45 / 80
間章
竜の出産とデイミオン卿の憂さ晴らし 2
しおりを挟む
今でも覚えているが、その年の冬はよく働いた。飛竜舎のほうで孵化の成功率が高く、十羽近い雛が一時期に孵ったからで、里に数人しかいない飼育人たちは大忙しだったのだ。イニもその例に漏れず、竜舎に泊まりこむ日が多かったが、手伝うリアナは楽しくてあまり苦にはならなかった。
その頃のことを、彼女は今でも時折思いだす――竜は火を怖がらないので、竜舎の中は冬でも人間の家と変わらないほど暖かい。食べそこなった昼食のパンに差し入れのハムとチーズを挟んで火で炙ったものと、湯で薄めたホットワインの夜食。夕飯のシチューの残りを使ったシェパード・パイはおいしくて、いつも競争になったっけ。聞こえてくるのは、酒が入った大人たちのくだらない噂話と笑い声のまじるざわめき。竜たちの満足した調子の低いうなり声。リアナ自身も幼竜の世話に追われ、夜にはぐったりしてしまうことが多かった。手仕事をしているイニの横で、古いが清潔な毛布にくるまって休んでいると、養い親はあれこれと面白い話をしてくれた。彼自身が行ったことのある異国の地の話も大好きだったが、一番はやはり、いにしえの女王オンファレの話だ。妖精の国の美しく賢い女王が、魔法使いの青年に助けられながら国の危機を救うというもので、歳によらず空想家らしいイニの語り口のおかげでケイエの芝居小屋にも負けないほどはらはら、わくわくしたものだ。
手足は重く疲れているが、心は満足して、安心しきって眠っていられた夜のことは、今でも懐かしい。
いつもより早く感じた冬が終わり、雛たちの世話にようやくひと息つけるようになったころ、イニはふらりと旅に出ていった。
優秀な飼育人だが、少し風変りなところのあるこの養い親の、唯一の悪癖といえるのが放浪癖だった。仕事で忙しくしているときには収まっているが、繁忙期の春が終わると同時に風に誘われるらしい。里に定住するまでは放浪の画家だったというのが本人の弁で――短いときでも二、三週間、長ければ季節が変わるまで帰ってこないこともあったが、里人たちにも慣れたことだったし、リアナもおとなしく見送った。小さな時には泣いて泣いて、顔を涙と鼻水だらけにして引きとめたものだったが、冬が来れば十六歳になるのだ。いつまでも親の後を雛のようについて回る歳でもなかった。
イニが家を出た日のことは、今でもよく思い出す。リアナが鞍袋に数日分の食糧をつめたあと居間に戻ると、簡素な旅じたくをしたイニが、しみじみと広い部屋を見まわしていた。
「おまえがそこらじゅうを這いまわって、目につくものはなんでも口に入れてた頃が懐かしいよ。ほんの昨日のことのようだがな」
そのとき、自分がなんと返事をしたのかを覚えていない。養い親の、日焼けして皺の多い顔は今でも覚えているのだが。おそらく、たいして気にも留めていなかったのだろう。ただ、あまり親らしい思い出じみた話はしないタイプだったので、少し意外に思ったような気がする。そのころ、リアナはイニにいっぱしの女房面をしがちだったから、この時もパンを消しゴムの替わりに使うのはやめてよねとか、何か口うるさいことを言ったのかもしれない。
長身をかがめるようにして戸をくぐって出ていった養父は、それきり帰ってきていない。
季節は秋になりつつあった……。
その頃のことを、彼女は今でも時折思いだす――竜は火を怖がらないので、竜舎の中は冬でも人間の家と変わらないほど暖かい。食べそこなった昼食のパンに差し入れのハムとチーズを挟んで火で炙ったものと、湯で薄めたホットワインの夜食。夕飯のシチューの残りを使ったシェパード・パイはおいしくて、いつも競争になったっけ。聞こえてくるのは、酒が入った大人たちのくだらない噂話と笑い声のまじるざわめき。竜たちの満足した調子の低いうなり声。リアナ自身も幼竜の世話に追われ、夜にはぐったりしてしまうことが多かった。手仕事をしているイニの横で、古いが清潔な毛布にくるまって休んでいると、養い親はあれこれと面白い話をしてくれた。彼自身が行ったことのある異国の地の話も大好きだったが、一番はやはり、いにしえの女王オンファレの話だ。妖精の国の美しく賢い女王が、魔法使いの青年に助けられながら国の危機を救うというもので、歳によらず空想家らしいイニの語り口のおかげでケイエの芝居小屋にも負けないほどはらはら、わくわくしたものだ。
手足は重く疲れているが、心は満足して、安心しきって眠っていられた夜のことは、今でも懐かしい。
いつもより早く感じた冬が終わり、雛たちの世話にようやくひと息つけるようになったころ、イニはふらりと旅に出ていった。
優秀な飼育人だが、少し風変りなところのあるこの養い親の、唯一の悪癖といえるのが放浪癖だった。仕事で忙しくしているときには収まっているが、繁忙期の春が終わると同時に風に誘われるらしい。里に定住するまでは放浪の画家だったというのが本人の弁で――短いときでも二、三週間、長ければ季節が変わるまで帰ってこないこともあったが、里人たちにも慣れたことだったし、リアナもおとなしく見送った。小さな時には泣いて泣いて、顔を涙と鼻水だらけにして引きとめたものだったが、冬が来れば十六歳になるのだ。いつまでも親の後を雛のようについて回る歳でもなかった。
イニが家を出た日のことは、今でもよく思い出す。リアナが鞍袋に数日分の食糧をつめたあと居間に戻ると、簡素な旅じたくをしたイニが、しみじみと広い部屋を見まわしていた。
「おまえがそこらじゅうを這いまわって、目につくものはなんでも口に入れてた頃が懐かしいよ。ほんの昨日のことのようだがな」
そのとき、自分がなんと返事をしたのかを覚えていない。養い親の、日焼けして皺の多い顔は今でも覚えているのだが。おそらく、たいして気にも留めていなかったのだろう。ただ、あまり親らしい思い出じみた話はしないタイプだったので、少し意外に思ったような気がする。そのころ、リアナはイニにいっぱしの女房面をしがちだったから、この時もパンを消しゴムの替わりに使うのはやめてよねとか、何か口うるさいことを言ったのかもしれない。
長身をかがめるようにして戸をくぐって出ていった養父は、それきり帰ってきていない。
季節は秋になりつつあった……。
0
あなたにおすすめの小説
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
王宮地味女官、只者じゃねぇ
宵森みなと
恋愛
地味で目立たず、ただ真面目に働く王宮の女官・エミリア。
しかし彼女の正体は――剣術・魔法・語学すべてに長けた首席卒業の才女にして、実はとんでもない美貌と魔性を秘めた、“自覚なしギャップ系”最強女官だった!?
王女付き女官に任命されたその日から、運命が少しずつ動き出す。
訛りだらけのマーレン語で王女に爆笑を起こし、夜会では仮面を外した瞬間、貴族たちを騒然とさせ――
さらには北方マーレン国から訪れた黒髪の第二王子をも、一瞬で虜にしてしまう。
「おら、案内させてもらいますけんの」
その一言が、国を揺らすとは、誰が想像しただろうか。
王女リリアは言う。「エミリアがいなければ、私は生きていけぬ」
副長カイルは焦る。「このまま、他国に連れて行かれてたまるか」
ジークは葛藤する。「自分だけを見てほしいのに、届かない」
そしてレオンハルト王子は心を決める。「妻に望むなら、彼女以外はいない」
けれど――当の本人は今日も地味眼鏡で事務作業中。
王族たちの心を翻弄するのは、無自覚最強の“訛り女官”。
訛って笑いを取り、仮面で魅了し、剣で守る――
これは、彼女の“本当の顔”が王宮を変えていく、壮麗な恋と成長の物語。
★この物語は、「枯れ専モブ令嬢」の5年前のお話です。クラリスが活躍する前で、少し若いイザークとライナルトがちょっと出ます。
人狼な幼妻は夫が変態で困り果てている
井中かわず
恋愛
古い魔法契約によって強制的に結ばれたマリアとシュヤンの14歳年の離れた夫婦。それでも、シュヤンはマリアを愛していた。
それはもう深く愛していた。
変質的、偏執的、なんとも形容しがたいほどの狂気の愛情を注ぐシュヤン。異常さを感じながらも、なんだかんだでシュヤンが好きなマリア。
これもひとつの夫婦愛の形…なのかもしれない。
全3章、1日1章更新、完結済
※特に物語と言う物語はありません
※オチもありません
※ただひたすら時系列に沿って変態したりイチャイチャしたりする話が続きます。
※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
【完結】一番腹黒いのはだあれ?
やまぐちこはる
恋愛
■□■
貧しいコイント子爵家のソンドールは、貴族学院には進学せず、騎士学校に通って若くして正騎士となった有望株である。
三歳でコイント家に養子に来たソンドールの生家はパートルム公爵家。
しかし、関わりを持たずに生きてきたため、自分が公爵家生まれだったことなどすっかり忘れていた。
ある日、実の父がソンドールに会いに来て、自分の出自を改めて知り、勝手なことを言う実父に憤りながらも、生家の騒動に巻き込まれていく。
王宮に薬を届けに行ったなら
佐倉ミズキ
恋愛
王宮で薬師をしているラナは、上司の言いつけに従い王子殿下のカザヤに薬を届けに行った。
カザヤは生まれつき体が弱く、臥せっていることが多い。
この日もいつも通り、カザヤに薬を届けに行ったラナだが仕事終わりに届け忘れがあったことに気が付いた。
慌ててカザヤの部屋へ行くと、そこで目にしたものは……。
弱々しく臥せっているカザヤがベッドから起き上がり、元気に動き回っていたのだ。
「俺の秘密を知ったのだから部屋から出すわけにはいかない」
驚くラナに、カザヤは不敵な笑みを浮かべた。
「今日、国王が崩御する。だからお前を部屋から出すわけにはいかない」
※ベリーズカフェにも掲載中です。そちらではラナの設定が変わっています。(貴族→庶民)それにより、内容も少し変更しておりますのであわせてお楽しみください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる