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第4章 アルカリ決闘戦

第21話:アルカリ決闘戦・4

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 雨はまだ止まない。夕方になっても勢いを増す一方だ。
 鉄板に焦げ付いたような黒く厚い雲が空を覆っている。ブラウスが肌に張り付くのは汗か雨か。遥か遠くで鳴る雷が耳の奥にある骨を揺らした。
 公園の地面はあちこち泥沼のように淀んでいて、駆け回ったり泥で遊んだりしている子供はいない。そういう活動的で爽やかな雨の日ではないのだ。こんな重苦しい雨の日には家にこもって宿題やゲームにでも取り組んだ方がいい。
 芽愛はチャイムの前で指先を伸ばし、一度だけ曲げてから改めて押し込んだ。

「やあ芽愛、入って入って。ちなみにいつでも来てくれていいよ、別に連絡を入れなくても」

 すぐに出てきた麗華が目を細めて出迎えた。
 手には大きなバスタオルを持っている。事前にラインで連絡しておいたとはいえ相変わらず準備がいい。
 しかし傘の置き場に迷う。何せ塵一つなく輝く玄関だ。ここに水滴を垂らすことに抵抗を感じない人はそうそういないだろう。

「ああ、それはその辺に寝かせておいてくれればいいよ。もっと人数が来るときは傘立てを出しておくんだけども」

 麗華は広げたバスタオルを持ったまま、芽愛の身体を前から思い切り抱きしめた。
 ふんわりジャスミンの香る布が全身を覆う。麗華の長い髪も芽愛の身体を伝って濡れてしまうが、気にする素振りもなく顔を寄せてくる。

「いつにも増していい匂いがするね、森の中みたいな。雨だから?」
「……そんなことはないと思うけど」

 布と体温のくすぐったさに少し腰を引く。
 これも麗華の気遣いなのだと思う。きっと濡れていることを気にしてなくてもいいよというメッセージだ、自分も多少濡れるくらい気にしないからと。
 差し出されたスリッパを履き、バスタオルを身体に巻き付ける。相変わらず生活感のない廊下を通ってリビングに出た。

「座って座って、着替えが欲しかったら言ってね。夕飯でも食べていく? まだ少し時間があるから、何か食べたいものがあれば作ってあげるよ。そうだ、一緒に買い出しに行こうか、近所のスーパーまで」

 ここに来るのは再会した日ぶりだ。いきなり立ち上がって勢いのまま立ち去ったのはもう三週間ほど前になる。
 あれからリビングの様子は全く変わっていない。机の隅に置かれた写真立ても、その隣にあるメルリンのぬいぐるみも。変化に乏しいこの家は時間が止まっているかのようだ。
 バスタオルはお尻の下に引き、その椅子に改めて座った。

「その前に、ちょっと話しておきたいことがあるんだけど」
「うん、いいよ。来ていきなり出かけるのも落ち着かないしね。お茶でも飲みながら話そうか」

 麗華がまだ青い葉の香りが漂う紅茶を差しだしてきた途端、外から聞こえる雨が心地良いBGMに変わってしまう。
 手の中でガラスのコップを二度回し、それから麗華の目をはっきり見据えた。

「これは仮の話として聞いてほしいんだけど」
「うん」
「もし黒幕が知り合いだったとしたら、麗華はどうする?」
「ごめん、ちょっと主語が。黒幕っていうのはどういう意味かな」
「魔獣を生み出した人っていうか、この騒動を巻き起こした人」
「ああ、そういう人がいる前提の話か。まあ、そういう可能性も考えはするよね。何か証拠でも掴んだ?」
「いや、もしそうだったらどう思うみたいな。気持ちの話」
「それだけじゃあ何とも言えないな。事情は人それぞれだし、別に悪人ってわけでもないのだし」
「悪人ではあるんじゃない? 町を危険に晒してる」
「でも被害は何も出ていない。結果として問題ない範疇だ、魔法少女たちが町を守護している限りは、結果が全てとは言わないけれども。この前も話した通り、七年前の騒動だって私は君を恨んだことは一度もないんだ。むしろ感謝してる」
「それは黒幕が私たちのうちの誰かだとしても変わらないの?」
「その私たちっていうのは、魔法少女たちのことでいいのかな」
「そう。私を入れれば四人、まあ、緑山も足して五人でもいいけど。とにかく七年前の関係者が持ち越してきてるだけで、新しい敵なんて誰もいない場合ってこと」
「答えは同じだよ。別に悪人だとは思わないから、どうという話でもない」
「魔獣退治は自作自演ってことになるけど、それでも?」
「うん。だって、そのおかげでこうして皆で集まれたんだもの。七年前と同じだよ。良くも悪くもイベントがあって初めて進むことはある、というより、人生ってイベントがなければ進まないのかも。私は魔法少女をやってそれを学んだのかもしれないね」

 麗華は一息吐いて紅茶を飲んだ。美味しい、と自画自賛を呟く。
 落ち着いていることは想像通りだが、落ち着きぶりは想像以上だ。思えば麗華が動揺している姿は今年まだ一度も見ていない。小学生の頃は年齢相応に驚いたり焦ったりしていたはずだが、この七年で肝が据わったというか。
 次の話題を切り出そうとして、そういえば、と言おうとしたが、声帯が上手く震えなかった。息だけを吐き出した音が雨音に紛れて消えた。
 麗華も同じくらいの音量で「ん?」と呟き、芽愛は改めて言い直した。

「そういえば。仮面ってまだ持ってる? 七年前にあげたやつ」
「君がくれたマスカレードマスク? もちろん。家宝にしてるよ」
「久しぶりに見たくなった。すっかり忘れてたけど思い出も割とあるし」
「じゃあ取ってくる。二階にあるからちょっと待っててね」

 麗華が立ち上がり、廊下とは反対側にある階段を昇ってリビングを出ていく。この家は少し妙な間取りをしていて、二階に繋がる階段は廊下ではなくリビングの奥にあった。
 階段を上がる足音を確認してから芽愛も立ち上がった。
 なるべく音を立てないように素早く廊下を進み、いつも麗華が料理を運び出してくる部屋の前に立つ。鋭く一息吸ってから、吐き出す息と一緒に扉のノブを下ろした。

「……」

 奇妙な部屋だった。
 暮らしを理想化したモデルルームのような他の部屋と違って、この部屋は暮らしとは完全に切断されていた。何か高尚なコンセプトに基づいて設計された、前衛芸術的なもののような。
 大きな冷蔵庫が部屋の中央に鎮座していて、冷蔵庫とは壁際に置かれていないだけでこんなにも異様に見えることを初めて知る。
 黒い電源コードがぴんと直線に伸びてコンセントに繋がっている。左右にはステンレスラックが一つずつ置かれ、いつも麗華が料理を運ぶのに使っている大きなお盆が何枚も重なっていた。
 ゆっくり鑑賞している時間はない。冷蔵庫の扉に手をかける。
 まずは一番上、両開きのドアを開け放つ。
 棚の最上段には調理前の素材や調味料が並んでいる。パックに入った味噌、一部だけ切り出された塊のベーコン、わさびやからしのチューブなど、使いかけの諸々が几帳面に保存されていた。
 真ん中の段には仕込みが終わった食材。魚が漬け込まれたステンレスバットの隣で、緑色と橙色が混ざったペーストが小分けになっている。
 最下段には完成品の料理だ。食卓に運ばれるのを待っている唐揚げや煮付け。どれもラップがかかっていてレンジで温めればすぐに食べられる状態だった。
 上から下に向かって料理が進行するように保存しているのだろう、奥の方まで見回してから次は野菜室の扉を手前に開ける。
 広いスペースがプラスチック板で綺麗に分けられ、区画ごとに新鮮なキャベツやトマトや人参が並んでいた。日持ちしにくい食材をしまっているからか、取り出しやすいように小さな台や仕切りも使って見通しを良くしているようだ。おかげですぐにチェックを終えて扉を閉めた。
 最後は一番下の冷凍庫。
 重いドアを引き出すと大量のタッパーが積み重なっている。他の棚に比べると見通しが悪いが、幸い容器はどれも透明だ。
 中身に応じて蓋の色を分けていることはすぐにわかった。青い蓋のタッパーには生肉や生魚、緑の蓋のタッパーには料理の余り、紫のタッパーには保冷剤など。積み重なったタッパーを次々に取り除いていく。
 一番下の地層に一つだけ赤い蓋のタッパーを見つけた。大量のタッパーの中でこれだけが異なる色の蓋、つまり唯一無二の中身を持っているのだ。
 蓋に爪の先を引っかけて一息に開けた。

「ああ、やっぱり見つけちゃったか」

 背後から間延びした声。灯りの付いた廊下から暗い部屋の中に向かって長い影が伸び、芽愛と冷蔵庫をまとめて覆った。

「黒幕はあなた?」
「うん。頑張ればまだ誤魔化せるような気もするんだけど、この辺りが潮時だよね」

 麗華は指先でマスカレードマスクをくるくる回した。
 赤い蓋のタッパーに入っていたのは、妖精メルリンの凍結死体。
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