公爵令嬢の出来る事【完】

mako

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戸惑いの皇帝

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「……何だと?」

フリードリヒは、書類に目を落としたまま小さく問い返し、それでもレイモンドの言葉が引っかかったのか、手を止めて顔を上げた。

「だからさ、第八妃殿下がね、孤児院とか市場とか、そういう庶民の場所に視察に出てるらしいって話」

ソファにふんぞり返り、リンゴを齧りながら気楽に言うレイモンドに、フリードリヒは鋭い目を向けた。

「……その“第八”とか、いちいち数字で呼ぶのはやめろ」

「えー? わかりやすいじゃん。四方八方から嫁いできた姫様たちの名前、全部覚えろって? 無理だよ。整理番号つけたほうが早いって」

「……それはそれで問題だろう」

「うん、知ってる」

気の抜けた返事を返しながら、レイモンドはまたリンゴにかじりついた。

「……で?」

「ん?」

「なんで孤児院なんだ? なんで市場なんだ? そんなとこに行く理由があるのか?」

「さあ。お出かけ好きとか? 退屈してたんじゃない? あの子、けっこう真面目だし」

「仮にも、皇帝の妃だぞ?」

「うん、それな。なんか、もったいないよね?」

「……」

フリードリヒは、机の上の書類をもう一度手に取ろうとしたが、結局、指先だけが紙の端に触れたまま止まった。

「……それで、何を見て、何を得ようってんだ」

「うーん。意外と“何か”を得ちゃうタイプかもね。あの子、表面と中身、ちょっとズレてる」

「……ズレている、だと?」

「褒めてるんだよ。あれ、真面目で頑固。けど柔らかい。ああいうの、一番やっかい」

「……やっかい?」

「そう。面倒だけど、ひとつ間違えると味方にもなるし、敵にもなる。で、皇帝陛下はその“やっかいな妃”に、ほとんど無視を決め込んでるわけだけど――」

レイモンドは意味深な笑みを浮かべて、リンゴの芯を皿の上に投げ出した。

「……さて、そろそろ火がつく頃かな?」

「誰に、だ」

「彼女に。そして、お前に」

そう言い残して、レイモンドはひらひらと手を振りながら部屋を出ていった。

フリードリヒはその背をじっと見つめたまま、しばらく動かなかった。


次の日、帝都の空は久しぶりに柔らかな青空を見せていた。

チェチーリアは、アメリアと数名の侍女、それに護衛兵数名を連れ、帝都南部の孤児院へと向かっていた。
ドレスは控えめな仕立てのものを選び、宝石類も最小限。歩きやすい靴を履き、頭には日除けのレース付きの帽子。
「皇帝の妃」という看板を掲げて威圧するつもりは、まったくなかった。

帝国の都といえど、城から外れれば、石畳はひび割れ、建物もどこか煤けている。だが、子どもたちの笑い声だけは、どこか澄んで響いていた。

「こんにちは」

門の前に立ったチェチーリアが声をかけると、中から飛び出してきたのは十歳にも満たない少年。
彼は一瞬きょとんとしたが、すぐに満面の笑顔を浮かべて叫んだ。

「お客さんだーっ!」

その声に誘われるように、他の子どもたちもわらわらと集まってくる。
彼女の服装から身分の高さは察しがついたはずだが、怖がる様子はなかった。ただ、純粋に「誰かが来てくれた」という事実を喜んでいるのだと、チェチーリアはすぐに気づいた。

「ようこそいらっしゃいました、妃殿下。まさか本当にお越しになるとは……」

院長と思しき老婦人が深々と頭を下げた。

「今日はお招きありがとうございます。子どもたちの暮らしを、少しでも知りたくて」

チェチーリアは笑顔でそう返した。

それからの数時間、彼女は子どもたちと遊び、話を聞き、厨房や寝室の設備まで細かく見て回った。
アメリアは最初こそ呆気に取られていたが、途中からは手際よくメモを取り、チェチーリアの動きを補佐していた。

視察の帰り道、市場に立ち寄ると、また風景は一変する。

香辛料の香りが鼻をくすぐり、店主たちの威勢の良い掛け声が飛び交う賑やかな世界。
チェチーリアは目を輝かせながら、果物や布地、焼きたてのパンなどを一つひとつ興味深く見て回った。値段や品質、商人の話術――すべてが新鮮だった。

「うーん、やっぱり市場は活気があって素敵ね!」

アメリアは少し疲れた様子で苦笑した。

「……まさか本気で一軒一軒見て回られるとは思いませんでした」

「だって全部が新鮮なんですもの。見るべきものが多すぎて困ってしまうくらい」

チェチーリアの瞳は、本当に楽しげに笑っていた。

***

その頃、帝宮の塔の上――

フリードリヒは執務室の窓辺に立ち、遠く市場の方角を眺めていた。視力では到底見える距離ではないが、それでも彼はなぜか視線をそちらに向けていた。

机の上には、先ほどレイモンドが投げていった書状が一通。

『第八妃、視察中。民草に笑顔で囲まれてる模様。こっちは飽きずに見物中。――R』

雑な筆跡に呆れながらも、彼の脳裏には、笑顔で子どもたちに接するチェチーリアの姿が不意に浮かぶ。

「……やっかいな女だ」

だが、その口調に、怒気も不快もなかった。

あるのは、わずかに混じる興味――それだけだった。
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