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第2章 拡散性トロンマーシー
第5話:拡散性トロンマーシー・1
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勢いよく扉を開けたことで空気が揺らぐ。
二人分の下半身、四本の足がプラプラ揺れる。爪先がゆっくりぶつかり合って反発する。
ツバメとツグミの身体はやたら距離が近く、天井の梁に括られた太いロープにはほとんど隙間が無い。足元に転がる椅子を蹴飛ばすとき、二人は抱き合っていたのかもしれない。口付けさえしていたかもしれない。そのくらい近い。
とはいえ、既に水平方向の結合は解除された。いまや彼女らに可能な運動は垂直な重力に弄ばれることだけだ。かつて持っていたどんなエネルギーも霧散した。しかし、それはいったいどこに消えた?
「あは、私は死ぬと思ってたけどね~。彼方ちゃんは死なないと思ってた? ドッキリ芸人じゃないんだからさ、当たり前のことに大袈裟な反応するのやめなよ。とりあえずいつもの連絡するね~」
「頼む」
手近なパイプ椅子を乱暴に引き寄せ、彼方は死体の前で座った。
改めて見るまでもない。首吊り自殺、すなわち自発的にロープを用いて首を圧迫したことによる窒息死だ。宙に浮いている分だけ、彼女らの姿は最前列からステージを見上げたときのようによく見える。アイドル衣装風の上下、白いソックス。さっき試合をしていたときと同じコスチュームだ。体液や糞便の汚れは一点もない。
まだ十分に美しい状態だった。肌がみずみずしい。悪臭も無い。微かに良い匂いがするくらいだ。首に食い込んだ綱が不可逆な凹みを肌に刻み、顔だけは鬱血して赤黒くなってきてはいるが、簡単な特殊メイクの範疇だと言ってもまだ通る。
窓から蚊が飛んできて死体の頬にくっ付いた。死臭を放つにはまだ早いはずだが、死の気配を察知しておびき寄せられたりするのだろうか。
彼方は立ち上がって蚊をはたく。死体の頬がペチンと鳴る。蚊はあっさり潰されて小さな黒子のようになった。死体の上に死体が重なる。
「……」
今度は扉の隙間から小さな子猫が迷い込んでくる。死体の足元でフンフンと鼻を鳴らす。
彼方がその身体を抱きかかえると、子猫は僅かにみじろぎして腕の中に納まった。驚くほど軽いのに暖かい、まだ生まれて一年も経っていない子猫だろう。
頭を両手で掴んで力を入れると、子猫の頸椎はコキリと小さな音を立てて真横に折れた。手の平で潰れた蚊をティッシュで拭ってゴミ箱に捨て、その上に子猫の死体を放り投げた。
死体に死体に死体。実際のところ、いつでもどこでも死は連鎖している。死なない生物なんてこの世にはいないのだから。首吊り死体が、蚊が、子猫が、彼方にまで辿り着く日はいつか必ず来る。だが、それは今ではない。
トゥルルル、トゥルルル。立夏のスマホから電話をかけるコール音が鳴り続けている。携帯を耳に当てた立夏が死体の足元を指さした。
「今のうちに遺書とか確認しといてくれる? よほど変なこと書いてなければ、それで自殺の証拠になるからさ~」
ツバメとツグミの足元には青いビニールシートが敷かれている。新品のシート表面がシルクのように光を反射する。その上にアイドルらしいストラップ付きのヒールが合計四足、丁寧に添えられている。
遺書はその隣に置かれていた。ツバメ、ツグミと二人の名前が並んでいる連名の遺書。小さな純白の封筒を手に取って開ける。中の便せんまで丁寧に折りたたまれ、やたら上品な香水の匂いが微かについている。いかにも彼女たちらしい気遣いが行き届いた硬質な紙を開いて目を通す。
「いつも応援して頂いていたファンの皆様、スポンサーの皆さん、私たちはこのたび命を絶つことにしました。今までありがとうございました。私たちが受け取った皆様の優しさ、応援、暖かさには感謝してもしきれません。幸せな人生でした。可能な限りの身辺整理は済ませたつもりですが、不足があれば適当に処分処理して頂けると幸いです。また、スポンサー契約については、自殺法第十五条に基づき契約満了までを履行されたものとして補償されるはずです。思えば、私たちがプロゲーマーとしてお声かけ頂いたのは、二人で趣味のゲーム配信をしていた五年前のことで……」
あとは取り止めのない思い出話だ。個人的な話に入る前に、関係者への感謝と法令上の後処理について書いてあるあたりが実に優等生らしい。
スカートの下から覗いてみればちゃんとパンツではなくオムツを履いている。これも弛緩した肛門から汚物が垂れないようにという配慮だ。自殺のマナーとしてはよく知られているが、実際に手配する人はそこまで多くない。
総じて、ゲームプレイと同じくらい模範的でセオリー通りの自殺。
「お待たせしました! こちら大手町警察、自殺担当課の樹です!」
ようやく電話が繋がったようだ。頼れる警官お姉さん、樹さんの快活な声がスピーカーホンで通る。通話口の向こうで敬礼している姿が目に浮かぶ、このはきはきした声も聞きなれたものだ。
二人分の下半身、四本の足がプラプラ揺れる。爪先がゆっくりぶつかり合って反発する。
ツバメとツグミの身体はやたら距離が近く、天井の梁に括られた太いロープにはほとんど隙間が無い。足元に転がる椅子を蹴飛ばすとき、二人は抱き合っていたのかもしれない。口付けさえしていたかもしれない。そのくらい近い。
とはいえ、既に水平方向の結合は解除された。いまや彼女らに可能な運動は垂直な重力に弄ばれることだけだ。かつて持っていたどんなエネルギーも霧散した。しかし、それはいったいどこに消えた?
「あは、私は死ぬと思ってたけどね~。彼方ちゃんは死なないと思ってた? ドッキリ芸人じゃないんだからさ、当たり前のことに大袈裟な反応するのやめなよ。とりあえずいつもの連絡するね~」
「頼む」
手近なパイプ椅子を乱暴に引き寄せ、彼方は死体の前で座った。
改めて見るまでもない。首吊り自殺、すなわち自発的にロープを用いて首を圧迫したことによる窒息死だ。宙に浮いている分だけ、彼女らの姿は最前列からステージを見上げたときのようによく見える。アイドル衣装風の上下、白いソックス。さっき試合をしていたときと同じコスチュームだ。体液や糞便の汚れは一点もない。
まだ十分に美しい状態だった。肌がみずみずしい。悪臭も無い。微かに良い匂いがするくらいだ。首に食い込んだ綱が不可逆な凹みを肌に刻み、顔だけは鬱血して赤黒くなってきてはいるが、簡単な特殊メイクの範疇だと言ってもまだ通る。
窓から蚊が飛んできて死体の頬にくっ付いた。死臭を放つにはまだ早いはずだが、死の気配を察知しておびき寄せられたりするのだろうか。
彼方は立ち上がって蚊をはたく。死体の頬がペチンと鳴る。蚊はあっさり潰されて小さな黒子のようになった。死体の上に死体が重なる。
「……」
今度は扉の隙間から小さな子猫が迷い込んでくる。死体の足元でフンフンと鼻を鳴らす。
彼方がその身体を抱きかかえると、子猫は僅かにみじろぎして腕の中に納まった。驚くほど軽いのに暖かい、まだ生まれて一年も経っていない子猫だろう。
頭を両手で掴んで力を入れると、子猫の頸椎はコキリと小さな音を立てて真横に折れた。手の平で潰れた蚊をティッシュで拭ってゴミ箱に捨て、その上に子猫の死体を放り投げた。
死体に死体に死体。実際のところ、いつでもどこでも死は連鎖している。死なない生物なんてこの世にはいないのだから。首吊り死体が、蚊が、子猫が、彼方にまで辿り着く日はいつか必ず来る。だが、それは今ではない。
トゥルルル、トゥルルル。立夏のスマホから電話をかけるコール音が鳴り続けている。携帯を耳に当てた立夏が死体の足元を指さした。
「今のうちに遺書とか確認しといてくれる? よほど変なこと書いてなければ、それで自殺の証拠になるからさ~」
ツバメとツグミの足元には青いビニールシートが敷かれている。新品のシート表面がシルクのように光を反射する。その上にアイドルらしいストラップ付きのヒールが合計四足、丁寧に添えられている。
遺書はその隣に置かれていた。ツバメ、ツグミと二人の名前が並んでいる連名の遺書。小さな純白の封筒を手に取って開ける。中の便せんまで丁寧に折りたたまれ、やたら上品な香水の匂いが微かについている。いかにも彼女たちらしい気遣いが行き届いた硬質な紙を開いて目を通す。
「いつも応援して頂いていたファンの皆様、スポンサーの皆さん、私たちはこのたび命を絶つことにしました。今までありがとうございました。私たちが受け取った皆様の優しさ、応援、暖かさには感謝してもしきれません。幸せな人生でした。可能な限りの身辺整理は済ませたつもりですが、不足があれば適当に処分処理して頂けると幸いです。また、スポンサー契約については、自殺法第十五条に基づき契約満了までを履行されたものとして補償されるはずです。思えば、私たちがプロゲーマーとしてお声かけ頂いたのは、二人で趣味のゲーム配信をしていた五年前のことで……」
あとは取り止めのない思い出話だ。個人的な話に入る前に、関係者への感謝と法令上の後処理について書いてあるあたりが実に優等生らしい。
スカートの下から覗いてみればちゃんとパンツではなくオムツを履いている。これも弛緩した肛門から汚物が垂れないようにという配慮だ。自殺のマナーとしてはよく知られているが、実際に手配する人はそこまで多くない。
総じて、ゲームプレイと同じくらい模範的でセオリー通りの自殺。
「お待たせしました! こちら大手町警察、自殺担当課の樹です!」
ようやく電話が繋がったようだ。頼れる警官お姉さん、樹さんの快活な声がスピーカーホンで通る。通話口の向こうで敬礼している姿が目に浮かぶ、このはきはきした声も聞きなれたものだ。
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