眉を寄せているので、なかなか話しかけづらい。
今日あったことを説明してほしい、と思い切って頼むと、フィルは「何か食べてからにしましょう」と主張した。
「じゃあその前に……屋敷の中を簡単に案内してもらえますか?」
「貴族の屋敷に興味があるのか?」
デイミオンが珍しく口を開いた。表情はうまく読み取れないが、少し皮肉げに見える。
「自分がどんなところに連れてこられたのか把握するまでは、知らない場所で落ち着いたらいけないと……養い親に習ってるんです」
「賢明だ」青年はわずかに口端を緩めた。「退路を確認するのは、良い兵士の条件だからな」
会ってたった半日だけれど、この人がこんなにしゃべるのは初めてだ。良い兵士、と言ったが、この人も兵士なのだろうか? 覚えておこう、とリアナは思った。里から出れば、自分は身寄りもない子どもに過ぎない。何が役立つかわからないのだから。
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